生きておられる主 列王記上17章1-24節 2025年9月28日礼拝説教(郭修岩宣教師) 

導入:(現代社会と「命の主」への問いかけ)

皆さま、おはようございます。本日、このように泉バプテスト教会でメッセージを語る機会が与えられ、皆さまと共に主に礼拝をお捧げできることを、心より感謝いたします。

私は郭 修岩(かく しゅうがん)と申します。中国・大連の出身で、2019年よりシンガポールの教会から派遣され、現在は東京北キリスト教会で宣教師として奉仕をしております。皆さまが東京北キリスト教会のためにお祈りとお支えくださっていることに、心から感謝申し上げます。本日はどうぞよろしくお願いいたします。

私たちは科学技術が飛躍的に進んだ時代に生きています。スマートフォン一つで世界中の情報が手に入り、AIは私たちの仕事や生活を効率化し、SNSは瞬時に人と人をつなぎます。便利さと選択肢は増え、物質的な豊かさは確かに拡がりました。だからこそ、理屈の上では私たちは以前より「幸せ」になるはずです。

しかし現実は必ずしもそうではありません。人々は孤独を感じ、心の空虚に悩み、満たされない渇きを抱えています。個人主義が進むなかで、私たちはしばしば「自分を主人」とし、富や成功、名誉や地位を追い求めます。しかし、それらを「命の主」にしてしまうと、むしろ疲れや不満、分断を生むことがあります。そこで問いたいのです──私たちの人生を本当に支配しているのは何でしょうか。お金でしょうか。安定した仕事でしょうか。あるいは昇進や成功でしょうか。

列王記上17章は、こうした問いに対して鮮烈な答えを示します。ここで宣言されるのは、「主(ヤハウェ)は生きておられる」という言葉です。生ける神が命の主であるという宣言が、当時の偽りの神バアルへの挑戦として立てられるのです。

本文:(エリヤの物語に学ぶ「生きておられる主」)

列王記上17章を読み進める前に、まずバアルという神について理解する必要があります。なぜなら、エリヤはこのバアルに正面から立ち向かい、その力を覆すために神によって立てられたからです。

「バアル(בעל, Ba‘al)」という言葉は、ヘブライ語で「主人」「持ち主」「主」を意味します。カナンの地においては、バアルは雨と嵐を司る神として崇拝されており、とりわけ豊穣の神として人々に信じられていました。土地の収穫、家畜の繁栄、さらには人間の子孫繁栄にまで直結すると考えられていたため、農耕社会であった古代イスラエル周辺の人々にとって、バアルはまさに生活の安定を保証する存在として重んじられていたのです。

そのような時代背景の中で、本日ご一緒に読む列王記上17章には、バアル崇拝に覆われた社会のただ中で起こった三つの物語が記されています。そしてそれらは、エリヤを通して、主(ヤハウェ)こそが「生きておられる命の主」であることを力強く証ししているのです。

  1. カラスによるエリヤの扶養
  2. サレプタのやもめの物語
  3. 女主人の息子の復活の物語

物語に登場する女性は二人です。一人は貧しいサレプタのやもめ、もう一人は裕福な主婦です。この二人の対比にも、神様の深いメッセージが隠されています。

この物語の冒頭と結びを見てみましょう。 列王記上17章1節では、エリヤがこう宣言します。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」。そして、24節では、息子が生き返った女主人がこう言います。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です、あなたの口にある主の言葉は真実です。」

17章1節では、エリヤが神に誓いを立て、17章24節では、彼が「神の人」であることが確立されます。エリヤのこの生涯は、彼の名前「主こそわが神」が示す通り、主こそが真の神であることを証明するために捧げられました。彼の使命は、当時の人々が信じていた偽りの神、バアル崇拝との戦いにありました。

第一の教え:神に仕えるには知恵と保護が必要

主は列王記上17章3〜4節で、エリヤに三つの具体的な命令を下されました。「ここを去れ」「東に向かえ」「ヨルダン川の東にあるケリテの川のほとりに身を隠せ」──この三つの命令の動詞、「去る」「向かう」「隠れる」は単なる移動の指示ではありません。最初の二つは方向を示すものでしたが、最も重要なのは三つ目の「身を隠す」という命令です。

エリヤは、アハブ王に旱魃(かんばつ)を預言したことで、命を狙われる最重要指名手配犯となっていました。主が彼に「身を隠せ」と命じられたのは、旱魃の中でも命をつなぎ、王からの追跡を避けるためです。この事実は、神に仕えるすべての人にとって大切な教えを含んでいます。

現代社会でも同じことが言えます。「成果を出すこと」「休まずに働くこと」が評価されがちです。教会においても、奉仕に熱心であればあるほど、休むことを悪いことのように感じてしまう人がいます。しかし、燃えるような預言者エリヤでさえ、神の時に休息と隠れ場が必要だったのです。私たちも、神に仕える中で燃え尽きてしまわないために、神が備えてくださる「ケリテのほとり」で休む時間が必要です。それは祈りの時間であり、静まる時間であり、心と体を養う時間でもあります。

さらに、この「身を隠せ」という命令には、別の霊的な意味もあります。それは単に危険から逃れることではなく、謙遜の学びでもあるのです。自分を小さくし、自分を前に出さず、主にすべての栄光を返すこと。こうした態度の中で、私たちの隠れ場は単なる避難所ではなく、主の臨在と栄光が輝く場所となります。

結局、神に仕えるには、情熱や献身だけでは十分ではありません。「知恵と保護」を備えることが必要なのです。情熱を持ちながらも神の導きに従い、休息を取り、謙遜に主を高くする──これが、長く、力強く主に仕える秘訣です。

第二の教え:神の供給は私たちの想像を超える

実のところ、エリヤにはできることはほとんどありませんでした。すべては主の御業だったのです。

主は、本来エリヤを養うことのできない二者を用いて彼を養いました。 一つはカラスです。カラスは肉を食べる鳥であり、他者に分け与える鳥ではありません。しかし、主の命令により、カラスは肉をくわえながらそれを飲み込まず、エリヤに運んだのです。このこと自体が奇跡でした。

もう一つはサレプタのやもめです。このやもめには息子がいました。これは、彼女が「弱者の中の弱者」であることを象徴しています。古代のレビラート婚(夫が子を残さずに死んだ場合、その兄弟がやもめと結婚して夫の名を残す慣習)の対象外だったからです。息子がいた彼女は、その子によって将来が保障されているはずでした。

しかし、彼女は女性であり、経済的・社会的地位が低く、その立場は不安定でした。加えて、彼女は異邦人であったため、イスラエルの民から軽んじられていたでしょう。

それでも、神はあえてこの「弱者の中の弱者」、しかも異邦人を用いてエリヤを養うことを選びました。これは、イスラエルの人々の想像を超えており、主(ヤハウェ)が地域に限定されない、全地の支配者であることを示しています。

列王記上17章12節には、パンと水を求めたエリヤに対するやもめの答えが記されています。彼女は、わずかな小麦粉と油しか持っておらず、薪を拾っているのは、それを使って最後のパンを焼き、息子と二人で食べて死ぬためだと告げました。彼女の関心は、真の神が誰かということではなく、「生か死か」という切実な問題でした。しかし、主はそのような彼女にエリヤを養うよう命じました。

この出来事を、私たちはどう理解すべきでしょうか? かつてイスラエルの民が荒野をさまよった時、食べ物がないはずの場所に天からマナが降ってきたのと同じです。エリヤもまた、神の供給に完全に信頼する生活を送りました。彼は食糧を蓄えることはしませんでした。日ごとの食物を信仰をもって享受したのです。「日用の糧を、今日もお与えたまえ」という祈りのように。

全地がかんばつに苦しむ中、神のしもべだけが養われたことは、主こそが命を与えるお方であることを示し、バアル崇拝の前提を根底から覆すものでした。

ここで、私自身の証をお話しさせてください。

私は日本で神学を学んでいたとき、神様の素晴らしい備えを体験しました。日本の神学校の学費は高く、年間およそ150万円が必要です。ある学期、私はその半分しか手元になく、学費のことで頭がいっぱいでした。

そんな時、シンガポールから教会の牧師が私たち家族を訪ねてくれました。牧師は帰る際、何気なく封筒を差し出し、「教会のある姉妹からの献金です」と言って去っていきました。封筒を開けると、驚くことに、私が足りなかった学費のちょうど半分が入っていたのです。

私はすぐにその姉妹に電話をかけました。彼女は静かにこう答えてくれました。「これは神様があなたに与えてくださったものです。何年も前に私が神様に捧げるはずだった献金です。神様が今日、あなたを通して私に返させてくださったのです。」

その瞬間、感動が止まりませんでした。私たちにはもう道がないように思えても、神様はすべてをすでに備えてくださっている。神様の備えは、いつもこのようにタイムリーで、そしてなんと素晴らしいことだろう、と心から実感したのです。この経験は、私にとってエリヤの物語が単なる過去の出来事ではなく、今も生きている神の真実であることを証明してくれました。

第三の教え:神は死をも打ち破る

やもめの物語は、「生か死か」という人間の最も根源的な問いに、明確な答えを与えます。

死ぬのを待つやもめは、エリヤの奇跡的な供給を目の当たりにし、こう誓いました。「あなたの神、主は生きておられます」。ここでも再び「生きておられる主」という言葉が強調され、主こそが命の源であることが示されています。

やもめは、自分が信じていた神が、飢餓という死の脅威から自分を救えなかったことを知っていました。しかし、エリヤを通して、主は死に直面した状況に挑み、その向きを逆転させて命をもたらしました。「死ぬのを待つばかり」という絶望の言葉は、「壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」という命の言葉に変わったのです。

これは、主(ヤハウェ)こそが命の主であることを証明する出来事でした。

物語はさらに進み、裕福な女主人の息子が病にかかり、「息を引き取った」と記されています。なぜ単に「死んだ」と書かないのでしょうか。

これは、作者が「息(いき)נשמה」という言葉に、創世記2章7節の「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」という記述を重ね合わせているからです。「息」は、主が与える命の源であることを強調するためです。

そして、息子を失った女主人は、エリヤにこう言います。「あなたは私に罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」 彼女が使った「罪(ヘブライ語: עון)」は、意図的な罪、特に偶像崇拝を指す重い意味合いを持っています。彼女がバアルや他の偽りの神を崇拝していた可能性が推測されます。彼女が「女主人(ヘブライ語:בעלה )」と呼ばれているのは、「バアル」(בעל)の女性形であり、彼女がバアル崇拝に深く関わっていたことを示唆しています。

彼女はバアルの熱心な崇拝者であったにもかかわらず、息子の死という問題は解決できませんでした。バアルには、命を与える力がなかったのです。

しかし、エリヤの祈りによって、主はこの息子を生き返らせました。死を打ち破り、命が与えられたのです。これは単なる命の回復ではありません。バアルに対して神が発した、最も力強い宣言だったのです。

結び:(私たちが崇拝する「現代のバアル」と命の主)

これら三つの出来事から、私たちは二つの重要な教えを得ることができます。

一つ目は「命」です。そして二つ目は、繰り返し現れる「死」です。これらは、バアルには命を与える力がないこと、そして主(ヤハウェ)だけが命の源であることを示唆しています。

この場面を現代に置き換えると、「バアル」は様々な姿をとって私たちの前に現れます。収入、名声、SNSの「いいね」、経済的安定、快適な生活──これらは本来手段であって、絶対的な「主」ではありません。しかし心がそれらに支配されると、私たちは見かけの豊かさに心をゆだね、真の命を失っていきます。

これらの物語は、私たちが生きているのは偽りの神のおかげではなく、主のおかげであることを教えてくれます。私たちの日々の力は、すべて神様から与えられており、それによって日々の試練を乗り越えることができるのです。

最後に、一緒に深く息を吸ってみましょう。この吸い込む息と、吐き出す息を感じてみてください。

そして、もう一度深く吸い込んでみましょう。

この一回一回の呼吸は、一つの真理を静かに証明しています。「主(ヤハウェ)は命の主である」という真理です。

あなた自身の存在こそが、神様が存在するという生きた証なのです。なぜなら、主だけが命の息を与えることができるからです。

すべての賛美と感謝を、私たちの命の源である主(ヤハウェ)に捧げましょう。神様の愛は、私たちの弱さや絶望の中にあっても、想像を超えた方法で私たちを養い、守ってくださいます。

私たちがする一呼吸一呼吸が、神様の恵みの贈り物です。この気づきをもって、神様を体験し、神様を賛美し、神様によって与えられた命を生き抜いていきましょう。