沖縄県の県営平和公園に「平和の礎(いしじ)」という記念碑があります。沖縄戦等で亡くなった人の名前を刻銘している御影石の石碑を波型に設置したものです。靖国神社やアーリントン墓地よりも優れていることに、平和の礎には、敵味方問わず・国籍を問わず・軍民の別を問わず、死者の名前がその母語で刻まれていることです。その数241,414人です。内訳は、日本人約22万6千人(内沖縄県民約15万人)、米・英国兵士約1万4千人、当時日本国籍を持っていた台湾・朝鮮・韓国出身者約500人。
「石が叫ぶ」という言葉に平和の礎を思い出しました。旧約聖書には「血が叫ぶ」という表現もあります(創世記4章10節)。兄カインによって殺された被害者アベルの血が、加害者の罪を告発し続けているという意味の言葉です。死者はものを言いません。しかし、それを良いことに悪事がのさばるのは死者の血、死者の名前が許しません。このような正義に基づく怒りを「憤り」と呼びます。韓国語の「恨(ハン)」と近い感情だと思います。
本日の箇所は二つの段落に分かれています(37-40節と41-44節)。前半は弟子たちの喜びの叫びであり(37節)、後半はイエスの悲しみの涙です(41節)。異なる話題のように見えますが、両者には共通して用いられる単語があります。「平和」(38・42節)と「石」(40・44節)。ルカは二つの話題を、鍵語で結びつけています。二つで一つのものとして、イエスの思いを推測すべきです。平和の礎は、読み解きのヒントとなります。イエスは本日の箇所において憤りをもっていたのではないかと考えます。第一に自分の弟子たちに対して、第二にファリサイ派の人々に対して、第三にエルサレムの住民に対して。
先週からの続きでイエスは子ろばの上に乗っています。オリーブ山からエルサレムに向かう道に下り坂はありません(原語では「坂」)。子ろばはイエスを背負って必死に上り坂を登ります。弟子たちもエルサレムを目指して登って行きます。すると前方にヘロデが増改築したエルサレム神殿が見えます。その壮大な様を見て、弟子たちは神を賛美します。「王様、万歳」(37-38節)。
「奇跡(デュナミス)」は「力」を意味し、ルカ文書では「奇跡」という意味であまり用いません。ここでは「神殿の威勢・ヘロデの権力」と考えます。弟子たちは奇跡行者イエスではなく神を賛美しています。また直前に奇跡物語は記されていません。ここは「奇跡」ではなく「力」と訳すべきです。
彼らはローマ風のエルサレム神殿を見て、ダビデ王朝の再興を望みみて、民族の神を賛美しました。ヘロデが増築した神殿とその隣の王宮に、自分たちの師匠であるイエスが王として君臨する。ローマ帝国の軍事支配を軍事力で覆す武装蜂起を起こす。弟子たちは、そう考えて「王様、万歳」と叫びます。
イエスはその弟子たちを苦々しく見ます。せっかく子ろばに乗って「平和」とは何かを伝えようとしているのに、身内が台無しにしているからです。武力によって平和は実現しません。ただ十字架の苦難によってのみ、神と人との平和・人と人との平和・人と他の被造物との平和が、打ち立てられます。人々から打ち捨てられ処刑されたキリストという石が、実は建物の土台であり隅の頭石となるのです。彼こそ平和の礎。キリストは地上の王ではありません。
「天には平和、いと高きところには栄光」(38節)という言葉は、クリスマス物語の天使たちの賛美と呼応しています。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(2章14節)。微妙な違いが弟子たちの誤解を示しています。彼らは「地には平和」と叫ぶべきでした。天には既に御心が行われ平和は実現しています。彼らは飼い葉桶の平和の主を誤解しています。地上に平和が無いので、天から地に平和の主が無力な赤ん坊として遣わされたことを理解していません。この誤解が、結論の歪みを生じさせています。弟子たちはローマの力に対抗するための力信奉を持っています。
イエスは弟子たちに憤ります。こういう時、人は自分の考えや感情が顔に出ます。渋い表情のイエスを見て、イエスと弟子の分断を図るファリサイ派の人々が登場します。この人々は、エルサレムから来た群衆の中にいました。明確にイエスを殺そうとしている権力者たちです。「先生、あなたのお弟子さんたちをお叱り下さいな」(39節、田川建三訳)。ずる賢い彼らの意図は、イエスと弟子たちとの間の信頼関係にひびを入れようとすることにあります。蛇の知恵です。弟子に対して憤っているイエスに弟子を叱らせれば、弟子はイエスから離れ、イエスの人気も下がるかもしれません。
イエスの憤りはファリサイ派に向かいます。なぜならファリサイ派が、イエスの弟子になった人々を、忌み嫌い差別し社会の片隅に追いやっていた張本人だからです。徴税人や娼婦を罪有りとしたのはファリサイ派です。安息日の癒しを律法違反と批判したのはファリサイ派です。ファリサイ派の聖書解釈に苦しめられていた人々が、救われてイエスの弟子となっていたのでした。ファリサイ派の言動に対する憤りこそ、今までのイエスの活動の源泉です。そのファリサイ派に、自分の弟子たちのことを指示され、分断工作に乗せられるのは愚かです。イエスは、この時点で無理解な弟子たちをかばいます。
子ろばの上からイエスはファリサイ派の人々に憤りに満ちた声で言い放ちます。「わたしはあなたたちに言う。もしこれらの人たちが黙れば、諸々の石が叫ぶだろう」(40節、直訳風私訳)。
弟子たちが民族主義的・軍事的メシアを待望しなくなるのはいつでしょうか。「王様、万歳」と叫ばなくなり、黙るのはいつでしょうか。十字架でイエスを失う時、弟子たちは挫折から言葉を失います。復活したイエスと出会った時、弟子たちは驚き言葉を失います。聖霊降臨でイエスの霊をいただいた時、弟子たちは十字架のイエスが主であると霊において呻きます。教会が生まれたとき、彼ら彼女たちはローマ帝国の力の支配に対し、愛によって仕える草の根ネットワークを他民族にも広げます。軍馬に乗る王ではなく、子ろばを助けながらそれに乗る僕。王座に座る王ではなく、飼い葉桶に寝かされ十字架にかけられる僕。この僕としての王を信じる交わりに、力を棄てるという平和があります。
弟子たちが悔い改め別方向の活動をし始めるその一方で、力を信奉するサドカイ派・ファリサイ派が、エルサレム指導者層の中に依然君臨していました。イエスの憤りは、そこへと向かいます。紀元後70年、ローマ帝国からの独立を求めて武装蜂起が起こり(ユダヤ戦争)、43-44節に予告されている出来事は実際に起こります。ローマ軍によりエルサレムは完全に包囲され、徹底的に破壊されます。その様子は、「あなたの中の、一つの石も一つの石の上に残らない」(44節、直訳)というものです。すべての石がばらばらになるほどの建造物の破壊です。沖縄戦における「鉄の暴風」に似ています。弟子たちが賛嘆したヘロデの神殿の威勢・力は、それに勝る力によって潰されうるものです。
石が叫ぶということは、愚かな戦争を始めてしまい、その結果悲惨な破局を招いてしまった人々の後悔の叫びでもあります。愚かな戦争を始めた政府を支持した結果、特に子どもたちのような災害弱者を始め、無辜の民も含めて大勢の人が殺され、文化と生活が根こそぎ破壊されてしまいました。エルサレムに入る直前、イエスはその未来に起る戦争の悲劇を予見して、悲憤に駆られてろばの上で泣きます。その嘆きは13章34-35節の繰り返しです。
イエスの涙は日本国憲法前文および9条と共鳴しています。「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し・・・」「国権の発動たる戦争・・・を放棄する」。憲法前文・9条は、大日本帝国政府の侵略行為に対する悔い改めの告白です。それは琉球・アイヌの武力併合から始まり、日清戦争、日露戦争、朝鮮併合、アジア・太平洋戦争へと続く侵略です。政府に戦争遂行の権限を認めないという内容は、大日本帝国憲法にはありません。明治150年の今、明治憲法から平和憲法への転換の意義が見直されなくてはいけません。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイによる福音書26章52節)からです。これこそ、ばらばらにされた一つ一つの石の叫びです。
結局、大きいもの・力あるものを目指そうとする支配欲が、わたしたちの問題ではないでしょうか。弟子たち・ファリサイ派・エルサレム、この三者がイエスの憤りの対象となる理由は、力を信奉し力を濫用しているということにあります。武力によって平和はつくれません。そして、政治権力・経済力によっても平和はつくれません。「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる」(ゼカリヤ書4章6節)。
聖霊によって平和を創り出す。その具体は何でしょうか。本日の聖句は、「知る」ということを勧めています。二回「知る」という言葉が繰り返されています。「もしも今日あなたも平和への諸々の事柄を知っていたなら」(42節、直訳)。「なぜなら、あなたはあなたの査察の時を知らなかったからだ」(44節、直訳)。多方面から吹きつける風に導かれて平和への諸々の事柄を知ること、そして自分に対する査察が霊の神の前であるということを知ることです。聖霊は他人から諸々の事柄を学ぶという謙虚さをわたしたちに与えます。聖霊は神を畏れるという謙虚さを与えます。どちらも子ろばの姿勢、十字架を背負うイエスの姿勢と似ています。
わたしたちは戦後の平和教育においていつも一つの視点で一つの事柄ばかりを学んでいます。「戦争被害の悲惨を知る」というものです。この平和教育に弱点があります。平和ではなく戦争を学んでいること、自らの加害を悔い改めることまで至りにくいこと、被害者が死んだ後風化しやすいこと等です。より大切なことは、ばらばらの石を再び組み合わせる方法や、種々の異論を噛み合わせる方法。つまり平和をどのように建て上げるかを、多くの可能性に開かれて学ぶことが大切です。平和教育には、人権尊重や、異なる意見の人との合意形成、自治・主権者教育なども含めるべきでしょう。わたしたちは他者と共に生きるための、もろもろの事柄を謙虚に学び、キリストに倣う必要があります。
わたしたちは神がわたしたちを査察する方であるということを知るべきです。イエスはエルサレムで「宮清め」をしました(45-48節)。サドカイ派・ファリサイ派と論争しました。それは査察です。神による業務監査です。エルサレムは力に頼るなと警告され指導を受けたのです。十字架は権力者につきつけられた監査所見です。改善点は、傲慢、搾取、自己中心、支配欲、要するに罪。
十字架による救いを信じるキリスト者は、自らの罪が裁かれながら赦されたことを知っています。だからわたしたちは、神に常に説明責任を負って、目には見えない霊の神の前に生きています。「あなたの会計報告を出しなさい」(16章2節)。ここにキリスト者特有の謙虚さが生まれます。
今日の小さな生き方の提案は、自らの力を棄て、力への憧れを棄てることです。力の濫用・力信奉に対しては神の査察が入ります。大国である必要や、意味もなく威張る必要はまったくありません。わたしたちの国は必ず人口が減り続けます。良い機会です。限られたパンを分け合って助け合う方法を学びましょう。その学びは確実に他の国と戦争をしない道や、威張らない個々人になることに直結します。そのような知恵の石を共に拾い平和の道を敷きましょう。