監獄の中で 創世記39章13-23節 2019年12月15日 待降節第3週礼拝説教

13 そして、彼が彼の服を彼女の手の中に放置し外へ逃げるのを彼女が見た時に、以下のことが起こった。14 すなわち彼女は彼女の家の男性たちに呼ばわり、彼らに言った。曰く、「あなたたちは見よ。彼は私たちにヘブライ人の男性を連れてきた、私たちに嫌がらせをするために。彼は私のところに、私と共に寝るために来た。そして私は大きい声で呼ばわった。15 そして、私が私の声を上げ呼ばわったのを彼が聞いた時に、彼は彼の服を私の傍に放置し、逃げ、外へ出るということが起こった」。16 そして彼女は彼の服を彼女の傍に置いた。彼の主人が彼の家に来るまで。

 ポティファルの妻が最初から狙っていたのは、ヨセフをナンバーツーの地位から引きずり下ろすことでした。別に彼女はヨセフの愛情を欲しいとは思っていません。恋愛感情ではないのです。彼女が欲しかったのは、ヨセフの落ち度を示す証拠です。それが「彼の服」(13節)です。そして目撃者がいないという状況です。証拠と状況の二つがそろえば、ヨセフに冤罪を被せることができます。そしてヨセフを殺そうと考えたのです。

 旧約聖書の法律でも、不倫の現場が目撃されたならば二人とも死刑に処されることが定められています(申命記22章22節)。これはイスラエルにおける対等の者同士の法律です。ここは外国のエジプトです。相手女性はエジプトの「死刑執行者たちの長(国家公安委員長)」の妻、ヨセフは外国人の男性奴隷です。即座に処刑されてもおかしくありません。彼女が言っていることを、ポティファルが鵜呑みにして信じるならば、当然殺されます。

 ポティファルの妻の言い方にヘブライ人への厳しい差別が露骨に表れています。「彼は私たちにヘブライ人の男性を連れてきた、私たちに嫌がらせをするために」(14節)。川崎市の条例が全国で初めてヘイトスピーチに対する罰則を定めました。ヘイトスピーチ対策法という国の法律が理念法に留まり罰則まで定めていない不十分さを補うためです。ポティファルの妻の言葉はヘイトスピーチの一種です。「嫌がらせをする」(ツァハク)は、「笑う」が原意。そこから「嘲笑する」「(性的に)からかう」「セクシュアル・ハラスメントをする」という意味に発展していった言葉です。ツァハクは13回しか登場しませんが、そのうちの11回が創世記の族長物語に集中しています。鍵語です。

 もともとの肯定的な意味では、イサク(「彼は笑う」の意)の誕生の時に用いられています(21章6節)。そして「嘲笑する」の意味では、アブラハムとサラがそれぞれ神の約束を嘲笑っています(17章17節、18章12節)。また、ロトの婿たちがロトを嘲笑っています。からかうという意味では、イシュマエルがイサクをからかう場面で使われています(21章9節)。性的にからかうという意味では、イサクが妻リベカといちゃつく際に用いられています(26章8節)。セクシュアル・ハラスメントの意味では、39章14・17節の二回です。これらを見ると、段々否定的な意味が強まっていく傾向が分かります。あらゆる笑いに差別の要素が含まれます。力を奪われている者にとって笑いは抵抗する原動力です。力を濫用する者にとって笑いは差別の道具です。それらは相対的なものであり、一律に良いとも悪いとも決められません。奴隷が主人を笑うことと、主人が奴隷を笑うことは、同列に並べられないのです。

 「外国人は我々を嘲笑うために来た」という言葉は、加害者が被害者ぶって言っているに過ぎません。「外国人は仕事を奪うために来た」も似た言い方です。ポティファル家の男性たちは、主人の妻の言い分を半信半疑ながらも受け入れました。その場を目撃していなかったからですし、みなヘブライ人ヨセフを常に嘲笑っていたからですし、邪魔者と思っていたからです。彼女は巧妙にも、少しだけ事実をずらしています。ヨセフが自分の服を彼女の傍らに放置して逃げたという部分です。事実は、彼女がヨセフの服を掴んで離さなかったので、彼の服は彼女の手の中にあったのです(12節)。手の中にある方が疑われると思ったのでしょう。彼女は、ヨセフが自分の服を脱いだまま忘れて逃げたというように、男性たちに言いました。そしてその嘘に従って、ポティファルが帰ってくるまでヨセフの服を自分の傍らに置いておいたのでした。

17 そして彼女は彼に向かってこれらの言葉どおりに語った。曰く、「あなたが私たちに連れてきた、かのヘブライ人奴隷が、私に嫌がらせをするために私のもとに来た。18 そして私が私の声を上げ呼ばわった時に、彼は彼の服を私の傍に放置し、外へ逃げるということが起こった」。19 「これらの言葉どおりにあなたの奴隷がわたしに行なった」と言って、彼女が彼に向かって語る、妻の言葉を彼の主人が聞いた時に、彼の鼻が燃えるということが起こった。20 そしてヨセフの主人は彼を取り、彼を監獄に与えた。(それは)王の囚人たちが投獄されている場所。そして彼はそこに、かの監獄の中に居た。

 今日の箇所でポティファルは名前で呼ばれません。「彼の主人」「ヨセフの主人」とだけ呼ばれます。「彼女の主人」とも呼ばれません。この夫婦が対等の関係であるからです。だから妻は、直截に自分の夫に言いたいことを言います。それは家の男性たちに言った言葉と同じ内容です。「あなたの奴隷」という言葉は示唆深いものです。ヨセフは、ポティファル一人に仕えている。彼の妻の奴隷ではないというのです。妻といえど、ヨセフに何もできません。自分の所有物ではないからです。物語が問うているのは、ポティファルとヨセフの関係です。主人と奴隷という主従関係において、正しいことがなされるのかどうかが主眼です。ポティファルは主人として正しい判断をしなくてはならなくなりました。その時、彼の鼻が燃えたというのです。

 鼻が燃えるという表現は、怒るという意味で使われます。怒ると人間の鼻が真っ赤になるからでしょう。ただしかし、ポティファルが何について怒ったのかは、そこまで自明ではありません。まったく言葉を発していないからです。

 ポティファルは、ヨセフから直接一対一で事情聴取をしたはずです。「妻はこれこれこういうことを言っているが、事実は何なのか」。あるいは、「お前に不利な訴えがなされているが、何か弁明することはないのか」などと、ヨセフに質問をしていると思います。それに対してヨセフは、おそらく沈黙を守ったのだと思います。なぜなら事実を言えば、ポティファル夫妻の仲が悪くなることを心配しているからです。また、主人の妻を悪しざまに言うことがヨセフにはできなかったからです(9節)。彼は黙して語らない。毛を刈る者の前に立つ羊のように。正しい主従関係を保つためです。

 黙秘を貫くヨセフの姿を見て、ポティファルは「この人は何も悪いことをしていない」と見抜きました。妻がヨセフを陥れようとしていることを察しました。しかしここでポティファルが妻と対立することは、ヨセフの本意でもありません。妻の狙いはヨセフがこの家からいなくなることだと、ポティファルは察しました。「自分に死刑執行を命じさせようとしているな」と感づいたのです。ポティファルは「死刑執行者たちの長」です。

 ポティファルの鼻は真っ赤になりました。自分の片腕を自分でもぎ取らなくてはいけないからです。悲憤と義憤に駆られて、彼はぎりぎりの善意を示しました。ヨセフを殺さないという決断です。正しい主従関係に基づくならば、落ち度のない部下を殺すことはできません。しかし家中の部下が、ヨセフが妻にセクシュアル・ハラスメントをしたのだと考えています。妻と彼らを治める知恵が必要です。ポティファルは死刑廃止論者ではありません。しかし、その彼でさえも死刑を思いとどまることがあります。明確に冤罪の場合です。冤罪がありうる。だから死刑制度は不完全です。

 ポティファルはヨセフを逮捕し、監獄に入れます。「投げた」ではなく「与えた」に、丁寧な収容が伺われます。その監獄は「王の囚人たち」が収監されていました。監獄と訳しましたが、直訳は「円形の家」。エジプト由来の単語で、ヨセフ物語にしか用いられません。40章以降の登場人物でも分かる通り、この監獄は身分が高く、王に接する中で落ち度があった人々、すなわち「王の囚人」だけが繋がれる場所です。ポティファルの地位の高さと、彼のヨセフに対する愛情がにじみ出ています。ある意味でポティファルはヨセフの命を守りました。これ以上手出しができない、自分の管理下にヨセフを置いたのでした。

21 そしてヤハウェはヨセフと共に居り、彼に向かって慈愛が張り出し、かの監獄の長の目の中に、彼は彼の恵みを与えた。22 そしてかの監獄の長は、ヨセフの手の中に、かの監獄の中にいる囚人たち全てを、与えた。また、そこで行っているところの全てを行っている者は、彼となった。23 かの監獄の長は彼の手の中の全てを何も見続けなかった。なぜならヤハウェが彼と共にいたから。そして彼が行っていることをヤハウェは繁栄させている。

 このようなひどい冤罪事件の最中、ヤハウェの神はどこにいたのでしょうか。驚くべきことに神はヨセフと共に居り、実に監獄の中にまで神が伴っておられました。短い3節の中に二回もヤハウェがヨセフと共に居たことが告げられています。監獄の中でも、ヨセフはナンバーツーに任命されます。監獄の長に気に入られ、全囚人がヨセフに与えられたのです。このことは、ポティファルの家の全ての人や物がヨセフに与えられたことと同じです。ポティファルは自分のパン以外は知らないという状態、また監獄の長は自分の手の中の全てを見ていないという状態です。全てヨセフが知り、ヨセフが見ているからです。

 そのような善意溢れる上司に恵まれた理由は、ヤハウェが共に居たという恵みにあります。神がヨセフと共に居て、神がヨセフに向かって慈愛を張り出し、神がヨセフの行っていることをすべて繁栄させています。「慈愛」はヘセドという言葉です。新約聖書ギリシャ語のアガペー(無条件の普遍的な愛)と匹敵する旧約聖書の言葉です。「いつまでも変わらない愛情」「誠実な愛」を示す言葉です。神はヨセフに向かって、ヘセドを張り出す。テントを張るようにして、ヘセドで覆う。自らのテントとしてヨセフの内に宿るのです。その愛はヨセフから離れません。ヨセフがどこにいてもヤハウェは共にいます。宿っているからです。イエス・キリストは昨日も今日もとこしえに変わることなし。

 こうして物語は、ユダ・タマル物語とは異なる方向に導かれて行きます。タマルは自分の策略どおりに歴史を動かしました。タマルが御心を行ったからです。ポティファルの妻の策略はある程度通用しました。ヨセフが追い出されたからです。しかしこの苦難は、次の物語の準備でしかありません。実際に悪かったユダと異なり、冤罪を被ったヨセフはこの後劇的な復活をとげます。神と直接会わないヨセフは、父祖を超えたインマヌエル信仰の持ち主です。

 今日の小さな生き方の提案は、神が共に居ることを信じることです。クリスマスのメッセージもインマヌエル(我らと共に神が)に尽きます。人生には起伏があり、紆余曲折があります。目の前が真っ暗になることも、八方塞がりに見えることもあります。陥れられたり、不慮の災害に遭ったりもします。しかし信頼に値する誠実さをもつ神が、私たちのうちに宿っておられます。誰にも理解されなくても、孤独に打ちひしがれても、それは救いの前の準備段階に過ぎません。同伴者イエスを感じられなくても、ヨセフの神を信じましょう。