9月15日の朝にテレビを観ていたところ、朝鮮民主主義人民共和国からミサイルが発射されたとの速報がありました。ほとんどすべての番組がそれを急遽報じるという事態になりました。さまざまな効果がすでに日本社会に及ぼされていることを危虞しています。報道によって煽られ、くたびれさせられ、差別言論が活発にならないようにと願います。どうすれば朝鮮半島が平和的に統一されるのか、制裁と圧力が有効なのか、深く思わされます。
「ミサイルがいつ来るか分からないから目を覚ましていなさい」という言い方と、主イエスがいつ来るか分からないから目を覚ましていなさい」という言い方は、よく似ているのでわたしたちには注意が必要です。キリストを信じて、目を覚ましてキリストの来るのを待つこととは何なのか。キリスト教信仰の一つの中心である「終末への希望(終末論)」について、特にルカ福音書の強調点を意識しながら考えます。
今日の箇所の背景にはマルコ福音書13章32-37節があります。この部分はマルコ福音書の前半の締めくくりです。僕に仕事を割り当てて旅に出る主人が、世界の終わりに再び来るイエスに譬えられています。ルカは、マルコ13章を知っています。
そして、今日の箇所とほとんど同じ話がマタイ福音書24章42-51節にあります(なおマタイ25章1-13節も参照)。マタイとルカの共通文書です。これもルカは目の前に置いています。マルコとマタイを見比べると、ルカにしかない言葉や、ルカが先行する文書(マルコ福音書と、マタイ・ルカ共通文書)を改変した部分が分かります。それこそ、ルカとルカ教会の強調点です。具体的に挙げれば、①結婚披露宴から帰ってくる主人を待つという場面設定(36節)、②「幸いだ」という呼びかけ(37・38・43節)、③ペトロの登場と問い(41節)、④47-48節の付け加えなどです。この他にも単語の使い方にも特徴がありますが、それらは必要に応じて言及します。
マタイ福音書25章1-13節は、終末を花婿であるイエス・キリストと、花嫁である教会の結婚に譬えています。有名な「油断した女性たちの例え話」です。それに対して、ルカ福音書は、他人の結婚式に参列して帰ってくる主人を、終末に来るイエス・キリストと重ねています。これは大きな違いです。キリストが花婿なのか、それとも披露宴帰りのほろ酔い加減のおじさんなのか。式場に向かう花婿よりも、帰宅する結婚式出席者の方が、「時間通りに来ない人像」にぴったり合います。慌ててくる花婿よりも、余った料理を詰め合わせたお土産を片手に、上機嫌で帰ってくる結婚式出席者の方が牧歌的です。
上機嫌の主人は、起きて待っていてくれた僕たちに仕えます(37節)。「給仕する」と訳されているギリシャ語ディアコネオーは、弟子になるという意味すらあります。主人と僕が逆転しています。さっきまで来賓の客として仕えられていた主人が、自宅で僕たちに仕えるのです。披露宴でいただいたお土産を、僕たちに再配分していきます。これは主の晩餐の喩えです。
世の終わりは、主の晩餐の完成です。天で開かれている大宴会の客の一人だったイエスが、地上に降りきたって大宴会を主催し、ひとりひとりに仕え給仕しパンを分ける。このような仕方で、神の意思が天で実現しているように地でも行われるようになります。その時こそ世の終わりです。
主人は祝宴でいただいたご馳走を、僕たちと分けたくてしょうがありません。「誰か起きていると良いな」とわくわくしながら帰宅します。嬉しい時には共に喜んでくれる人を探すものです。皆が寝静まった暗い家に帰ってきた時に、わたしたちはがっかりするでしょう。だから、誰かが起きていた場合に、主人は小躍りして「幸いなるかな」と、僕に声をかけ、僕が主人になるという逆転が起こるのです。
この宣言と逆転は、明確にルカ6章20-23節の「幸いなるかな」の連続と呼応しています。11章37-54節の「不幸だ」という連続が、6章24-26節の「不幸」の列挙と呼応しているのと同じです。お腹を空かせて待っていた僕が、主人と共に、主人の給仕によって満腹し、みんなで笑顔になり、互いに「幸いだ」と言い合う姿です。
そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言う(41節)。この質問は、ルカにしかありません。そして前半と後半を分けています。ここから、ペトロの質問を軸に主題が展開されていきます。ルカはペトロに気を遣う人です。特に使徒言行録では使徒パウロや実力者「主の兄弟ヤコブ」の影に、ペトロが隠れ過ぎないように気をつけています。十字架前夜にイエスが、ご自分を三度否定したペトロを見つめる場面もルカ福音書にしかありません。だからペトロの質問は重要な位置にあると考えるべきです。
イエスはペトロの質問に直接答えていません。35-40節の例え話が、弟子たちのために話したのか、世界全体に話したのかを不明にしたまま、つまり、問いを置き去りにして別の例え話を語り始めます。さらにこの別の例え話の中でも、「時間通りに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか」(42節)と問うて、ますます誰のことを誰に言っているのかが謎めいています。
マルコ福音書13章37節に、「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」というイエスの言葉があります。ルカは明言していませんが、「弟子に語られた言葉は世界全体に語られている」と、わたしたちは考えて良いでしょう。ペトロがその重要な秘儀を考えるきっかけを与える役に格上げされ、株を上げているのです。
教会に向けられた言葉は、世界全体に向けられた言葉です。この意味でウエブサイトに説教原稿が掲載されていることは良いことです。教会の礼拝・イエスの言葉・主の晩餐は教会員のみのものではなく、地域の人と共に体験するものであり、全世界に開かれたものです。あれか・これか。教会か・世界か。福音か・社会か。これらの二分法の問い自体が間違えています。
42節以降の例え話を語るイエスの頭の中には、旧約聖書の「ヨセフ物語」(創世記37-50章)があったように思えます。ご存知ではない方のために粗筋を申し上げます。エジプトに奴隷として売り飛ばされたヘブライ人ヨセフが、紆余曲折を経て、最終的には政策立案能力を買われて、外国人ながらエジプトの総理大臣になるという立身出世物語です。ヨセフはファラオに、これから起こる飢饉に備えて穀物を蓄えておくように進言したのでした。本日の招きの聖句は、エジプトの絶対権力者ファラオがヨセフを総理大臣に任命する時の言葉です(創世記41章39-40節。旧約聖書73ページ)。そして、事態はヨセフの予告通りに進み広い地域で飢饉が起こりましたが、エジプトだけは穀物の蓄えがあったので、それを周辺の国々の人々に分配することができたという話です。
日本には国政選挙でも地方自治体選挙でも外国人に被選挙権が無いので立候補できません。だから議院内閣制のもと議員になれない外国人が総理大臣になることはできません。この点、現代日本よりも古代エジプトの方がリベラルです。志があって能力がある人に任せれば良いという考え方です。そしてその思い切った任命によって、エジプトをはじめとする周辺諸国が救われました。経済という漢字は、このような意味の「世界の救い」を語源としています。なお外国人政治家が、「神の牧者」「主が油注がれた人(メシア)」と呼ばれる場合もあります(イザヤ書44章28節-45章1節)。
42節で主人に任命された召使いたちの上に立つ管理人は、エジプトの総理大臣ヨセフによく似ています。マタイの訳語に引きずられて「食べ物」と訳されていますが、ルカ福音書では「穀物(の秤)」という言葉が使われています(田川建三訳参照)。「時間通りに食べ物を分配させる」ではなく、「時宜に適って穀物をはかって分配させる」とも翻訳できます。これこそ政治家の仕事です。政治・経済を司る者の役目です。
神が世界中の政治家に求めていることは、世界の穀物を時宜に適って公正な基準で分配する「忠実で賢い管理人」であることです。「主人が帰って来たとき」、すなわち世の終わりに起こることは、イエスが来て世界中の政治指導者たちを自分の前に立たせて尋問するという出来事です。その時、「言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである」(43節)。神は喜んで、その人に全財産の管理を任せ(44節)、「あなたは幸いだ。ただ神であるということでだけ、わたしはお前の上に立つ」(創世記41章40節)と言うでしょう。
しかし現実の世界では、世界の多くの政治指導者たちは、イエスが中々来ないことに乗じて、「下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなこと」をし続けています(45節)。民を暴力的に支配し、自分のための秤を用いて穀物や富をかき集め、決して貧しい人々に再配分しようとしない「愚かな金持ち」です。終末の主イエスは、「予想しない日、思いがけない時に帰って来て」このような不忠実な僕を裁きます(46節)。後半の例え話において、主人が帰ってくる目的は食事のためではありません。世界を裁くためであり、特に政治指導者たちを査定するためなのです。教会で行われている主の晩餐の論理を、実際の社会でも実践しているか。政治権力を預けられている者たちを神はご自分の僕とみなし、僕に対する主人として評価を下します。
ルカ福音書にだけ47-48節が付け加えられています。大まかな内容は、「主人の意思を知っていたかどうかで、罰の重さ・軽さが異なる」というものです。再配分の大切さを知りながら無視する僕は、よりひどく鞭打たれ、再配分の大切さを知らないでそれをおろそかにした僕は、打たれても少しで済みます。法律用語で言う「悪意」「善意」の違いです。末尾の「多く与えられた者」「多く任された者」という言葉は、庶民よりも多くの権力を預けられている政治指導者を示唆しています。さらに言えば小国よりも大国の政治指導者です。そしてルカ福音書は、その人たちに対する裁判の場面を強調しています。
この例え話は終末のイメージを開きます。世の終わりにイエスは信者をひとりひとり前に立たせ、忠実な僕だったかどうかを尋ねるのでしょうか(マタイ25章31-45節参照)。そうだとしても、まず問われるのは政治指導者たちです。今富んでおり、すでに満腹しており、驕り高ぶりの高笑いをしている人々が、神の僕と名指しされ、真っ先に尋問されるのです。「最も小さな者たちに再配分をしてきたか」「喜ぶ者と共に喜ぶ食卓を形作ってきたか」「神の意思を知りながら無視したか」、それらが問われます。こうして辛い日常を這いつくばるわたしたちにとって、終末は公正さを取り戻す希望となります。
今日の小さな生き方の提案は、主の晩餐を、再配分を求める神の意思に従って行うことです。わたしたちは目を覚ましています。毎週、イエスがここに帰宅していることを喜び、食卓を囲んでいるからです。目を覚ましていないのは政治指導者たちです。教会で「マラナタ」と叫び賛美し祈りましょう。それによって世界が目を覚ますように。それによって心の均衡を保ちましょう。