はじめに
東京北教会の皆さま、そして泉バプテスト教会の皆さま、おはようございます。
本日は、泉教会の皆さまに東京北教会の礼拝式に加わっていただく形で、合同礼拝が実現したことをとても嬉しく思います。
泉教会の方に限らず、東京北教会の礼拝に最近出席してくださるようになった方々もいらっしゃいますので、東京北教会のこと、また泉教会との関係を簡単に紹介させてください。私たちの教会は、1897年に茗荷谷教会の伝道所として、北区での宣教を開始しましたが、自前の会堂は持たず30年以上借室で宣教活動をおこなってきました。現在の会堂ができる前は、赤羽にあるビルの2階の一室を会堂として活動をしていました。13坪という小さなワンルームでしたが、折り畳みの椅子やテーブルを用いて、その部屋を、ある時は礼拝堂、ある時は教育館、ある時は食堂というように多目的に利用し、時には非常階段の踊り場で、託児や牧師との面談が行われることもありました。それでも、近所の自治会館も借りたりしながら、コンサートや子ども会、こども食堂など地域に向けたさまざまな活動をしてきました。しかし、会堂がビルの2階であるためか教会があることをなかなか周囲に認知してもらうことが難しく、地図を見ながら教会を目指して来る方でも、教会を見つけられずに迷ってしまうことがありました。また、借室であるために活動に制約を感じることもあり、より地域に開かれた教会となるために、自前の会堂を得たいという思いが強められていきました。しかし、北区とは言え、東京で土地を取得し会堂を建てるには、1億円以上の資金が必要です。私たちの教会だけでは、到底調達することが難しい金額でしたが、その時、連盟の全国支援・地域協働プロジェクトとして支援を受ける道があることが示されたのです。しかし、全国支援・地域協働プロジェクトとして申請することも決して簡単なことではありませんでした。私たちの計画に賛同・協働してくれる教会が必要であり、東京地方連合の承認を得た上で、連盟定期総会で全国の教会代議員によって支援を承認される必要があったからです。
そんな中、泉教会は、東京北教会の地域協働プロジェクトを立ち上げるにあたって、いち早く協働教会の名乗りをあげてくださり、城倉啓牧師が、協働教会・賛同教会になっていただくために全国の教会にお声かけしてくださったことを、この場を借りて教会員一同感謝申し上げます。そのおかげで、2018年度の連盟定期総会で全国支援・地域協働プロジェクトとして支援を受けることが決定したのです。
私たちの地域協働プロジェクトの大きな柱は、多種多様な人々に開かれた教会になることと、そのために自前の会堂を持つことです。私たちのプロジェクトは、8年のプロジェクトで、今年度が5年目なのですが、前半の4年間は、土地探しと会堂建築、魯牧師の入院加療や新型コロナウイルスの流行が重なり、なかなか思うような活動ができませんでした。協働教会ともなかなか交わりを持つことができませんでしたが、大変な時期に、祈りに覚えていただいていること、また毎年支援してくださることが、とても大きな力になりました。ありがとうございます。しかし、建築以外の活動が停滞しているかのようであったプロジェクトの2年目、2020年度に当時神学生であった郭修岩宣教師との出会いが与えられ、2021年度からはシンガポール国際日本語教会からの派遣宣教師宣教師として教会にお迎えすることができたのです。郭先生には、多種多様な人々に開かれた教会となるために、沢山の力を貸していただいています。郭先生とお連れ合いのJojoさんがいらっしゃることで、中国語を母語とする方が礼拝に出席してくださるようになった他、マレーシアの宣教師先生のつながりで、昨年はマレーシア・ナイトという異文化交流の集会を開催することができました。今年は、6月にシンガポール国際日本語教会から宣教チームが来る他、中国語を習いたいという方の要望に応えて中国語教室の開催、また韓国語教室の再開を計画しています。祈りと支援によって支えられてきた私たちは、地域協働プロジェクトによって受けた恵みを、全国の教会に分かち合って行けることを願っています。そして、次年度には協働教会との協働の機会をさらに増やしていきたいと考えていますので、どうぞよろしくお願いいたします。次回はぜひ、泉教会の礼拝式で合同礼拝できると嬉しいです。
テサロニケの教会
本日はテサロニケの信徒への手紙二のはじめの部分を共に読んでいきたいと思います。テサロニケはマケドニア州最大の港湾都市です。使徒言行録によれば、パウロとシラスが第二伝道旅行でテサロニケを訪問し、ユダヤ人の会堂でイエス・キリストを宣べ伝えたことが、教会の基礎を築きました。ユダヤ人のうちのある者と多くのギリシャ人、主だった女性たちが、イエスが救い主であるというパウロの教えを信じましたが、他のユダヤ人たちはそのことを妬み、ならず者をけしかけて暴動を起こします。パウロとシラスは辛くも脱出しますが、二人をかくまった人々は、町の当局者たちのところへ連れていかれます。さらに、二人がべレアへ逃れ、そこで福音を宣べ伝えていることを知ったテサロニケのユダヤ人たちは、べレアまでへも押しかけて行き、そこでも群衆を扇動して彼らに対して暴動を起こしたのです。テサロニケは、このようにキリスト者たちへの迫害が非常に激しい地域でしたので、テサロニケの教会の人々の信仰生活は苦難に満ちていたのです。
手紙
そのような迫害の中にあって、パウロとシルワノ、テモテからテサロニケ教会へ書かれたとされるこの手紙は、彼らのことを励まし、支えたにちがいありません。手紙は語ります。「あなたがたのことを感謝せずにはいられません。」なぜなら、「あなたがたの信仰が大いに成長し、互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです」と。さらに、「あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っている」と手紙は語ります。苦難の中にあっても、ますます成長していくテサロニケの教会の人々の信仰と愛をみて、パウロたちもまた励まされ、福音宣教への思いが強められたのでしょう。そして、この手紙の言葉は、テサロニケの教会の人々を喜ばせたことでしょう。自分たちの苦難を理解してくれる人がいること、また自分たちの信仰を認めてくれる人がいることは、テサロニケの教会の人々の苦痛を和らげ、さらに忍耐する力を与えたことでしょう。
かの日
手紙は、テサロニケの教会の人々が受けている迫害と苦難は、彼らを神の国にふさわしい者とする神の判定が正しいという証拠であると言います。神の国とは、神が王として支配する国のことであり、神の正義が支配する領域です。この神の国を宣べ伝えているために、テサロニケ教会の人々は苦しみを受けているのであり、だから彼らは神の国にふさわしい者なのです。
そして、神は彼らの苦しみをそのままにはされません。神は正しいことを行われる方であり、彼らの苦しみに報いてくれる方であると手紙は伝えます。神は彼らを苦しめている者には、苦しみを持って報いられ、彼ら苦しめられている者には、休息をもって報いてくださるのです。それが行われるのは、かの日、イエスさまが力強い天使を率いて、再び天から来られる時です。その時が来たら、神の正義が実現すると、手紙はテサロニケの教会の人々を励まします。
かの日に起こるのは、神の裁きすなわち正義の実現だけではありません。その時が来たら、主イエス・キリストは、聖なる者たちの間であがめられ、ほめたたえられると言います。聖なる者たちとは、イエスを救い主として信じた人々、キリスト者のことです。テサロニケの人々はイエスを救い主であると告白することで迫害に遭っていましたが、その日にはすべての信じる人々が、主イエスを、あがめ、ほめたたえることができるのです。
祈りによる支え
手紙は言います。このことのために、いつもあなたがたのために祈っていると。このこととは、イエス・キリストが再び来られる日に、すべての信仰者と共にイエス・キリストを賛美する恵みのことでしょう。手紙は、激しい迫害にあっても、テサロニケの信仰者たちが、信仰から離れることがなく、主イエス・キリストを証し続けることができるように、またキリスト者にふさわしく歩むことができるように絶えず祈っていると励まします。
わたしたちも経験があることですが、苦しみや悲しみの渦中にある者は、目の前のことしか見えないことがあります。テサロニケの教会の人々たちも、激しい迫害の中で、その先にある希望が見えなくなることがあったかもしれません。そのような時に、外からの祈りと励ましとは、人々に希望と恵みを思い起こさせる役割をしたでしょう。何よりも、自分たちが祈れない時にも、自分たちのために祈ってくれる存在があることは、とても大きな力になったと思います。
渦中にある者には、見えていないことが、外にいる者からだと良く見えることもよくあることです。テサロニケの教会の人々は、一日一日を主に従いながら必死に生きていただけかもしれませんが、客観的に彼らを見た時には、「あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっている」と書かれていたように、この手紙を書いた者たちが感嘆するような信仰と愛とが彼らの間にはあふれていたのだと思います。テサロニケの教会の人々の信仰と愛とが、著者がこの手紙を書くことへと突き動かしたのかもしれません。
実は、第二テサロニケと呼ばれる、このテサロニケの信徒への手紙二は、パウロが書いた手紙でない可能性が指摘されています。パウロではない誰かが、パウロの名前を借りて書いたものであろうと言われています。彼はパウロの権威を借りて書いたのかもしれませんが、そこにはパウロと同じく、苦難の中にある教会を励ましたいという思いが優っていたのではないかと想像します。たとえパウロが書いた手紙ではなくても、この手紙には、その教会を思って書かれた祈りと励ましがあふれているからです。この手紙がパウロではない誰かによって書かれたことは、互いに祈り合うこと、励まし合うことが、パウロたちだけに留まらず、初代教会の中に受け継がれていったことを表しており、そのことに私は感動を覚えます。
東京北教会の地域協働プロジェクトは全国の教会に覚えられ、祈られているプロジェクトです。そのため、正直プレッシャーを感じることもあるのですが、それ以上に、多くの方々に祈られていることが、やはり私たちにとって、とても大きな力となっています。会堂建築の時に、関西連合や福岡連合の教会からも献金を送っていただいた時には、驚きと同時に祈られている喜びを感じました。献堂式の時は、まだコロナの感染拡大を心配して、会堂への出席者を制限しなければなりませんでしたので、ZoomとYouTube配信を併用しましたが、北から南から大勢の方々が参加してくださいました。中には存じ上げない方も参加して共に喜びを分かち合ってくださり、本当に多くの方々の祈りに支えられてきたことを実感しました。
当初、協働教会、賛同教会に私たちの祈り題を共有し、祈っていただくばかりだったのですが、祈られると、私たちも祈りたくなるのです。今は、協働教会協議会の時などに、自分たちの祈り題を共有するだけでなく、協働教会の祈り題を伺って、私たちも祈りに覚えています。
現在私たちは、テサロニケの教会の人々のように激しい迫害にさらされているわけではありません。しかし、沖縄の辺野古新基地建設における国の「代執行」や朝鮮人労働者追悼碑を「群馬の森」公園から撤去するための群馬県による「代執行」など、民主主義が脅かされる出来事が起きています。これらの出来事を傍観していると、気が付いた時には。信教の自由などの個人の権利が危うくなっているかもしれません。
また、様々なものが世にあふれる中で、昔とは違う福音宣教の難しさに教会は直面しています。そのような中では、なおさら私たちは祈り合い、知恵を出し合い、協力し合う必要があると思います。自分たちの教会だけでは、行き詰ってしまうことがありますが、他の教会と協働することで新しい視点が与えられることがあるのではないかと思います。
これまでお祈りで支えてくださり、ありがとうございました。わたしたちもお祈りしていきます。助けが必要な時は声をかけてください。共に祈り合い、助け合いながら、神さまからいただいた恵みを分かち合っていくことができることを願っています。