47 そして七年のうちに、かの地は豊富さを両手いっぱいに作り、 48 彼はエジプトの地に生じた七年(に)全ての食物を集め、町々の中に食物(を)与えた。その周辺に(ある)町の畑の食物(を)彼はその真ん中に与えた。 49 そしてヨセフは海の砂のように非常に多くの穀物を蓄えた、彼が数えることを止めるまで。なぜなら数がなくなったからだ。
ヨセフの夢解釈のとおりのことが起こりました。七年間エジプトで大豊作がありました。ナイル川の氾濫が豊かな産物をもたらします。耕す人も酪農をする人も魚を獲る人も恵みを両手いっぱいになるほど手にします。ヨセフは、すべての生産物を集めます。そのために全ての町の真ん中に倉庫を建てました。町役場の中に行政官(役人)を配置し「飢饉対応課」を設置します。飢饉対応課は中央政府の飢饉対応省の下にあります。城壁の外周にある畑で収穫される麦が、倉庫にどんどん運び込まれ、その量が中央に報告されていきます。
そのうちの一部は税です。役人たちは税の部分を王宮に運んだり役人たちや祭司たちの給与として受け取ったりします。税を引いた残りを町の人口に応じて流通させます。飢饉対応課が適正価格で農民や漁民から生産物を買い、小売店に卸売をします。給料や消費される食糧以外の作物(備蓄できる麦)を、非常に安い値段で国が買い上げます。
これは中央集権的な計画経済です。ヨセフは自由な売買を禁止しています。まず町役場を通し、国家が生産物を管理し、あるものは税とし、あるものは価格を調整した上で流通させ、あるものは買い上げて備蓄するのです。「言うは易し、行うは難し」。このシステムを機能させるためには、かなりの数の役人がすべての町に必要となります。そして、すべての町を中央政府が管理するためには、さらに中央にも役人が必要となります。飢饉対応省は、財務省・農林水産省・経済産業省・国土交通省にまたがる巨大省庁です。その頂点に総理大臣兼飢饉対応担当大臣であるヨセフが立っています。
ヨセフの最初の仕事は人事採用です。全ての町に行き、ふさわしい人物を発掘し、土木工事の監督官・穀物の管理官・会計係・統計係を任用します。こうしてヨセフに見出された役人たちはヨセフの耳となり口となり、エジプト中の情報がヨセフに寄せられ、エジプト中にヨセフの意思が伝達されます。
ヨセフは七年以内に、予定以上の穀物の備蓄を完了させます。計画は建てるだけでは画に描いた餅です。計画通りに実行させなくてはいけません。実務家としてのヨセフの本領が発揮された場面です。数える桁がなくなったので、彼は麦を数えることを止めました。そこに至るまで、緻密にすべての倉庫に備蓄された麦を数え上げ管理していたのです。
50 そしてヨセフのために二人の息子たちが生まれた、かの飢饉の年が来る前に。彼らを彼のためにオンの祭司ポティ・フェラの娘アセナトが生んだ。 51 そしてヨセフはかの長男の名前をマナセと呼んだ。「なぜなら神が私の苦労の全てを、また、私の父の家の全てを忘れさせたからだ」。 52 そして二番目の名前を彼はエフライムと呼んだ。「なぜなら私の不幸の地で(ベエレツ・オニ)神が私を実らせたからだ」。
さてそのような忙しくも楽しい毎日を過ごしているヨセフに、子どもが与えられました。妻アセナトは飢饉の年の来る前に、つまり結婚して七年以内に二人の息子を生みました。この出来事は、ユダに二人の息子が与えられたことと重なります(38章27節以下)。どちらも父親が名付けをしています。父親の名付けという主題で、イサク(25章。ヤコブの名付け)、ヤコブ(35章。ベニヤミンの名付け)、ユダ(38章。ペレツとゼラの名付け)、ヨセフ(41章。マナセとエフライムの名付け)が鎖のように繋がります。特にここではヤコブがベニヤミンという名前をつけたこととの関係を重視します。なぜなら、ベニヤミンとヨセフが同じ母親ラケルから生まれたからです。ヨセフは、母ラケルの死と、弟ベニヤミンの誕生と命名を、その目の前で見ていたと推測します。
エジプトの総理大臣ツェファナト・パネア(ヨセフ)は、ヘブライ語の名前を子どもに付けます。異例です。後に、ヘブライ人モーセは、エジプトの王女からエジプト語の名前を付けられています。勇気の要る行為をヨセフはあえて行っています。それほどにこの子どもの出産が嬉しかったのでしょう。信仰に根ざした、意味深な名付けを母語(ヘブライ語)でヨセフは行っています。
マナセは「忘れさせる」という意味です。なぜなら神がヨセフに、全ての苦労を忘れさせたからです。全ての苦労というのは、兄弟たちに半殺しにされエジプトに売り飛ばされたこと、苦労してエジプト語を習得しながらポティファル家でがむしゃらに働いたこと、それにもかかわらず冤罪を被り監獄に軟禁させられたことなど、今までの人生をすべて含みます。ヨセフは、「子どもが与えられて今までの苦労が吹き飛んだ」というのです。
もう一つ吹き飛んだものがあります。それは「父の家」です。「あなたは行け、あなた自身のために。あなたの地から・あなたの親族から・あなたの父の家から、私の見せる地に向かって」(12章1節私訳)。この言葉は、ヨセフの曽祖父アブラハムに対して、出メソポタミアを命じる神の命令です。ヨセフはアブラハムの心境になっていたのかもしれません。自分がカナンの地を離れて、エジプトでエジプト人と結婚して、経済的にも精神的にも文化的にも完全に「父の家」から独立したと思ったのでしょう。
実際、ヨセフの代になって初めてこの家族は「父の家」(メソポタミアに住む親族との関係)からの独立ができました。ヨセフとユダの非メソポタミア系国際結婚です。他の兄弟たちは、メソポタミアの女性や異母姉妹と結婚していたかもしれませんが、実質的長男ユダとヨセフが家族代表です。ヤコブの子どもの世代で初めて「父の家」と呼ばれるメソポタミアとの関係が切れます。アブラハムへの命令を、ヨセフとユダが完全に実行したのです。創世記を読む一つのコツは、このように「物語の弧」を意識することです。かつて投げられたボールが放物線を描いてどこに着地するのかを知ると楽しくなります。
二人目の名前エフライムは「実る」という意味です。背景には、穀物倉に麦がどんどん増えている様子があります。そしてここには母ラケルに対する思い出も込められていると推測します。ラケルは、死に際して夫ヤコブを「ベン・オニ(私の不幸の子=私の苦労の元)」と呼びました(35章18節)。その批判を受けて、ヤコブは末息子をベニヤミン(幸運の子)と名づけます。同じ「私の不幸(オニ)」が用いられています。ヨセフは、この情景を覚えています。ラケルが死ぬ時に、苦労続きの人生の結果エフラタという外国の町で死ぬことを「私の不幸」と言っていたことを思い出しています。
長男の誕生時に「神が父の家を忘れさせた」と言い切っているので、ヨセフは母ラケルのようにヤコブを恨んでいるわけではありません。むしろヨセフは、エジプトの地においてラケルが呼ぶような「私の不幸」を経験したということを、振り返っています。実際彼は苦労続きの人生の結果外国で死にかけました。ラケルに似ています。しかし神は、そのような逆境の中で大逆転を生じさせ、彼に二人も子どもを与えてくれました。これも一部ラケルに似ています。ヨセフは不思議な神の導きを思い起こししみじみと感謝をしているのです。
日本語においても「苦労が実った」と言います。神が不幸を通じて、不幸の只中で働いてくださり、一粒の麦を三十倍・六十倍・百倍に増やしてくださいました。エフライムはエフラタの男性双数形です。両者は同根の固有名詞です。エフラタで死んだラケルを記念して、ヨセフは二人分の命という意味を込めてエフライムと名付けたのかもしれません。
マナセとエフライムという二人の息子を見るたびにヨセフは自分の幸福をかみしめます。ヨセフも一夫一婦制を採っています。一夫多妻制のもと、異母きょうだい同士の葛藤が起こりやすいことを、ヨセフも(イサクと同様に)気づいています。父ヤコブが母ラケルとだけ結婚し、弟ベニヤミンを含めて四人だけで生活できたらと、ヨセフは思っていたのかもしれません。仕事も家庭も順調。これは幸せそのものです。
53 そしてエジプトの地に生じた、豊富さの七年が終わり、 54 ヨセフが言ったとおりに飢饉の七年の来ることが始まり、諸々の地の全てで飢饉が生じた。そしてエジプトの地の全てでパンが生じ、 55 エジプトの地の全ては飢え、かの民はファラオに向かってパンのために叫び、ファラオはエジプトの全てのために言った。「あなたたちはヨセフのもとに行け。彼があなたたちのために言うこと(を)あなたたちは行うべきだ。」 56 そして飢饉は地の表の全ての上に生じ、ヨセフはそれらの中に(ある)全てを開き、エジプトのために穀物を売買し、かの飢饉はエジプトにおいて強くなった。 57 そして地の全てがエジプトへと穀物を売買するためにヨセフのもとに来た。なぜなら、かの飢饉が地の全てにおいて強かったからだ。
大豊作は終わり大飢饉が始まりました。ヨセフの予測はあたりました。エジプト中すべての地域で飢饉は起こったのですから。しかし、予測以上のことも起こっています。それは飢饉が、エジプトだけではなく古代東地中海世界全域に起こったということです。その中でも、エジプトは最初に飢饉が起こった地域であり、しかもエジプトで飢饉は最も激しかったように思えます。
エジプトの人々も飢えます。そしてファラオに叫びます。「今日生きるためのパンをくれ」。もちろんファラオに叫ぶというのは王宮まで人々が押し寄せたということではありません。町役場の役人たちに訴えたのです。その要望はヨセフに報告され、ヨセフからファラオに届けられ、ファラオからヨセフを通じて町役場に下ろされていきます。「ヨセフの言葉に従え」。ヨセフは、すべての町の真ん中にある倉庫の備蓄量を管理しています。倉庫を開き七年前の麦から順に、役人が人々に売っていきます。ただで配ったのではありません。ヨセフは、大豊作で人々の財布に余裕があることを知っています。
やがてエジプト以外の地に住む者たちも、エジプトが麦を売っているということを聞きつけます。エジプト人にだけ配っているのなら、麦を分けてもらえないかもしれません。しかし売っているのならば、銀さえ支払えば外国人も麦を買うことができるかもしれません。物語はさらに劇的な展開へと続きます。
今日の小さな生き方の提案は、神は私たちの苦労を忘れさせ、苦労を実らせる方だと信じることです。ヨセフほどの波乱万丈を私たちはおそらく経験しないでしょう。ヨセフを救い、ヨセフに人並みの幸せを与えた神は、私たちにも同じように救いをお与えになります。聖書の物語は、私たちが信じて読むときに自分の身に実現します。礼拝の中で、共に読む時に私や私たちの物語となってよみがえります。誰かに突き落とされた人がここにいるかもしれません。誰かに裏切られた人もいるかもしれません。何だかうまくいかないという最中にいる人、誰も見てくれないと思っている人もいるかもしれません。神は苦労を忘れさせ苦労を実らせます。信じて聖書を読みましょう。