8 そしてヤハウェはアロンに向かって語った。「そして私は、何と、私こそが貴男に私の奉納物の権限を与えた。イスラエルの息子たちの聖なる物の全てを、割当のために私は貴男に与えた。そして貴男の息子たちに永遠の命令を(私は与えた)。 9 これは貴男に属する、火よりの聖なる物のうちの最も聖なる物となる。彼らが私に戻す、それらの供え物の全て、それらの穀物の捧げ物の全てに属するもの、またそれらの贖罪の捧げ物の全てに属するもの、またそれらの賠償の捧げ物の全てに属するもの、これは貴男と貴男の息子たちに属する最も聖なる物(だ)。 10 最も聖なる場所で貴男はそれらを食べる。雄の全てはそれを食べる。聖所は貴男に属するものとなる。
ヤハウェという名前を持つ神が大祭司アロンに向かって直接語りかける場面の続きです。ここには、今日的には到底受け入れることができない古代の考え方が色濃く記されています。わたしたちは、①イエス・キリストという基準をもって、また、②近代に発生したバプテストの伝統や、③現代の人権思想を重ね合わせて、このような「難解な」聖句を解釈しなくてはなりません。旧約聖書には三重の濾過が必要です。
昔も今も宗教家は信徒の献金によって生計を立てるものです。古代イスラエルにおいても宗教家(レビ部族)には耕す土地は与えられません(20節)。8-10節はレビ部族の中の頂点大祭司の家の男性に与えられた特権を記しています。世俗の人々の神への奉納物は全て大祭司家の男性のものであるというのです。そして大祭司家のアロンの「息子たち」(8・9節)「雄」(10節)だけが、最も聖なる場所で聖なる物を食べることが許されているのです。
ここには明確な女性差別があります。アロンの息子たちと娘たちとの間に不合理な待遇瑳があるからです。女性に生まれた子孫は大祭司になることができません。ただしかし、なぜかここで神はしばしば動物に用いられる「雄」という言葉を選びます。生物学的意味を持つ、この単語を選ぶことは創世記1章27節においても同じです。すなわち「神は神の像として雄、雌、彼らを創った」とある聖句です。神は「男らしさ、女らしさ」というジェンダーを創っていません。神は「彼らを」、つまり男女という二種性別にくくれない人々をも創っています。創世記1章27節を起点に、「天賦人権説(人間は生まれながらに平等な人権を授かっている)」が生まれたことを考え併せるならば、本日の特権は全ての人間に与えられた特権です。全ての人は聖なる存在です。
「永遠の命令」(8・11・19節)は繰り返される鍵語です。「命令」(ホク)を英語でordinanceと翻訳する場合もあります。守るべき命令という意味です。バプテスト教会は、主の晩餐やバプテスマをordinanceとして実施しています。当初のバプテスト教会は英国で非合法でしたから、秘密結社のように礼拝を行っていました。その時には閉ざされた状態で自分たち教会員のみが晩餐のパンと葡萄酒をいただいていました。聖なる場所と聖なる物は教会員のみに属していたのです。わたしたちは牧師だけではなく教会員による儀式執行や、教会員だけではなく会衆全員で聖なる物を分かち合っています。わたしたちの実践は、バプテストの伝統を今日に適合しようと修正したものです。
11 そしてこれは貴男に属する、それらの贈り物の奉納物。イスラエルの息子たちの献納の全てを私は貴男にそれらを与えた。また貴男と一緒の貴男の息子たちに、また貴男の娘たちに、永遠の命令を(私は与えた)。貴男の家で清い者の全てはそれを食べる。 12 新しい油の脂の全てと新しい葡萄酒と穀物の脂の全て、彼らがヤハウェに与えるそれらの最初のもの、私は貴男にそれらを与えた。13 彼らがヤハウェのために来させる、それらの地における全ての初物は、貴男に属するものとなる。貴男の家で清い者の全てはそれを食べる。 14 イスラエルにおける聖絶物の全ては貴男に属するものとなる。
「私は貴男に…与えた」の後に「貴男の息子たちに、貴男の娘たちに、永遠の命令を」が付け加わっている構文が、繰り返されています(8・11・19節。12節は例外)。最も聖なる物ではないものについては、「貴男の家で清い者の全て」(11・13節)は、男性であろうと女性であろうと食べられるというのです。ここで初めて女性たちに門戸が開かれます。宗教的な意味でその人が「清い」か「汚れている」かの判定は、レビ記12-15章に書かれています。たとえば、血液や体液が漏出している人や特定の感染症(ツァラアト)患者は「汚れている」と判定されます。
この判定基準も、特定の病気に対する差別です。今日においても、コロナ感染症罹患者や、ハンセン病患者(らい予防法廃止後も)、被爆者/被曝者に対する差別や偏見を持ってしまう私たちにとって、他人事ではありません。ナザレのイエスが、ツァラアト患者や出血の止まらない女性を差別しないで癒したことが、わたしたちの基準です。宗教的な意味で「汚れている」人も、その逆に「清い」人も、世界には存在しません。全員神の像です。
「聖絶物」(14節)も専門用語です。古代の人々は、戦争の際に相手方を全員殺すことや、相手方の所有物を全部滅却することを、神に捧げる行為=聖絶と呼びました。自分のために使わないということが、神のためにささげることと同一視されています。滅却されるべき略奪品が大祭司の所有となるということは、大祭司が私欲のために戦争を開始することを誘発します。ここには戦争に関する一つの真理が示されています。戦争とは政府(国家権力)が開始するということです(憲法前文参照)。その原因は多分に政権と結びつく利権集団の私欲です。昔も今も「死の商人」は存在します。
15 彼らがヤハウェに近づける肉の全てに属する胎の初子の全ては、人間においても家畜においても貴男に属するものとなる。ただし貴男は人間の初子を必ず贖う。そして汚れている家畜の初子を貴男は贖う。 16 一か月の月齢以降の彼の贖い代金は貴男の評価で五シェケル、聖所のシェケルで貴男は贖う。それは二十ゲラ。 17 ただし牛の初子、あるいは羊の初子、あるいは山羊の初子(を)貴男は贖わない。彼らは聖い。それらの血を貴男は祭壇に振りかける。そしてそれらの脂を貴男は燃やす。火はヤハウェのために宥めの香りに(なる)。 18 そしてそれらの肉は貴男に属するものとなる。その献納の胸と同じく、右の大腿部も貴男に属するものとなる。
「贖う」(15・16・17節)という考え方も聖書に特徴的です。その前提となる考え方を説明いたします。まず、「最初の生命は神のもの」という考え方があります。神のものを人間は用いてはいけないので、最初の収穫(初穂)や動物の初子、人間で言えば長男を、神に捧げる必要があります。つまり宗教儀式の中で殺す/燃やすのです。ただし、これを実践することは家父長制を揺るがせます。財産は長男から長男へと相続されるべきだからです。旧約聖書は人身供犠には反対しています。そこで、代わりの生命を殺すことで、長男の死を避けるという宗教儀式が必要だったのです。それが「贖う」という行為です。
人間の長男の贖いのために何の動物が犠牲とされるべきかは、旧約聖書に明示されていません(出13章13節ほか)。「聖い」とされている「牛」「羊」「山羊」だったのかもしれません(17節)。ここには人間を含む動物の序列化があります。一位:人間、二位:聖い動物、三位:汚れている動物です。人間の身代わりに聖い動物が用いられ、聖い動物自身には身代わりは不要であり、汚れている動物の身代わりに金銭が用いられます。宗教的な意味で聖い動物/汚れている動物は、レビ記11章に列挙されています。蹄が割れて反芻する動物は聖い動物です。汚れている動物を食べることは禁止されていました。
ナザレのイエスは「人の口に入るもので汚れている物は何もない」と言われました。多分彼には動物の序列はありません。「空の烏を見よ」とまで言っているからです。ペトロは、汚れた動物を食べないという姿勢を、神に批判されます。神が良い/聖いと言っているものを人間が汚れていると言ってはいけないのです。パウロは何を食べても自由だと言い放っています。キリスト教会の基本的考え方は、人間を含む動物の序列化を止めること、何を食べても良いという自由にあります。人間を生物の頂点、地球の主役と考えることも、今日的には批判されるべきでしょう。人間だけが生態系を破壊し地球環境を汚染しているからです。
キリスト教の教えに贖罪論があります。死ぬべき罪びとである人間の身代わりにキリストが贖いの供え物となったという教えです。その基盤に、本日の聖句があることは明確です。死ぬべき罪びと=長男、贖いの犠牲獣=十字架のキリストという図式だからです。ただしかし、長男は神のもの・死ぬべき存在という考え方が無い現代において、この図式がそのまま維持できるでしょうか。自発的に友のために献身的になることは良いことですが、国家/企業/組織の犠牲となることが強要されるのは良くないでしょう。贖罪論の悪用に気を付けなくてはいけません。誰かの犠牲を必要悪としてはいけないのです。
19 イスラエルの息子たちがヤハウェのために献上する聖なる物の奉納物(を)、私は貴男に与えた。貴男と一緒の貴男の息子たちと貴男の娘たちに永遠の命令を(与えた)。これは永遠の塩の契約、ヤハウェの面前の貴男のための、また貴男と一緒の貴男の子孫のための」
「塩」は食物の保存のために用いられました(レビ記2章13節)。パン種とは逆です。種はパンを変質させるので抜くべきですが、塩は食物を保存するので入れるべきなのです。「永遠の塩の契約」という珍しい表現は、大祭司の家系と神との間の約束事は永続的に保存・維持されるべきという趣旨でしょう(歴代誌下13章5節参照)。荒野において塩は貴重品でもありました。この「永遠の塩の契約」という言葉は、ナザレのイエスの言葉と呼応しています。「あなたがたは地の塩である」(マタイ5章13節)。
日本社会においてキリスト者は貴重な少数者です。しかし社会の維持・保存にとって重要な役割を果たしていると思います。それは愛をもって祈ることと、正義をもって正す行動においてなされます。まったく地味であって、普段は知られない営みです。しかし価値は高い。この愛の無い世界に対して、「それでも世界は良い。神が良いとしている世界がこれ以上腐らないように」と祈ることにおいて、教会は地の塩です。この不正義が横行する世界に対して、「あらゆる差別を止めるように。あらゆる力関係の勾配・傾斜に注意するように」と警告を発することにおいて、教会は地の塩です。バプテスト教会はみなが祭司として祈り、みなが預言者として警告を発します。
今日の小さな生き方の提案は、地の塩であり続けることです。キリストと永遠の塩の契約を交わしたものとして、祈ること・警告することを続けていきましょう。戦争と虐殺の世界にも絶望しない、毎日苦しい日常にも希望をおいて祈ることです。また、あからさまな差別だけではなく、身近にあるささいな力の勾配に注意して、自分や誰かが「微細な攻撃micro-aggression」を被っていないか気づくこと、そして見つけたら「不快です」と言うことです。