真理による自由 ヨハネによる8章31-38節 2013年12月1日礼拝説教

待降節・アドベントの第一主日となりました。クリスマス前の四週間を、ろうそく一本一本を灯しながら待望する季節です。教会暦では一年の最初はこの待降節から始まります。今年度の待降節は、いかにもクリスマスという箇所ではなく、普段通りのヨハネ福音書を少しずつ読んでいきたいと思います。ただし、クリスマスの出来事という視点で読み進めていきます。24日のキャンドルサービスの時に、クリスマスにちなんだ聖書箇所を用いる予定です。

クリスマスの視点というのはこのような問いです。「イエス・キリストは何のためにこの世に来られたのか」。それに対して、今日の箇所は「この世の人が真理を知るため、その真理によって自由となるため」と答えています。そこで、この「真理」とは何か・「自由」とは何かについて説明していきます。

まずは「真理や自由が何であるか」ということの前に、「真理や自由が何ではないのか」ということから考えていきます。イエスはユダヤ人たちがアブラハムの子孫であるということを誇りにしていたことを批判しています。ユダヤ人たちは、アブラハム以来自分たちが誰かの奴隷になったことはない、ずっと自由だったと言います(33節)。だからイエスの言い方は、彼らのプライドを傷つけます。原文では未来形で「真理はあなたたちを自由にするだろう」(32・33節)と書かれていて、今のあなたたちは決して自由ではないと言っているからです。この言い方は、歴史認識の違いを明らかにしています。彼らはユダヤ人である限りアブラハムの子孫なのだから過去から今まで一貫して自由なのだと言います。血によって人の自由/不自由は決まるということです。

イエスはこれを真理ではないとします。血は人を自由にしません。

まず、彼らの言い分は単純な歴史の事実を誤解しています。アブラハムはユダヤ人ではありません。彼の故郷はカルデアのウルという町で彼はバビロニア人です(創11:27)。約束の地カナン(パレスチナ)に入った外国人です。イスラエルという名前を持つ、アブラハムの孫ヤコブぐらいから「イスラエル人」と呼ぶべきでしょう。ちなみに「ユダヤ人」という呼称は、バビロン捕囚の頃からバビロニア人によって付けられた民族名です。「南ユダ王国から来た人々」という意味合いです。民族主義を持ち出す際にはアブラハムはあまり適していません。

ユダヤ人たちは今まで誰からの奴隷にもなったことはないと豪語しますが(33節)、これも誤解です。イスラエルの人々は、「ヘブライ人」として(こちらは社会階層を表す言い方)エジプトで奴隷となったことがあります。その奴隷の民が自由となったことを「贖い(買戻し)」と呼ぶのです。血による自由ではなく、神による奴隷からの自由ということが大切です。社会階層を表すヘブライ人は種々雑多な民の寄せ集めでした(出12:38)。そのイスラエルが、アブラハムと同じように約束の地に導き入れられて自由を得ます。だから出エジプトという自由を持ち出す際にも、民族主義はあまり関係がありません。

さらに創世記を読めば分かる通り、アブラハムも大きな罪を何度も犯しています。サラという自分の妻を二度も権力者に売り飛ばすことをしています(創12章・20章)。ハガルという自分の妻を二度も追放することもしています(創16章・21章)。神の約束を嘲笑うこともしています(創17:17)。アブラハムは決して褒められた人ではないことを聖書は語ります。ましてや「血による自由」など一切書いていません。

34節のイエスの言葉は、アブラハムも罪を犯しているということを射程に入れています。「罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である」とは、「あなたたちが寄り頼む先祖アブラハムでさえも、聖書によれば罪を犯しているではないか、罪の奴隷ではないか」というイエスの反論です。「奴隷はいつまでも家にいるわけではない」(35節)とは、ハガルの事件についての当てこすりでしょう。

では何によって人は自由になるのでしょうか。「真理による自由」では抽象的すぎます。「真理」を置き換える何か具体的な分かりやすいことがらを探りましょう。今日の聖句の中にちりばめられているヒントを拾ってつなぎ合わせてみましょう。

「もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になるだろう」(36節)。ここで言う「子」は神の子イエスのことです。また、31節にある「わたし(イエス)の言葉にとどまるならば」が、「真理はあなたたちを自由にするだろう」(32節)に続いています。「わたしの言葉」はもう一度登場します。37節の後半に「わたしの言葉を受け入れない(わたしの言葉が深まらない:田川建三訳参照)」として、ユダヤ人たちを批判する言葉の中に登場します。加えて、「わたしは父のもとで見たことを話している」(38節)とあります。これらの言い方は、わたしたちにヨハネによる福音書の1章を思い起こさせます。なぜなら、アッバなる神と神の子イエスの交わりや、神の子が「言葉(ロゴス)」と呼ばれていることが共通しているからです。ヨハネ福音書は金太郎飴のように同じ主題を繰り返します。

ヨハネ1:1-5・14・17-18節をお読みいたします(163頁)。この箇所はヨハネ福音書の中のクリスマス物語と呼ばれるところです。真理とは神の懐にいて共に食事の交わりをしていた神の子が遣わされたということ、真理とは神の振る舞いを見たままに真似をしたイエスの行ないを真似ること、真理とは「互いに愛し合いなさい」というイエスの言葉を自分の中で深めて行うこと、真理とは神が神の子によってすべての罪人を無条件に赦し救う意思を持っていることです。真理とは神が愛であるということと、神が愛であることを示すためにイエスが遣わされたということです。

こう考えると真理とは恵みと置き換えられるものだと分かります(1:17)。「恵み真理」という言葉は、「恵みすなわち真理」とも訳しえます。神が一方的に与える救いの出来事を、恵みと呼びます。真理とは何かという問いに対して、わたしたちは「真理とはイエス・キリストの出来事である」と答えることができます。この出来事こそ、本当に信頼のできる神の起こした恵み・一方的な救いです。

よく考えてみると、アブラハムも含め旧約聖書に書かれている救いの出来事はすべて神からの一方的な恵みでした。人間を創り神の似姿にしたことも神が一方的になさった恵みです。アブラハム・サラに子孫を与えることも神の発案です。弱小の奴隷の民イスラエルを解放するのも神の力によるものです。バビロニアで捕囚とされたユダヤの民を解放したのも歴史を導く神の業でした。その間、一貫して少数の良心的な人を除いて、イスラエル/ヘブライ/ユダヤの民は神に反抗している罪の奴隷だったのです。民が不誠実なときにも神だけが誠実であったわけです。

神の誠実は神の子イエスの派遣によって頂点に達します。「自分の息子であれば不誠実な民も分かってくれるだろう」とアッバは考えました。裏切られ続けてもなお子どもたちを信じ続ける愚かな親のように、神は愚直に誠実さを貫きます。このような誠実さを「信実」と呼びます。時にこの信実という言葉は「真理」と意味が重なることがあります。イエス・キリストがこの世に遣わされたということは、神の信実を表す「真理」なのです。

神は今までに無い仕掛けをもって神の子を派遣しました。今回の恵みは今までよりも凝った恵みです。それはこの世の人に「罪というものがいかにひどいものなのか」、しかも「そのひどい罪はすべての人にあてはまる」、さらに「罪はあらかじめ神の子によって無条件に赦されている」ということを教えるためにイエスはこの世に生まれたのです。神の子が無実の罪で処刑される時、すべての人は罪がひどいということを知ります。自分が神の子を殺す側に回る人間であることを知るときに、すべての人が「わたしの罪」に直面します(37節)。イエスが決して加害者に報復しようとしないで、むしろ関係の修復をするためによみがえらされたことを知る時に、わたしたちは罪があらかじめ赦されていたことを後で振り返って知るのです。恵みとは極めて巧妙に仕掛けられた神の業/技です。わたしたちはただ「アーメン」と受け取るしかないのです。

死ぬために生まれた人は一人もいません。すべてのいのちは神からの祝福です。しかしただ一人例外がいます。神の子イエス・キリストです。今申し上げたような意味で、十字架で殺されるためにイエスは生まれた、それがクリスマスの出来事です。それはすべての罪人が罪赦された罪人であることを知るためです。すべての人が神の子であることを取り戻すためです。

ヨハネ18:37-38を読みます(206頁)。これは死刑判決を下したローマ総督ピラトによるイエスの裁判の場面です。イエスは「真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」と言います。ピラトの問い「真理とは何か」に対してわたしたちは答えられます。真理とは十字架と復活という神の恵みによる巧妙な仕掛けです。この恵みを「アーメン(その通り)」と受け取ることを、「イエスをキリスト・救い主と信じる」と言うのです。この告白をする人はキリスト者です。すると、キリスト者は自由を得ます。どのような自由でしょうか。

形式的にはバプテスマ(洗礼)を受けたいと思う自由意思です。その形式には次のような実質が伴います。それは、神の子イエス・キリストのように生きるという自由です。イエスの言葉にとどまり続けて(31節)、イエスの言葉を自分のものにしていく生き方です。イエスの言葉を自分なりに深めていく生き方です(37節)。イエスの言葉は常に意外性を持っています。常に古びない新しさを持っています。彼が「アーメン、わたしは言う」(34節)と、確信を持って良心に従って語っていたからです。新約聖書に登場するイエスの数々の言葉は、読むたびに色々な光を放ち、決して退屈しません。お勧めいたします。その言葉に固着して、その言葉を自分のうちで深めて実行するとき、今までの自分が創り変えられていきます。イエスを人格的に信頼する時に、そのような変化・「本当の自由」(36節)が与えられるのです。キリスト者の自由とは何か、イエスの言葉によって創り変えられることです。

たとえば「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(15:12)というイエスの言葉があります。今までの自分なら到底できっこない愛を行うために、イエスを模範にして今・ここで・何をなすことなのかを考え具体的に実行することです。報復しても良い場面でさえ、報復ではなく修復の道を探ることです。

たとえば「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(16:33)というイエスの言葉があります。この言葉にしがみつくときに今までの自分ならへこたれそうな困難に直面しても、復活のイエスにならってなお希望をもって前に向かって行けるように思えます。

このクリスマスの季節、神の子への信仰を持ちましょう。そうすれば自由を得ます。