35 さて日が来て、二人市長たちは杖官たちを遣わした。曰く「あれらの人間たちをあなたは解き放て。」 36 さて看守はこれらの言葉を以下のようにパウロに伝えた。「二人市長は、あなたたちが解き放たれるために遣わした。今やそれだから出て行ってあなたたちは平和のうちに歩め。」
あの大きな地震から一夜明けました。フィリピの二人市長は杖官たちを牢獄に遣わします。杖官たちは牢獄の看守に「あれらの人間たちをあなたは解き放て」(35節)と命じます。昨晩キリスト者となった看守は喜びます。パウロとシラスが解放され、自由な身となって礼拝を共にしたかったからです。看守は行政上の通達という職務以上の言葉を発しています。「今やそれだから出て行ってあなたたちは平和のうちに歩め。」(36節)
「安心して行きなさい」(新共同訳)と訳される「平和のうちに歩め」は、ルカ文書においてはルカ福音書7章50節と8章48節に登場します。どちらもイエスの言葉であり、どちらも日常生活に苦悩する女性に向かって、「あなたの信があなたを救った」という言葉に続けて語られています。つまり、ここで看守はイエスの役割を担い、パウロとシラスは救われた女性たちの役割を担っています。地震の際に逃げなかった「信」(信頼に値する誠実な態度)が、パウロとシラスを救い出しました。またイエス・キリストを信じる信仰を与えられた看守が、今度はイエス・キリストの言葉(福音)を伝言する人に変えられたのでした。
パウロとシラスは看守がイエスの言葉を早速使っていることに喜びます。しかしそれと同時に、看守を使って杖官に伝言します。二人の背中を容赦なく鞭や棍棒で打った、フィリピの町の第二位の権力者たちです。彼らは細い棒を束ねて赤い紐をぐるぐると巻き付けて縛った独特の杖を持っていたので杖官と呼ばれていました。その赤い杖は権力の象徴であり、暴力行使の権限を持っていることを示しています。看守は上司である杖官に対して、恐怖と戸惑いを抱えながら、パウロの言葉を伝えます。後に別件でローマ皇帝にまで上訴するパウロという人の特徴が現れている逸話です。大人しく釈放されるのではなく、筋を通さないと気が済まないのです。看守としては事を荒立てなくても良いのではと心配していたと思います。
37 さてパウロは彼らに向かって言い続けた。「わたしたちを人前で打って、裁判なしに、ローマ人であり続けている人間たちを、彼らは牢の中へと投じた。そして今や密かにわたしたちを彼らは投げ出すのか。否、駄目だ。むしろ彼ら自身が来て、わたしたちを導き出すべきだ。」
「彼らに」とあるのは「杖官たちに」という意味でしょう。そして、「彼らは」とあるのは「(杖官たちと)二人市長たちは」という意味でしょう。杖官たちは驚いたと思います。というのも、ローマにはポルキウス法という法律があり、ローマ人の身体を杖官の暴力から保護していたと伝えられているからです。キケロという人とリヴィウスという人がそれぞれの著作の中で次のように言っています。「ポルキウス法はすべてのローマ市民の体から棍棒を遠ざけ・・・市民の自由を杖官から取り戻した」(キケロ)。「ポルキウス法は見るところ、市民の背を保護するために制定され、ローマ市民を鞭打ったり、あるいは殺害した者は誰であれ重刑に処せられることを規定した唯一の立法である」(リヴィウス)。
看守は驚きます。パウロとシラスに向かって「なぜあなたたちはローマ人であることを黙ったまま鞭打たれ投獄されたのか」と問います。シラスは「十字架のキリストに倣うため」と答えたでしょう。あのひどい裁判によって冤罪を被せられ鞭打たれ茨の冠を被せられ嘲られたイエスに従うということです。それに加えてパウロは、「杖官や二人市長の良心を試すため。福音を伝えるため」と答えたことでしょう。ユダヤ人ならば好き勝手に棍棒で殴って良いのでしょうか。ローマ人の背中だけが保護の対象とされるのは不当ではないか。イエス・キリストの福音にあって、もはやユダヤ人もローマ人もありません。
「わたしたちはローマ人であることを自由に棄てることができる。そんなものは糞土のようなものだ。ローマ人であることを誇りに思っているフィリピの権力者たちよ、イエス・キリストの与える自由を知れ。これこそ福音であり、牢によって縛られない自由をわたしたちは持っている。誰が神の愛からわたしたちを引き離すことができるだろうか。」
看守は深い感銘を受けて上司である杖官に、教友であるパウロとシラスの言葉を伝えます。杖官たちは自分たちがポルキウス法を違反したことを知ります。彼らは自らの不祥事をもみ消すこともできました。しかし行政官として彼らは誠実でした。違法な行政処分をしてしまった場合、行政は処分を取り消し、不利益を被った市民に対して賠償をしなくてはなりません。賠償の中には市民の要求に応えるということも含まれます。「長たる者自らが来て違法性を認めて釈放し、囚人とされた者たちの名誉を回復すること」が、パウロとシラスの要求です。杖官たちは自分たちの懲戒の可能性も含めて、上長である二人市長たちの決裁を仰ぎます。
この場面にはイエスの裁判との違いも垣間見えます。ユダヤ自治政府の統治が、ローマ帝国やフィリピ市の統治よりも未熟であることも分かります。「法治」と「人治」の違いです。誰にでも当てはまる法律によって統治することが「法治」であり、特定の人が任意で統治することが「人治」です。人治においては、法律すら特定の人(独裁者)が任意で変更することが認められます。21世紀に生きるわたしたちも、果たして「法治」という成熟を身に着けているかが問われてもいます。
パウロという人が「ローマ市民権を伝道のために大いに用いた」という側面だけではなく、パウロがユダヤ人の法である「モーセ五書(トーラー)」と、ローマ人の諸法律とを自在に用いることができたということにも注目したいものです。わたしたちも聖書という法と、この世界の諸法律を身に着け、自在に用いることが大切です。法治の感覚を身に着け、条文を知ることが自分の生命を守ることになるからです。
38 さて杖官たちは二人市長たちにこれらの話を伝えた。さて彼らは、彼らがローマ人であるということを聞いて、恐れた。 39 そして来て、彼らは彼らに勧告した。そして導き出して、彼らは街から出て行くことを頼み続けた。
こうして攻守は逆転します。法治を身に着けた二人市長たちは、あの大祭司たちのように不都合な人物を抹殺することができません。「ローマ人である」(38節)という要件を満たしているパウロとシラスには、効果として拷問を受けない権利や裁判を受ける権利が発生しています。法律は、要件と効果です。彼らは自分たちの処分の違法性を知って恐れます。ローマ人であるかどうかを調べない適当な手続によって、ローマ人に対してすべきでない厳しい行政処分を下してしまった間違いを認めます。法律に対する畏敬からです。
39節「勧告した(パラカレオー)」は謎の言葉です。この「勧告した」は40節にも登場するので謎が深まります。もしも主語の「彼らは」がどちらの節もパウロとシラスならば分かりやすくなります。パウロとシラスは、二人市長にも説教をしたということになります。文法的には難しい解釈ですが不可能ではありません。牢屋で囚人が市長たちに向かって「あなたはもっと優秀な行政官になりなさい」と説教をしたというのですから傑作です。
素直に主語が二人市長だとする場合、市長たちが囚人に何を勧めたというのでしょうか。その場合には町から出て行くことの勧告でしょう。行政のトップはまだ恰好をつけています。処分の違法性は認め、即時釈放し、二度と間違えないことを約束しつつ、あなたたちもこの町を出て行ってほしいと勧めるのです。パウロとシラスは、「それも筋違いだ」と反論したことでしょう。そこで、市長自らが二人を釈放し、「町から出て行くことを頼み続けた」のでしょう(39節後半)。その際に、賠償金や教会を迫害しないことの約束をとりつけている可能性はあります。つまりこの「勧告した」という謎の言葉の存在が、両者の間に交渉があったことを推測させています。
40 さて牢から出て来て、彼らはリディアのもとに入って来た。そして見て、彼らは兄弟たちを勧告した。そして彼らは出て来た。
釈放されたパウロとシラスは、看守との別れを惜しみながら、囚人仲間にも挨拶を交わし、背中の痛みをこらえてリディアの自宅に向かいます。そこには「兄弟たち/姉妹たち」と呼ばれる教友がいました。もちろん医者のルカもいます。パウロとシラスを心配して、リディアの家で夜通し祈っていたのでしょう。また、地震の被害に遭って広いリディアの家に避難した者たちもいたかもしれません。教会員で集まれる者たちは自分の仕事を打ち捨ててリディアの家にいて、パウロとシラスを出迎えました。
パウロとシラスは、自分たちが受けた傷を看守が洗ってくれたこと、地震をきっかけに牢獄と一体化している看守宅が「家の教会」となったこと、二人市長たちといくつかの取り決めをしたこと、何よりも神が守り導いてくれたことを、教会に報告します。「イエスは主であるという賛美の上に、主イエスが座して、正しい裁きを下しました。フィリピの町でユダヤ教正統からの妨害はもはや起こらないでしょう。仮に迫害され投獄されても、看守はキリスト者です。何くれとなく親切をしてくれるはずです。」
嬉しい報告は、イエス・キリストの救いを証しする証言となり、力強い勧告となります。「主に向かって新しい歌を賛美しつつ平和のうちに歩みましょう。ピュトンの霊に憑かれた少女が解放され自ら名づけをし、自由の身となったことについて主を賛美しましょう。看守宅が教会となったことについて主を賛美しましょう。行政が教会を合法としたことについて主を賛美しましょう。人災・天災に遭っても共に祈り合い支え合う仲間がいることについて、主に賛美しましょう」。体の弱いパウロの声はか細いものですが、しかし勧告の内容は骨太です。伝道者パウロは弱い時にこそ強い不思議な魅力を持っています。
今日の小さな生き方の提案は、平和のうちに歩む/暮らすことです。イエス・キリストの福音を信じることによって平和が与えられます。この平和は平穏とは異なります。ピュトンの霊に憑かれた少女や牢獄の看守や紫布商人リディアや医者ルカたちフィリピ教会員の日常生活は、ある意味で不穏になりました。パウロやシラスの活動に巻き込まれて行くからです。しかしそれは楽しい生活です。キリスト者として生きる時に、自分の存在が尊重されるからです。あの少女も自由にされ、看守も生命を救われました。小アジア半島出身のリディアもマケドニア人ルカも平等と自己実現を教会で体験しました。外から見ると騒がしくても、そこに平和があります。真っ直ぐという道を歩み、イエスの言動を法とするからです。常に新鮮な驚きが聖書にあり、聖書に従う時に与えられます。祈りの課題が突き付けられ、共に嘆きうろたえ、共に賛美し、大逆転を報告し合い、パンを分かち合う。この騒がしさに平和があります。