炎の蛇 民数記21章1-9 節 2024年10月13日礼拝説教

はじめに

 本日の箇所は二つの逸話から成っています。1-3節は「聖絶」という考えに基づく残酷な物語です。4-9節は「青銅の蛇」の物語です。聖書の読み方や、神、神の民、罪、救いということについて思いを巡らせていきましょう。

1 そしてそのカナン人、ネゲブに住み続けているアラドの王は、アタリムの道(に)イスラエルが来たということを聞いた。そして彼はイスラエルと戦った。そして彼は彼より捕虜を捕えた。 2 そしてイスラエルはヤハウェのために誓いを誓った。そして彼は言った。もし貴男が確かに私の手の中にこの民を与えたのならば、私は彼らの町々を(必ず)聖絶する。 3 そしてヤハウェはイスラエルの声を聞いた。そして彼はそのカナン人を与えた。そして彼は彼らを、また彼らの町々を聖絶した。そして彼はその場所の名前(を)ホルマ(と)呼んだ。 

聖絶とは

聖絶する」(2・3節。ハラム)という言葉は古代の宗教用語です。古代の人々にとって戦争は日常的なものでした。そのために日常的な神信仰と戦争は結びつきやすいものでした。人々は戦争に勝つことを自分の信じる神に祈ります。多神教であれば大体「軍神」がいるものです。イスラエルにおいても「万軍の主」という称号があるように、神は戦争の神でもあります。

 軍神ヤハウェにイスラエルは「誓い」をたて、独特の願をかけて、戦争の勝利を祈ることがあります。願の一つが聖絶。戦争に勝った後に、負けた相手方を略奪しないという誓いです。相手の生命・身体・財産を自分のために用いることなく、神にすべてを捧げるというのです。具体的には、相手の生命を殺しつくし財産を焼き尽くし、相手の町を徹底的に破壊しつくすことです。

 巻末の聖書地図「2 出エジプトの道」に、「アラド」(1節)と「ホルマ」(3節)の位置が記されています。死海の西側、カナンの地の最南端です。もう少し北西の地中海岸沿いにガザがあります。隣のページの「3 カナンへの定住」を見ると、ベエル・シェバという町を起点に、ホルマとガザの位置が分かると思います。そのカナン人・アラドの王がイスラエルの民のうち何人かを捕虜にしたことがイスラエルの逆鱗に触れ、ホルマという町を徹底的に破壊し全住民を虐殺したというのです。どうしても一年前からガザで起こっていることを思い起こさせる内容です。原理主義的現代イスラエル人は、この聖句を根拠にしてガザに対する蛮行を続けている可能性すらあります。

 まさにそれだからこそ、わたしたちはこの聖句をどう読むのかが今問われています。それはわたしたちの日常的な信仰から、本日の聖句を解釈するという営みです。古代イスラエルが持っていた常識である聖絶と、わたしたちの常識は異なります。荒野を旅する古代イスラエルは現代イスラエル国家とは異なります。教会は荒野を旅する神の民に似ていますが、現代イスラエル国家とは似ていません。イエス・キリストは軍神ではなく平和の主です。

 冷静に捉え直しましょう。この物語はホルマという場所の名前の由来を説明する物語です(3節)。このような物語を原因譚と言います。「なぜこの場所はホルマと呼ばれるのか」という問いに対する答えです。この意味で史実である可能性は低い物語です。また旧約聖書の聖絶記事の多くには誇張があります。誇張の目的は、民族主義を強化するためのものです。ペンテコステ以降、教会は民族主義を乗り越えて信仰共同体をつくってきました。だからわたしたちは、本日の箇所を模範ではなく反面教師としてとらえたいと思います。私たちの信じる神の意思は「殺すこと」にはなく「殺さない」ことにあるのです。

4 そして彼らは、ホル、その山から葦の海の道(に)エドムの地を廻るために杭を抜いた。そしてその民の全存在〔ネフェシュ〕はその道で短くなった。 5 そしてその民は神に、またモーセに語った。なぜ貴男らはエジプトからその荒野で死ぬために私たちを上らせたのか。というのもパンが無いからだ。また水が無いからだ。そして私たちの全存在〔ネフェシュ〕は軽いパンを忌み嫌う。 6 そしてヤハウェはその民の中にその燃えている蛇たちを遣わした。そして彼らはその民を噛んだ。そしてイスラエルより多くの民が死んだ。 7 そしてその民はモーセに向かって来た。そして彼らは言った。私たちは罪を犯した。なぜなら私たちがヤハウェにまた貴男に語ったからだ。貴男はヤハウェに向かって祈れ。そうすれば私たちの上からその蛇を彼が除く。そしてモーセはその民のために祈った。 8 そしてヤハウェはモーセに向かって言った。貴男は貴男のために燃えているもの(を)作れ。そして貴男は彼を竿の上に置け。そうすれば以下のことが生じる。すなわちその噛まれている全ての者は、彼を見ると生きる。 9 そしてモーセは青銅の蛇を作った。そして彼は彼をその竿の上に置いた。そして以下のことが生じた。もしその蛇が各人を噛んだとしても、彼がその青銅の蛇を注視すると、彼は生きた。

罪とは

 青銅の蛇の物語はわたしたちの持っている罪や罪による滅びというものが何であるのか、そしてイエス・キリストのもたらす罪からの救いが何であるのかを教えています。

 罪とは無責任でわがままな言葉や態度です。イスラエルの民は、神とモーセとを並べて、「なぜあなたたちはわたしたちをエジプトから上らせたのか」と言います。自分たちの主体性はどこへ行ったのでしょうか。罪とは、自分の人生を自分で決めずに誰かが決めてくれる人生を漫然と生きることです。自分が選んでいない道については潜在的に常に不満があります。そしてその不満は、何事かが起こった時に不平に変わりやすいものです。日本社会は自己決定をさせない仕組みを作り上げています。自己決定をしない人は、自己決定をする人を、匿名で誹謗中傷しやすいのではないかとも思います。

 イスラエルの民が荒野へと脱出することのきっかけは、奴隷の民イスラエルの叫び声に神が応えたというところにあります。この叫びにイスラエルは責任を負うべきなのです。確かに神はモーセ、ミリアム、アロンを立てて出エジプトを導きました。しかし、イスラエルの民も代表者たちを立てて、代表者たちを通じて行動しています(出エジプト記18章等)。神とモーセだけを問うことは無責任です。助けてほしいと叫んだこと、自分たちの代表者を立てたこと、これらの自己決定に責任を負う必要があります。選挙で投票すること、投票結果に責任を負うことは、主権者である一人一人のつとめです。

 さらに罪とは恩知らずな態度でもあります。荒野には水もパンもないという不平は何事でしょうか。天からのパンを無償で恵みとして神は与えました(出エジプト記16章)。そのパンに感謝することを忘れて、「軽いパンを忌み嫌う」(5節)などという言葉を吐くことは、まったくの恩知らず・恥知らずです。軽いパンすらなかった辛さを思い出すべきでしょう。

 生命にせよ、空気にせよ、日光にせよ、海にせよ、神が恵みとして無償で与えたものです。その恩を忘れること・軽んじること・仇にすることは許されません。神に感謝しない言動、あまりにも身勝手なわがままな言動が罪です。そしてどんな人間も身勝手な存在、罪人です。

 罪は、自分の人生の途上で、自分の全存在を縮小し短くすることです。「その民の全存在〔ネフェシュ〕はその道で短くなった」(4節)。「私たちの全存在〔ネフェシュ〕は軽いパンを忌み嫌う」(5節)とあります。ネフェシュはしばしば魂と訳される、生命全体を指す言葉です。無責任でわがままな罪の生き方は、人生を台無しにします。長いネフェシュ=永遠の生命の正反対。全存在が短くなるとは、与えられた生命を与えられた分量のまま輝かすことができなくなるということです。そしてどんな事をもどんな人をもどんな物をも嫌悪するようになり、共に生きる事・物・人を狭くしていきます。Hate Crimeと呼ばれる罪の行為は、自分の人生の幅を狭くしています。罪とはネフェシュが短くなり、ネフェシュが何にでも唾を吐きかける状態となることです。この罪は常にわたしたちの戸口で待ち伏せしています。

 神は「燃えている蛇たち」(6節)によって罰を与えています。「燃えている」の意味するところは、傷口から炎症を生じさせる毒でありましょう。死の棘は罪です。差別する者に懲罰があることは当然です。神が正義だからです。

救いとは

 民は悔い改めました。自分たちの無責任かつわがままな言動を「罪を犯した」(7節)と正しく評価し率直に自省しています。救いの入り口は謙虚になることです。「自分には見える」と言い張らないで「自分も見えない」と認めることです。自分や他者への不平不満ではなく、自分を吟味し神に率直に罪を告白することです。神は民の悔い改めの叫びを聞き、「燃えているもの(毒蛇)」に似たものをつくるように命じました。神は民の要求である「毒蛇たちを除くこと」をしません。毒蛇たちのあるままに、毒を克服する唯一の癒しを提供します。それが一つの「青銅の蛇」を見る行為です。ここで蛇は死と生命を司っています。創世記3章で、蛇が知恵と誘惑の両面を持っているのと似ています。民数記21書で蛇は「裁きながら救う」という救いを象徴しています。ヨハネ福音書3章はこの青銅の蛇を十字架のイエスと同一視します。

 神はあらゆる不正義を許さないので罪人を罰します。無数の罪に応じた罰は必ずなくなりません。しかし同じ神は、罰を無にする道を創設します。イエス・キリストの十字架と復活です。わがまま勝手な口を閉ざし十字架に注目すること、この罪人のわたしをも諦めずに解毒してくれる救い主を信じることが求められています。十字架のイエスを遠くから見続けた女性弟子たちは、復活のイエスを見ました。復活のイエスは、裏切り否定し逃げた男性弟子たちにも見られて、聖霊を吹きかけました。イエスは追いかけて、罪を自覚する者たちに仰ぐべき復活者・救い主を示しました。彼ら彼女たちは救い主を見ました。見ただけです。それだけで救われました。呪いしか言わない口が、祝福と賛美を発する口に変えられたのです。これが救いです。永遠の命を得ること、自分のネフェシュを長くし、与えられた生命を生ききることです。救いとはネフェシュ・全存在の充満と拡大です。

今日の小さな生き方の提案

 自分自身のネフェシュの拡充を祈り、全世界のネフェシュの拡充を祈りましょう。わたしのネフェシュは渇いています。うなだれたネフェシュを他者への攻撃に向けるべきではありません。わたしたちは十字架と復活の主イエスを見て救われたことを告白しましょう。毎日同じ罪を犯す自分をなお追いかけて聖霊を吹きかけるイエスによる救いを、毎日体験し、感謝し、賛美し、そして自分と同じように隣人を祝福しましょう。