熱情の神 ナホム書1章1-10節 2023年1月8日礼拝説教

ナホムは紀元前7世紀の男性預言者です。祭司とも推測されます。彼はアッシリア帝国の首都ニネベの陥落(前612年。1章14節、2章9節、3章7節)を知っています。ナホム書は前610年ごろに書かれた預言書です。内容は、南ユダ王国を属国としたアッシリア帝国の没落を喜ぶというものです。

 ギリシャ語訳聖書はヨナ書の直後にナホム書を置いています。それは、ヨナが持つ反アッシリア(ニネベ)感情と通じるものがあるからでしょう。ヨナは寛容な神の説得によりアッシリア(ニネベ)滅亡を願うことを諦めました。それに対してナホムは現実のアッシリア(ニネベ)滅亡を「怒れる神の復讐の実現」ととらえて喜びました。神の復讐によって慰めを受け続けている人物こそ、ナホムという預言者です。罵倒によって溜飲を下げているのです。

 新約聖書の中にナホム書は一切引用されていません。イエスやパウロは復讐そのものに反対しています(ルカ6章27-36節、ローマ12章19-21節)。21世紀に「一つの本としての聖書」を読む際には、イエスやパウロの言葉や、今も続く戦争/「復讐の連鎖」という現実を無視することはできません。「復讐は神のみがなしうることである」という重しは、復讐をしない方向にわたしたちを向けます。また「敵を愛せ」という命令は、敵に対する報い方を十字架から考えるようにという方向にわたしたちを向けます。新約聖書という定規をもってナホム書から現代的指針を汲み取りたいと願います。

1 ニネベの負担。エルコシュ人ナホムの幻の書。 

 大方が「託宣」と訳すところをあえて「負担」としました。この二つの翻訳可能性を混ぜて「ニネベの裁きについての託宣」と意訳する人もいます。厳しい内容はニネベにとって負担であるという趣旨です。ナホムはニネベについての預言を使命(重荷)と感じていたかもしれません。またアッシリアはユダの大きな負担(重税/朝貢)だったことでしょう。しかしニネベやエルサレム、ひいては世界を負担しているのは、本当は神です(後述)。

「エルコシュ」がどこなのかは不明です。ニネベの北東に「アル・コシュ」という土地があり、そこにナホムの墓があるという伝説もあります。ナホムはエルサレムからエルコシュまで足を運んだ戦場カメラマンのように現地リポートをしているという場面設定ととらえます。

2 嫉妬深くまた復讐し続けている神。復讐し続けているヤハウェ。熱いヤハウェとバアル。ヤハウェは彼の仇どもに復讐し続けている。そして彼は彼の敵どもに怒り続けている。 3  諸々の怒り(について)遅いヤハウェ。そして力は大きい。そして彼は決して放免しない。ヤハウェは旋風と嵐の中に。彼の道と雲は彼の足の塵。 4 (彼は)その海の中で叱り続けている。そして彼はそれを乾かせる。そして諸々の川の全て(を)彼は干上がらせた。バシャンとカルメルは枯れた。そしてレバノンの花は枯れた。 5 山々は彼によって震えた。そしてその丘々は溶け出した。そしてその地(を)彼の顔によって彼は負担した、また世界とその中に住んでいる全て(をも)。 6 彼の憤りの前に誰が立つだろうか。そして彼の怒りの激烈の中で誰が起きるだろうか。彼の激怒が火のように注がれた。そしてその岩々は彼によって引き倒された。 

 動詞の現在進行形はそのまま名称(神の肩書)と理解できますが、あえて現在進行形のまま訳しました。ナホムはアッシリア帝国の首都ニネベが火に焼き払われている光景を目の前に見ているからです。彼にとってニネベの悲劇は今行われている「ヤハウェによる復讐」です。というのも、ナホムはアッシリアを「彼(ヤハウェ)の仇ども」「彼(ヤハウェ)の敵ども」(2節)と理解しているからです。アッシリア帝国が南ユダ王国を属国化したこと、軍事的経済的文化的に支配したことは、アッシリアの神々がヤハウェ神を服従させたことと同じだというのです。

 祭司ナホムが仕事をしているエルサレム神殿には、アッシリアの神々が祀られヤハウェ神と並んで「天の万象」が礼拝されていました(列王記下21章)。おそらくニネベの神殿にも「ヤハウェの像」が戦利品として飾られていたと推測されています。ナホムはやり返すことを是としています。目には目、歯には歯です。一時屈服させられた国家神ヤハウェが、アッシリアの国家神を屈服させるべきだというわけでしょう。

 ところでアッシリア帝国の首都ニネベを攻め落としたのは、弱小国家である南ユダ王国ではありません。メソポタミアに新たに勃興した新バビロニア帝国です。だから「アッシリア滅亡=ヤハウェの復讐」という考え方はかなりの虚構または誇張なのです。論理にずれがあります。

ナホムは国家の神であり国軍の神ヤハウェを描き、賛美します。戦火を引き起こし、全てを焼き尽くす神ヤハウェです。「バシャン」「カルメル」「レバノン」はそれぞれとても肥沃な土地です。その作物も豊かな森林もヤハウェは焼き尽くすというのです。戦争というものが悪い意味で何の区別もなく全てを焼き払い駄目にするということを、私たちは小麦高騰の事情から知っています。さらにヤハウェはバアル神のように、雨を支配し海や川を干上がらせることもできます(2-4節)。アッシリアが占領する肥沃な土地からの収穫を、ヤハウェが許さないというのです。鼻(「怒り」と訳される)を真っ赤にして憤怒の表情で戦火をまき散らすヤハウェ。その憤りの炎は地震を伴う火山噴火のようであり、吹き出す溶岩のようでもあります(5-6節)。

ナホムはシナイ山の神、カルメル山の神を知っています。地震と雷鳴を伴ってモーセに現れた「嫉妬深い神」(出エジプト記20章5節・34章14節)、エリヤに現れた「バアル神に勝る神」(列王記上18章)です。ナホムは金の子牛を拝んだ人々を大量粛清したモーセと、バアルの預言者たちを大量殺戮したエリヤの後ろに従おうとしています。しかし、現在このような神信仰のあり方を手放しに肯定することはできません。他ならないナホムの言葉によって、ナホム書を再解釈する必要があります。「諸々の怒り(について)遅いヤハウェ」(3節)、「その地(を)彼の顔によって彼は負担した。また世界とその中に住んでいる全て(をも)」(5節)という二つの言葉が鍵となります。それは続く7節の神の性質と重なり合っています。

神は基本的には怒ることに遅い方です。この言葉には現代的意義があります。怒るのに早い人は、神に似ていません。神の似姿、神の子としての自分を見失っています。いわゆるanger controlです。怒りが噴出しそうになったら6秒待つことです。それで収まる怒りは、憤り(正しい怒り、社会正義を訴える義憤)ではありません。ナホムは義憤を抱えて生きていたと思います。何十年もアッシリアによって屈辱的に扱われている現実は、神は怒るに遅いという透徹した信仰を生みました。この認識を展開することが今日の私たちの課題です。個人のレベルで怒るに遅い人となることが求められます。

世界レベルではどうでしょうか。珍しく「世界(テベル)」という単語が用いられています。しばしば「天と地」が世界の代用語ですが(創世記1章1節)、5節では天が欠けています。「顔」は臨在の象徴です。天に居られるはずの神が、地に実際に降りて来られ、地下に降らされ、その地を負担する、それによって世界全体と世界の中に住む全ての生命を負担するというのです。ここに1節「負担」の語源となる動詞ナーサーが用いられています。「負担する」という言葉が文脈上理解困難なことから、文字を交代させて「滅びる」という推読がしばしばなされています。あえて直訳し「負担する」と解します。ナホムの意図を超えて、ナホム書の良質な部分を取り出すためです。

神は世界全体を担う神です。カルバリ山で十字架を担った神は、私たちの罪、世界全体の罪を担った神です。私たちはシナイ山の神・カルメル山の神をカルバリ山のイエス・キリストから批判しなくてはいけません。イエス・キリストが啓示されたのは全世界の創造主であり、敵に対してすら寛容な神、無条件の赦しを与える神です。

7 ヤハウェは良い、災難の日における避難所のためには。そして(彼は)彼に信を置き続ける者たちを知り続けている。 8 そして洪水において(彼は)渡り続ける。結末(を)彼は彼女の場所(で)作出する。そして彼の敵どもは闇を追う。 9 ヤハウェに向かってあなたたちは何を思うのか。結末(を)彼は作出し続けている。災難は二度起こらない。 10 なぜなら諸々の茨が編まれ続けるまで、彼らの酒は飲まれ続けるからだ。彼らは完全に乾いた麦わらのように焼かれた。

 神は良い方です。私たちの内心が復讐心で煮えくり返っている時も、世界が戦争によって完全に乾いた麦わらのように焼かれた時も、神は神に信を置く者にとって避難所です(7節)。私たちは自分たち自身の災難の結末を知りません。しかし神は結末を「彼女(結末)の場所で」作出し続けています。最後の最後まで考え直し作り直し続けています。この「良い神」のことを知ることが必要です。神に信を置く者を知っている神。何とかして最後の最後まで、最後の一人までも救おうとする神。そのために茨の冠をかぶらされ、十字架に磔にされた神。イエス・キリストに向かって何を思うべきなのでしょうか。神に知られていることを知ることです。この知識、イエス・キリストを知るという知識に絶大な価値があります。ノアの洪水物語と同じく災難は二度起こりません。二度と闇を追うべきではありません。むしろ、救いの約束・光に信を置くことです。そうすれば今私たちは避難所を得ます。

 イエス・キリストの茨は今も編まれ続け、彼は今も十字架にかけられ続けています。個人レベルで私たちの苦難は続き、世界レベルで戦争や飢餓や貧困に苦しむ人々の苦難は続いています。その人々、つまり私たちの苦難に十字架の主は伴い続けています。贖いとはイエス・キリストに代わりに負担してもらうということだけではなく、贖いとはイエス・キリストと共に世界を負担すること、共に苦しむことでもあります。主の晩餐によって、ぶどう酒を飲み続けることで私たちは世の終わりまで主の十字架を告げ知らせ、主と連帯します。

 無数のキリストと共に苦しみ、キリストを避難所として生き延びる時に、わたしたちを苦しめる「敵」が変わります。闇を追っている「敵」も共に苦しむ同労者になるかもしれません。パウロのように。

 今日の小さな生き方の提案はナホムに倣わないことです。つまり自分の感情、特に怒りを肯定するために神信仰を持ち出さないことです。神は良い方、怒るに遅い寛容な方、「敵」をも贖う十字架のイエス・キリストです。私たちの感情や想像を超える良い方です。この方に知られているという恵みによって私たちは慰められ続けます。私たちを苦しめる「敵」は社会の仕組みでもありえます。ヨナやナホムは、国家によって個人の怒りをコントロールされ戦争遂行に利用されました。その結果は最悪の破局でした。ウクライナ戦争の継続や日本の軍事費倍増に私たちの感情が悪用されないように気をつけなくてはならないでしょう。モーセやエリヤにではなくキリストに従いましょう。