はじめに
パウロはローマの教会員たちの協力を得て、自宅(監視付き)にユダヤ人の会堂長たちを招いて伝道説教をします。今日はその続きです。今日の箇所は使徒言行録の最後でもあります。物語の結末というものは物語の冒頭と関係します。不思議な終わり方に込められたメッセージを読み解きたいと思います。
23 さて彼のために彼らは日を定めて後、より多くの者たちが彼のもとに客となるために来た。その彼らのために彼は外に置き続けた、神の支配を証言しながら、またモーセの律法と預言者たちと双方により、イエスについて彼らを説得しながら。朝から晩まで。 24 そして一方幾人かは言っている事々に説得させられ続けたが、他方幾人かは信じ続けなかった。 25 さて相互に向かって不調和でありながら、パウロが以下の一つの言葉を言った後、彼らは三々五々散った。その聖なる霊は預言者イザヤを通してあなたたちの父祖たちに向かって正しく話した。
論争
23節「彼」はパウロ、「彼ら」はローマに住むユダヤ人会堂長たちです。イエス・キリストがイスラエルの希望であるという言葉に引っかかった彼らは、その他の人々(「より多くの者たち」比較級)も連れて、再びパウロの自宅に来ます。この時は二度目なのですからローマ教会員たちはいなかったと思います。パウロだけが一人、より多くの者たちのために「外に置き続けた」というのです。自分の内側にあるものを、すべて外側にさらしだす行為、自己開示するという意味です。
推測すると、タルソという小アジア半島キリキア地方の中心都市で生まれ育ったこと、姉夫婦を頼ってエルサレム留学を少年期にしたこと、ファリサイ派の大律法学者ガマリエルの弟子となったこと、極右民族主義青年となりステファノをはじめとするナザレ派(キリスト教)を迫害したこと、復活のイエスに出会って回心したこと、一時タルソに帰ったこと、アンティオキア教会に拾われたこと、バルナバとマルコと共に各地でキリストを宣べ伝えたこと、シラスやテモテやルカやアリスタルコらと伝道したこと、エルサレムで逮捕され裁判にかけられたこと、カイサリアで皇帝に上訴しローマにいることなどなど、離散ユダヤ人であるキリスト者パウロの人生をすべて開示したと思います。
彼の人生は「神の支配」「モーセの律法と預言者たち」「イエス」を抜きに語れません。神の支配とは、イエスの始めた仲間と共に食べる運動体であり、教会が引き継いだ食卓を囲む共同体です。律法と預言者たちとは、聖書のことです。イエスとはキリスト、パウロの主、イスラエルのメシア、世界の救い主のことです。これらを、朝から晩まで丸一日かけて証言し続け説得し続けるのです。「わたしの人生から言えることは、イエスが主であること、聖書がイエスをキリストと示していること、そのイエスを礼拝する群れに加わることに幸いがあるということだ」。ある人は説得されイエスをキリストと信じ、ある人は決して説得されずに信じないままでした(24節)。二つに割れた彼らの間で議論が起こります。同じ離散ユダヤ人のパウロの言葉は説得力がありました。ただ一方で救いを受け入れるかどうかは聖霊の働きによります。
パウロがイザヤ書6章9-10節を引用した後に、これがきっかけとなって、ローマ在住のユダヤ人代表者たちは、三々五々帰って行きます。新共同訳聖書は29節を巻末に移動し底本にないことを示しています。29節は、パウロの言葉の後にユダヤ人たちが解散したことを説明しているので重要です。25節もそのように理解するべきです。パウロの言葉が対話の終わりを促しました。
26 曰く、あなたはこの民に向かって行け。そしてあなたは言え。あなたたちは聴くに聴くだろう。しかしながらあなたたちは決して理解しない。またあなたたちは見るに見るだろう。しかしながらあなたたちは決して認めない。 27 というのもこの民の心が太ったからだ。また彼らがその耳で聴きがたかったからだ。また彼が彼らのその目を閉ざしたからだ。今後決してその目で彼らが見ることがなく、またその耳で彼らが聴くことがなく、またその心で彼らが分かることがなく、彼らが立ち帰らないためだ。そして私は彼らを癒す(こともない)だろう。 28 それだから以下のことがあなたたちに知られよ。すなわち、この神の救済はその諸民族に送られた。彼らこそが聴くだろう。 〔29 そしてこれらの事々を彼が言った後、そのユダヤ人たちは散った。彼ら自身のうちに多くの論点を持ちながら。〕
イザヤ書6章9-10節
パウロよりも800年も前に生きていた預言者イザヤは、神によってとても皮肉な仕事を負わされました。「語れば語るほど聞き手が拒否するような言葉を語り続けなさい」。それが預言というものなのです。たとえばイスラエル民族主義者に「イスラエルはすごくない。経済力で隣国に抜かれる。敵国に軍事征服される」ということです。非常に逆説的な、皮肉交じりの教育手段です。この挑発に耐えて、「なるほど一理ある」と冷静に自分を顧みる精神を持つことが、人間の成長や人生の豊かさにつながるからです。自己否定を潜り抜ける自己肯定を悔い改めとも言います。
「時は満ちた。神の支配は近づいた。あなたたちは悔い改めよ。あなたたちは福音を信ぜよ」(マルコ1章15節)と言ってイエスは、預言者の精神を引き継いで、共に食べる運動体を創りました。この運動に与さない者を、イエスは同じイザヤ書6章をもって裁きます(同4章12節)。それは逆説的なかたちの熱烈な招きです。「どうせ分かろうとしないだろうが、知らないということを知るように」。パウロもイザヤとイエスを引き継いで、皮肉な語り口でユダヤ人たちを招いています。
わたしたちの福音宣教はどうなのでしょうか。世相に倣って「日本人すごい」と言えば受けが良いかもしれません。しかしそれでは根源的な人間の悔い改めや人生の振り返りは起こらないでしょう。「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか」という問いがやはり必要です。聞いたつもり・見たつもり・知ったつもりで正しいと信じて行なったら、全く逆だったという悔い改めがパウロの心の内にあります。パウロは自分の身に起こった救いがここでも起こるようにと熱心に伝道をしているのです。彼はイザヤ書の引用においても自己開示を続けています。
「この神の救済はその諸民族に送られた」(28節)。この事実をユダヤ人も謙虚に受け入れられるのか、自分たちも諸民族の一つにへりくだることができるのか、悔い改め福音を信じることができるのかが、ローマのユダヤ人たちに問われたのです。そして幾人かはこの問いを胸に帰宅し、ナザレ派へと転向していったと思います。アクラ・プリスキラ夫妻の家の教会や、使徒ユニアの家の教会に連なっていったことでしょう。この個所は決して喧嘩別れのように解してはいけないと思います。ユダヤ教会堂とローマ教会の葛藤は語られていません。開かれたままの結末なのです。
30 さて彼は丸二年自分の借家に留まった。そして彼に向かって入って来る全ての者たちを彼は歓迎し続けた。 31 その神の支配を告げながら、また主イエス・キリストについて教えながら、全く堂々として妨げなしに。
パウロの最後と物語の結末
ローマ到着の二年後にパウロはローマで死んだようです。「歓迎し続けた」という未完了過去時制(過去から過去まで)は、パウロの死を前提にしています。伝承によれば、パウロは後64年ローマ皇帝ネロによって斬首刑で殺されています。そうかもしれません。奇妙な終わり方です。というのもこれまでパウロは(または著者ルカは)ローマ皇帝への上訴ということを重要視してきたからです。せめて裁判の場面、死刑の場面等が描かれるべきではないかと思うところです。なぜこのような終わり方なのでしょうか。
後書きは前書きと関連します。結末は冒頭と関係づけて読まれるべきです。「開かれた結びOpen Ending」は、物語の最初は何だったのかという読み直しへと読者を向かわせます。ルカ文書の冒頭はクリスマス物語(救い主の誕生)です。使徒言行録の冒頭はペンテコステの物語(教会の誕生)です。この二つの誕生物語に共通していることは諸民族から成るローマ帝国(世界)への意識です。ローマ皇帝アウグストゥスへの言及や、ローマ帝国内のさまざまな言語・民族からなる初代教会の誕生は、当時の「全世界」であるローマへの意識です。フィリピの町出身のギリシャ人キリスト者ルカは、ナザレのイエスを信仰するキリスト教が、ローマ帝国でめざましく拡大している理由を描きたかったのです。理由は明確です。イエスも教会も民族主義を超えているからです。
<どんな人も神の前に悔い改めて、イエスの食卓を囲んだパンを裂く交わりに加われば、神と人とを愛することができる。キリストの愛に倣う隣人愛は当然に民族主義を超える。「テオフィロ(神を愛する者)よ」(ルカ1章3節、使徒1章1節)。>これはルカ自身の救いの証です。彼はパウロの弟子ではありませんし、パウロの伝記を書きたかったわけではありません。諸民族に送られた神の救済を描きたかったのです。神に愛され、神と人を愛する救いです。
使徒言行録の最後の二つの単語は「堂々として」「妨げなしに」という副詞です。「堂々として」はルカの常套句です。パウロの最後の二年間がいつもと変わらないあり方だったことを示しています。その一方で「妨げなしに」は新約聖書の中で唯一の単語です。最後の単語はとっておきの言葉。ここにルカの言いたいことが込められています。囚人であっても自由だということです。すべての人に与えられた救いは、何にも邪魔されません。身体が拘束されても、神に愛され、神を愛すること・隣人を愛すること・イエスをキリストと告白し証言し伝道することはできます。パウロのように。
今日の小さな生き方の提案
「何と、水が。私が沈められることを妨げるものは何か」(使徒8章36節、私訳)。救いはその人が信じた時に即座に与えられるものです。あなたの信があなたを救う。邪魔するもの/妨げとなることは何もありません。救い(心に与えられる自由、安心感、解放、永遠の生命)は平等で普遍的です。物語の結末にあたり初心に戻ることが求められています。神に愛され神を愛する者たちよ、エチオピア人やギリシャ人や離散ユダヤ人が経験した救いを思い起こしましょう。進んで自己開示していきましょう。自分がどこからどこへと救われたのか、どのようにしてバプテスマに導かれたのか、堂々と妨げなく。