今日の箇所は前半(32-36節)と後半(37-39節)に分かれています。前半は「ユダヤ人権力者たちのイエスの言葉に対する無理解」というお話、後半は「仮庵祭七日目におけるイエスの説教」の場面です。それぞれに説明をして、今日のわたしたちにとってどのような意義があるのかということを分かち合います。
前半は、イエスを逮捕しようとした下役/ユダヤ人権力者たちに対する、イエスの言葉を軸に話が進んでいます。それが33-34節です。「今しばらく、わたしはあなたちと共にいる」ということは、十字架で殺されるまでは地上で過ごすということ、かつて天にいた神の子が人の子らと共に暮らすということを意味します。「それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」ということは、十字架と復活を経て、神の懐に帰るということを意味します(1:18参照)。以前申し上げたとおり、懐にいるという事態は、食事の時に隣に伏して食べるということを含みます。神と神の子の食卓が天にあり、それを模範とした人の子イエスと人の子らの食卓が地上で実現していたのでした。
「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることができない」ということは、一つの皮肉です。逮捕するために捜索して見つけ出した人たちの前で、「今は見つけられたけれども、それができなくなる時が来るよ」と答えているからです。「わたしのいるところに来ることはできない」ということは、天における神と神の子の交わりを邪魔することは誰もできないという意味でしょう。
だからイエスの言いたいことは、自分が神の子であるということです。神から遣わされた者であるということです。しかもその派遣の目的は世界の救いである十字架と復活です。「特別な仕事をもって遣わされた神の子と、あなたたちは面と向かっているのですよ」と、イエスは言いたいのでしょう。
例のごとく、この物言いは相手には伝わりません。36節でオウム返しされているように、イエスの言葉がどういう意味なのか、ユダヤ人権力者には分かりません。イエスを殺そうとしている者たちは、イエスが殺されるために来たということを理解しないのです。自分たちがイエスを殺すということで、自分たちも含め全世界が贖われ救われるということが起こるなど想像もできません。
理解しないばかりではなく誤解すら起こしています。「ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか」(35節)というのは誤解です。ただし、この誤解の内容はかなり細かい描写です。「異邦人伝道」という歴史的事実を知っている人の書きぶりです。ここは著者の言いたいことが書かれている可能性が高いでしょう。
初代教会/原始キリスト教にはいくつもの分派がありました。最初は少数派でしたが最後には正統派・多数派となったパウロの集団(ルカも近い)や、ペトロや主の兄弟ヤコブの権威によるエルサレムの集団(マタイも近い)、両者に対して批判的なマルコの教会やヨハネの教会、さらに文書を残さなかった多くの分派が存在しました。そしてパウロの集団は、積極的に「ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教える」という伝道をしていたのです。
ヨハネ福音書の著者は、ユダヤ人権力者の口に35節の発言を言わせることによって、パウロの集団を遠回しに批判しているのかもしれません。経済的にも政治的にもより豊かなギリシア語圏の男性たちに伝道をする前に、「サマリア人」や「女性」という、虐げられていた人々に伝道をする方が先ではないのかと、ヨハネはパウロに言いたいと推測します。ヨハネ福音書だけがイエスのサマリア人伝道を記し、ベタニヤのマルタやマグダラのマリアら女性弟子の活躍を記しているからです。
この前半部分はわたしたちに教会の交わりというものの本質・特徴を教えています。ファリサイ派・祭司長たち・下役というユダヤ人権力者側の男性たちは、組織としての上下関係をはっきりと持って行動しています。また、ユダヤ人と非ユダヤ人という民族主義をはっきりと持っています。それに対して、三位一体の神の交わりや、イエスを中心にした交わりは異なります。神と神の子は対等であり、イエスの周りにはユダヤ人・サマリア人、大人・子ども、男性・女性、健常者・しょうがい者などが対等に食卓を囲んでいました。
キリストの教会は地上に立っている限り一つの組織です。組織である限りにおいて教会の中でも誰かに力を委ねることがあり、誰かが力を持つことがあります。力の有無によってある種の上下関係が生まれます。会社ほど上下が露骨でないとしても(イエス逮捕の指示は露骨な命令です)、たとえば牧師に説教をさせるということは、20分話すという力を与えているわけです。ここに注意が必要です。あらゆる組織は力の濫用に気をつけるべきです。キリストの教会は特に細心の注意をはらわなくてはいけません。任意団体として対等の交わりをつくること、地上の組織らしからぬ簡素な交わりをかたちづくることが求められます。それは「なるべく日曜日の礼拝だけ」の教会です。そうすれば平日働いている人たちも集まりやすいように思えます。バプテストの教会にとってこのことは新しい挑戦でしょう。
後半の仮庵祭七日目におけるイエスの説教についてみてみましょう(八日目とする学説も有力でしたが、七日目で良いと思います。文脈に影響しません)。この箇所は金太郎飴のようにすでに何回も登場した主題を取り扱っています。飢え渇いている者がイエスを信頼してイエスのもとに来ると、永遠に飢えなくなる、永遠に渇かなくなる、永遠のいのちが与えられるという話です。何回も取り上げられているということは、わたしたちにとってありがたいことです。いったいどのような意味なのか参考にする手がかりが多くあるからです。
4:14は今日の箇所とそっくりです。サマリア人女性の渇きを癒すことができるのはイエスであるし、イエスと対面する礼拝であるということを教える物語です。6:35もよく似た箇所です。飢えた群衆にイエスがパンと魚を配り、自分がいのちのパンであることを告げ、「自分の肉を食べろ、自分の血を飲め」と勧め、主の食卓に連なることを教える物語です。この二つの箇所は、礼拝共同体である教会に連なることを勧めています。だから、素直に読めば今日の箇所も教会に連なることを勧めていると推測できます。
人生には飢え渇きがあります。どうしても満たされないこと、困ってしまうこと、渇いてしまうことがあります。聖書は人間のそのような状態を「義に飢え渇く」と表現します(マタイ5:6)。聖書で言う「義(ヘブライ語ツェデク)」には「救い」という意味が含まれます。人間の側から見れば「救われる権利」とも言い換えることができます。憲法で言う「生存権」です。英語のrightが、「正義」と「権利」とどちらも意味することと似ています。
本来ならば救われる権利を持っているはずなのに、当然に人として尊重されるべきなのに、なぜか人生の苦しみに直面したり、不当に貶められたりする時に、わたしたちは義に飢え渇くのです。貧しければその確率は高まりますが、富んでいても変わりません。貧富と関係のない種類の苦労もありうるでしょう。また、もしその人が世界に目を向けるなら、自分の義は満ち足りていても、隣人の飢え渇きを無視することはできないでしょう。教会は義に飢え渇く人の集まりです。自分自身の飢え渇き、隣人の飢え渇きを身にしみている人たちが、イエスのもとに集まり座り食卓を共にする、つまり礼拝をする、そして共に救いを経験する、神から愛されていることを実感し、互いに尊重し合う、世界で実現していない義が、今・ここに・暫定的に実現していると知る、これが教会という交わりの本質です。
さらに今日の箇所と深く関連する箇所があります。それは3:1-15の「ニコデモとの対話」です。7:38「内」と3:4「胎内」とは、ギリシャ語においてはまったく同じ単語です。もともとの意味合いは「腹」です。イエスのもとに来ると永遠のいのちの水を飲むことができます。そのことは聖霊を内側にいただくということでもあります(39節)。ただし、それだけではありません。水と霊によって新しく生まれ変わると、3章は語っています。その新しく生まれ変わる様子を、7章はその人の腹から生ける水が流れ出ると表現しているのです。3章と7章は深く関わっています。
ちょっと想像すると気持ち悪い図です。永遠のいのちの水を飲んでいる人の腹から、その飲んだ水が外へと流れ出ているということは何事でしょうか。これが「イエスを信頼して歩みを起こす人々」(本田哲郎訳)すべてに起るとヨハネ福音書は言っています(39節)。つまりこれは新しく生まれ変わることのたとえなのです。自らの小さな腹(感情や意志をつかさどるところ)を破って、聖霊に促される新しい生き方が始まるというたとえです。義に飢え渇いた者がいのちのパンを食べイエスの血を飲むと、本人が永遠に飢え渇かなくなるだけでなく、正義が洪水のように流れ出るような生き方をし(アモス5:24)、隣人の飢え渇きを癒す人になるに違いないというたとえです。
そのような新生者の集まりからはいくすじもの水が流れ出て、文字通り泉バプテスト教会になっていくことでしょう。それはエデンの園のようなイメージです。創世記2章6-15節にある神と共に働く人(原人間、人類)は、いのちの息をいただいて生きる者です。神のもとにいて、日々新しく息をいただいて新生し、神の畑で働いている者・霊と真理の礼拝をしている者です。泉が湧き木の生い茂るエデン(エゼキエル31:9ほか)から、一つの川が流れ出て四つの川に分岐します。その川はメソポタミア地方全域を潤しある時は洪水となり地域のいのちを支えていました。
預言者エゼキエルはこのエデンの園から出る川をさらに新しいイスラエルのイメージと重ね合わせます(エゼ47:1-12)。これは教会についての預言です。国家としてのイスラエルは滅ぼされました(前587年)。しかし礼拝共同体としてのユダヤ人やキリスト教会は復活します。聖書の民は、汚れた海をきれいにする川の源のような集団です(エゼ47:8-10)。イエスが神殿の境内で生ける川の流れの話をした時にイメージしていたことは、創世記にあるエデンの園から出るいのちを支える川であり、アモスの語る隣人を活かす正義の洪水であり、エゼキエルの語る生き物を生き返らせる川です。
わたしたちには、このような多種多様ないくすじものいのちの水を流すことができます。わたしたちのうちに働く聖霊がわたしたちから溢れ出す時に、生ける水が自分の小さな腹を破って、自己中心という小さな殻を破って流れ出すのです。「なるべく礼拝だけ」の教会に連なる者には、平日の歩み・毎日の考え方が逆に問われてきます。どんな水を流すかは個々人にかかってきます。
放射性物質まみれの水が今もいのちの海を汚し続けています。わたしたちの古い生き方が被造物のいのちを脅かしたのです。これが罪です。わたしたちは教会で無条件に義を与えられました。どうすれば新しく生まれ変わり、義に飢え渇いている人と共に生き、どうすれば汚してしまった水をきれいにできるのか共に祈らなくてはいけません。実践は個々人の良心に委ねられています。