キリスト教信仰の中心は、ナザレのイエスの十字架と復活にあります。2000年前に殺された死刑囚が、今も生きている神の子・救い主であるという信仰です。この方を信じる時に、わたしたちは人生の十字架から救われます。日常生活の苦労や苦難はあるままに、それを担い続ける不思議な力を得ます。イエスが十字架で虐殺されたけれども、神によってよみがえらされたということを信じているからこそ、明日を生きる力が与えられるのです。同じように神は、わたしたちを神の子として扱って、様々な場面で蘇らせてくださる。イエス・キリストの出来事を通して、わたしたちは永遠の命を生きることができます。
キリストの復活を最初に証言したのは、女性たちでした(新共同訳聖書「婦人」を聖書協会共同訳は「女」と改めている)。このことは四つの福音書すべてに共通しています。女性たちが第一証言者であることは、ほぼ間違いなく史実です。当時女性たちには裁判等で証言する権利がありませんでした。20世紀になっても「女性アナウンサーが報じるニュースは信憑性が欠ける」などという差別がまかり通っていました。同じ言葉でも女性に言われると信用しないという性差別が昔も今もあります。女性の証言が軽んじられている社会で、イエスの復活証言を女性に委ねるということは、古代の教会にとっても不利なことです。当事者にとって不利なことは史的信憑性が高いことです。あえて信頼性の低い証言者を立てて復活を宣伝する理由が教会にはないからです。
ルカ福音書によれば、証言をした女性たちは5名以上存在します。マグダラのマリア・ヨハナ・ヤコブの母マリアの3名に加えて、一緒にいた他の女性たち(複数=2名以上)がいるからです(10節)。マルコ福音書は3名(ただしヨハナではなくサロメ)、マタイ福音書は2名(ヨハナを除く)、ヨハネ福音書は1名(ヨハナ、ヤコブの母マリアを除く)としていることと対照的です。女性の証言能力はゼロなのですから、一人いても五人いても同じです。1×0=0、5×0=0、どちらも同じ0です。
当時の常識と反することをルカ教会は常識としています。女性も人間として数えられるという、新しい常識です。だから女性であっても人数が増えれば増えるほど証言能力は増すと、ルカの教会は考えています。五人以上の人が空っぽの墓を確認し、二人の男性(マルコ福音書は一人の若者)から「イエスは復活した」という言葉を聞いたのだから、イエスがよみがえったということの信憑性は高くなるのです。教会においては、男も女もないからです。
またルカ教会だけがヨハナもその中に居たと語り継いでいます。このことも重要です。なぜならヨハナは、ガリラヤの領主ヘロデの家令クザの妻だからです(8章3節)。彼女はマグダラのマリアに次ぐ地位を弟子たちの中で得ています(8章2節)。自分の持ち物を供出して、イエス一行を経済的に支える弟子です。ヨハナはヘロデ党の一人であり金持ちです。ここにルカ教会の多様性があります。教会においては出身階層(考え方の出処)の違いも乗り越えられます。
こうして、多様な女性たちの証言を信じない男性の使徒たちは、余計に恥をかくことになります(11節)。なお、使徒のうちシモン・ペトロだけは墓を確認したとの12節の記事については、ヨハネ福音書20章3-10節の影響で後に付け加えられたと判断し、本日はあまり重視しないことにします。その方が24節「仲間の者が何人か墓へ行ってみた」や、34節「シモンに現れた」と矛盾しないと考えます。12節は元来のルカ福音書には無かった部分でしょう。
女性たちは墓が空であることだけで信じますが、男性たちは復活者イエスに出会うまで信じません(13節以降)。女性たちの姿勢が、現代に生きるわたしたちの模範です。なぜなら、わたしたちも復活者イエスに面と向かって出会うことはないからです。わたしたちに与えられている情報は、墓が空であったという事実と、聖書の証言だけです。イエスの復活については、もはや「見ずに信じる」以外には道がありません。つまり、復活信仰というものは「たわ言/馬鹿げた話(聖書協会共同訳)」(11節)の類、愚かな言葉なのです。知恵の実を食べてしまった現代人にとって愚かな言葉ではありますが、信じるわたしたちにとっては神の力、明日を生きる力を与えられる恵みです。
理性的にキリスト教という宗教を理解できても、キリスト信徒になるかどうかは別の問題です。信徒が合理的に非信徒を説得しようとしても無駄です。信仰とは説得力を積んで到達するものではなく、ある時腑に落ちるものです。人が信仰を受け入れることを、わたしたちは聖霊の働きと呼びます。女性たちは腑に落ちる体験を即座にしました。なぜそれができたのかを、ルカ福音書の強調点に沿って考えてみたいと思います。鍵は、イエスの母親マリアにあります。
マルコ福音書の天使は、「復活者イエスは、あなたたちをガリラヤに導く。そこであなたたちは彼に会える」と約束しています(マルコ福音書16章7節)。ルカ福音書は、その約束をごっそり削ります。マタイ福音書やヨハネ福音書においては、実際に弟子たちが復活者イエスとガリラヤで出会っているのとは対照的です。マタイもヨハネもマルコ同様にガリラヤを重視しています。
ルカはマルコを見ながら、マルコの「ガリラヤ中心主義」に反対して、「弟子たちはガリラヤでは復活者イエスと会わない」立場を鮮明にしています。先に著した使徒言行録において、エルサレムで復活者は見られ、エルサレムで最初の教会が設立されたことを明記しているからです(使徒言行録1-2章)。ガリラヤかエルサレムか。こういった点にもルカ教会がマルコ福音書を礼拝で用いたくない理由があります。ルカ教会の信徒たちは、自分たちの立場を前に出した福音書編纂を望んだのです。イエス一行がガリラヤを出て長い旅に出るのもその一つですし(サマリア重視・ガリラヤ相対化)、使徒たちの活躍をエルサレム中心に描くのもその一つです。ルカ文書(ルカ福音書・使徒言行録)を、「エルサレム中心主義」が支配しています。
用語面でもルカ文書はエルサレム中心主義を貫いています。「帰る」(9節。ヒュポストレフォー)という動詞が女性たちに用いられています。この言葉は新約聖書中35回用いられ、ルカ文書に32回も使われています(ルカ福音書21回、使徒言行録11回)。そのうち、「エルサレムに帰る場合の主語」を調べてみると、マリアとヨセフ(2章45節)、エルサレム住民(23章48節)、マリアほかの女性弟子たち(23章56節・24章9節)、男性弟子たち(24章33節・24章52節、使徒言行録1章12節・13章13節・22章17節)と、ほとんどが弟子/使徒/信徒が主語です。つまり、教会にとってエルサレムは母なる場所、自分が帰るべき出発点・原点です。
これら男女の弟子/使徒/信徒たちの中で、三回エルサレムに帰っているのはマリアだけです。「ヤコブの母マリア」は、もしこのヤコブがイエスの弟であるヤコブならば、イエスの母親であるマリアです。母マリアは、イエスが十二歳の時に親戚一行からはぐれた時に、エルサレムまで引き返しています(ヒュポストレフォー)。その時、少年イエスは捜しに来てくれた両親にこう言い放ちます。「どうしてわたし(イエス)を捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(2章49節)。マリアもヨセフもきょとんとします。ただし、マリアだけは「これらのことをすべて心に納めていた」(51節)というのです(2章19節も参照)。
2章49節のイエスの言葉は、二人の天使の言葉と単語レベルでも対応しています。「なぜ生きている方(イエス)を捜すのか。彼はここにはいない。必ず・・・することになっている」(6-7節)。墓にいない方イエスは、自分の父の家(エルサレム)におられるということが示唆されています。
この天使たちの言葉を聞いて、長い年月ずっと心に納めて思い巡らしていたマリアは、思い出しました。似たような言葉を十二歳当時の息子から聞いていたということを思い出しました。そこでマリアは、イエスに会うために三度エルサレムへと帰るのです。ルカ福音書において、母マリアを通して、十字架・復活物語はクリスマス物語・少年イエスの物語ときれいに対応しています。
イエスの母マリアだけが、これら三つの出来事の証人です。マリアは三十年前のクリスマスの出来事と、二十年前の迷子の出来事を、心に納めてずっと思い巡らしていました。息子の不思議な誕生、不思議な言動について、意味を考えていました。それは復活信仰を得るための伏線だったのです。
三十年前シメオンという初対面の年配男性が予告した通り、あの時赤ん坊だった息子イエスは十字架で殺された。それを目撃した時には、彼の予告通り自分も心を刺し貫かれた。しかし、それが「万民のために整えてくださった救い」であるという意味は何だろう(2章28-35節)。なぜわたしはいつもイエスを捜し続けているのだろう。産む場所を捜し、迷子になってからも捜し、遺体のありかを捜し続けるのは、なぜなんだろう。
突然、マリアは腑に落ちるのです。「イエスは今生きている」ということをすとんと信じます。墓にはいないが、エルサレムで復活したイエスに会えるということ。あの息子は、殺されるために生まれたということ、否、よみがえらされるために生まれたのだということ。自分の息子なのではなくて、聖霊によって生まれた神の子であり、聖霊によって多くの人を癒し立ち上がらせ活かしたのだということ。十字架の死は人間の罪を教えるためのものであり、人間の罪をすべて帳消しにするためのものであること。復活は神の恵みを教えるためのものであり、永遠の命をすべての人間に配るためのものであること。自分が彼の母親になった理由は、復活の証人になるためだったということ。
母マリアは先頭に立って、エルサレムへと、使徒たちやその他の多くの弟子たちを匿っている、親切な宿屋のもとへと走ります(22章11節)。そして一部始終を話すのです。一部始終(直訳「これらのこと全て」)とは、イエスが生まれた時の不思議な出来事をも含むでしょう。少なくともマリアにとってはそうです。イエスは必ず生きていて、放蕩息子の自宅エルサレムで会えると、彼女は自分の経験を踏まえて力説したはずです。心を燃やして復活者について語っているうちに、イエスの言葉や行いが心の中によみがえってきます。不思議なことに、「たわ言だ。そんな馬鹿げた話を信じられるか。」と嘲られれば嘲られるほどに、心に復活信仰が根を下ろしていきます。長年の熟考の答えが与えられた喜びは、誰も奪えません。その喜びが人を生かすのです。
今日の小さな生き方の提案は、マリアのように復活を信じるということです。イエス・キリストがよみがえったこと。しかもわたしたちに明日を生きる力を与えるためによみがえらされたことを、見ずに信じることです。そうすれば倒れてもキリストのように立ち上がることができます。復活を信じるためには思い巡らしが必要です。この言葉は一体何だろう。この出来事は一体何の意味があるのだろうと、心に納めていくことです。ある人には三十年かかるかもしれません。ある人にはほんの一日かもしれません。キリストはあなたのためによみがえり、あなたに永遠の命を与えている。この真理が腑に落ちる時が、必ず与えられます。その時を期待して、考えることを止めずに生きましょう。