【はじめに】
本日の箇所は、前回の続きです。慈善・寄付をするときに、秘密の中で行うことが勧められるのと同様に、祈りも秘密の中で行うことが勧められています。人前で見えるようにすることによって、他人から栄誉を受け取るならば、それは「報酬」(2・5節)であるからです。信仰に基づく行ないによって報酬を得る人を、イエスは「偽善者たち」(2・5節)と厳しく批判しています。この考え方は、断食にも当てはまります(16-18節)。
人前で見られるためではないとするならば、わたしたちの祈りとはどのようなものであることが求められているのでしょうか。そもそも祈りとはどのような宗教的行為なのでしょうか。祈るときにわたしたちが大切にしなくてはいけないこととは何なのでしょうか。
5 そしてあなたたちは祈るときには、その偽善者たちのようではないだろう。なぜなら、その諸会堂において、またその諸々の通りの諸々の一角において、立ったまま祈ることを、彼らは好むからだ。その結果、彼らがその人間たちに見られるように。アーメン、わたしはあなたたちに言う。彼らは彼らの報酬を受け取っている。 6 さてあなた、あなたが祈るときに、あなたの部屋の中へと入り来よ。そしてあなたの戸を閉めた後、あなたは、その秘密の中にいるあなたの父に祈れ。そうすれば、秘密の中で見ているあなたの父が、あなたに報いるだろう。
【アーメン、わたしは言う】
わたしたちは祈りの最後に「アーメン」と唱和することを習慣としています。自分の祈りにおいては、「信実に思ったままの本心を祈りました」という意味で「アーメン(その通り)」と言います。誰かの祈りにおいては、「祈られた内容にわたしも同意します」という意味で、「アーメン(その通り)」と言います。時々、他人の祈りの途中でも、感極まって「アーメン(その通り)」という人もいます。いずれにせよ、祈った言葉の後であることが通例です。この通例は、イエスの時代にもそうでした。
ところが、この当たり前をイエスは変えました。「アーメン、わたしはあなたたちに言う」(5節)という言葉づかいは、同時代の文献からは発見されていない、イエス独自の表現です。イエスは、祈りの時にしか使われないアーメンという言葉を、用い方を変えて日常の口癖としました。誰の同意も求めずに、ただ神の前で信実である言葉をこれから言うぞという場面で、信念をもって発言の冒頭に「アーメン」と言い放つのです。
宗教者たちはイエスのこの口癖を嫌ったと思います。「生意気だ。不遜だ。自分の言葉の真実性を自分で宣言するとは何事か。神への冒涜だ」と非難したことでしょう。おそらくイエスの本意は、裏表のない言葉づかいを心がけよというものと推測します。一人で祈るときにも、人々と共に祈るときにも、人々とおしゃべりするときにも、いつも「アーメン」という態度(神に対する信頼に固く立ち、隣人に対して信頼に値する誠実さをもって臨む態度)をもっていることが望ましいと考えていたのでしょう。わたしたちも言葉と態度を大切にし、裏表なく誠実に人間関係を構築したいものです。
【神との秘密の対話】
「祈りは神との対話である」と言われます。その通りです。では、わたしたちの対話相手である神はどこにおられるのでしょうか。「秘密の中にいる」「秘密の中で見ている」とあります(6節)。祈りとは神との秘密の対話です。自分の心の中の、さらに奥にある秘密の部屋の中。内側から鍵をかける厳重な警戒において、つまり誰にも明かされない本心に立ち帰る場面で、わたしたちは神にのみ本音トークができます。
祈りの大前提は、一人になる時間を確保するということです。人間の生活には独りになる時間が必要です。どんなに親しい人でも常に一緒に居れば疲れます。子育てで辛いのは、乳幼児からは決して目を離せないこと、つまり自分が一人になりたくてもそれが許されないということにあると思います。秘密裏に神と話そう(祈ろう)とする時に、わたしたちは「一人になる時間の確保」という大切な行為を自然とすることができます。
さて、一人になるということは大切ではありますが、しかしそれと同時に、「人は独りでいることは良くない」とも言われます。「あなたの父」(6節)という言葉が2回繰り返されています。聖書の神はインマヌエルの神です。信徒と結びついて、どこまでも共に歩く神です。これは族長の時代からイエスの時代まで、旧新約聖書を貫く神の性質です。誰もいなくても、少なくとも神だけは信徒と共に居ます。一人の時間を確保している間は、実は孤独なのではなく、神と共に居る時間なのです。あなたの心の中にある秘密の部屋には、あなただけではなく「あなたの神」がいます。その神は、イエスが「わたしの父(アッバ)」と呼んだ神、「あなたのアッバ」です。「わたしの」も「あなたの」も単数形であるので、個と個、個別具体的な関係、人格的personalな関係が言い表されています。
神と何を話すべきなのでしょうか。イエスに倣えば良いでしょう。イエスは「アッバ」と呼びかけた後、「死にたくない」と身もだえしました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」(マルコ14章36節)。何とみっともない神の子の姿でしょう。しかしこれは人の子として誠実な姿です。神と何を話すべきか。自分の最も醜い部分、弱さや悪さをさらけ出すべきです。誰も受け止めてくれないであろう言葉、自分でさえ認めたくない恥部・罪を、神に呻き叫ぶことが求められています。「アッバ、わたしの神がなぜわたしを棄てたのか」(同15章34節)。そうすればわたしたちは生きます。
7 さて祈っていてもその諸民族のようにあなたたちは無駄に繰り返すな。というのも彼らは、彼らの多弁において彼らは聞き入れられるだろうと考えているからだ。 8 それだからあなたたちは彼らを真似るな。というのもあなたたちの父は、あなたたちが彼に求める前に、あなたたちが何を必要として持っているかを知ったままだからだ。
【多弁ではなく】
「諸民族」(7節)は、「ユダヤ民族以外の諸民族」という意味です。この言い方には民族主義が前提となっています。そしてマタイ福音書に非ユダヤ人蔑視の姿勢はしばしば見受けられます。7節全体に醸し出されている非ユダヤ人蔑視の姿勢は、歴史的にはイエスに遡らないものです。マタイ教会がマタイ版イエスの口に入れた言葉です。現代に生きるわたしたちは、すべての民族差別を超えた意味で「諸民族」を解釈する必要があります。つまり、「すべての人」という意味で「諸民族」とイエスが言ったのだと理解すれば良いでしょう。ユダヤ人であれ非ユダヤ人であれ、すべての人は祈りの言葉が多ければ聞き入れられるなどと錯覚せず、「無駄に繰り返す」(7節)ことを避けるべきなのです。
この注意はおそらく「秘密の中」での本音トークとは別の場面です。誰もいないところで神と話す際には、無駄に繰り返す言葉があっても良いからです。イエスもゲツセマネで同じ言葉を繰り返して祈っています(マルコ14章39節)。イエスを「真似る」べきです(8節)。「彼らを真似るな」と言われている「彼ら」は会堂や道路でこれ見よがしに自分の語彙をひけらかして祈っている宗教者たちのことでしょう。その宗教者たちは豊かな語彙を褒められることによってすでに「報酬」を受けている「偽善者たち」です。仮に百歩譲って、「多弁において…聞き入れられる」という思い込みがありえたとしても、この発想の根本的な過ちをイエスは指摘します。多くの言葉で願えば、その数に比例して神は信徒の祈りを聞きやすくなるという考えは根本的に間違えている。神について誤解している。それゆえに神への祈りについて誤解している。「あなたたちの父は、あなたたちが彼に求める前に、あなたたちが何を必要として持っているかを知ったままだからだ」(8節)。
「あなたたちの神」と複数なので、personalな関係の秘密の祈りではなく、会堂や教会でなされる共同体共通の祈りの場面でしょう。教会が持っている必要を、わたしたちは毎週の主日礼拝の中で祈願します。その際に注意したいことは、わたしたちの神がどのような方であるのかということです。神は、わたしたちが祈る前から、わたしたちに何が必要であるのかを知っていて、その知っているという状態を保ったまま、わたしたちの祈りを聞く方であるというのです。勘違いしてはいけません。神はわたしたちが祈願した時にわたしたちの必要を知るのではなく、祈る前からわたしたちの必要をよくご存じであるのです。親が子どもの欲することをかなり正確に予測できることと似ています。だから多弁であるかどうかはまったく問題とならないのです。先に知られているからです。
ではなぜ祈る必要があるのでしょうか。神がすでに祈願の内容を知っているのならば、祈らなくても良さそうです。神は確認したいのだと思います。信徒が信頼しているかどうかの確認です。子どもが親に甘えておねだりすることと似ています。親はまんざらではないものです。そして神は、信徒が自身にとって真に必要なことを祈願するかどうかを確認しているのだと思います。ずばっと端的に自分の必要を言えるか、そこまでの信頼関係があるか、祈りにおいて問われているのはわたしたちの信です。
【今日の小さな生き方の提案】
素直に神に願い求めることを祈りの中でしたいと思います。象徴的な言い方で言えば、「常にアーメンを心がける」ということです。まず素朴に神を「アーメン」と信じることです。何があっても神と自分は切り離されないと信じること、その親しい近い神はわたしの願いをすでに知っていると信じることです。そして一人になる時間を確保して、自分の本心であり、自分自身「アーメン、わたしは言う」と言い切れる内容を神に端的に打ち明けることです。隣人の祈りには、なるほど本当にそうだなという気持ちで、「アーメン、あなたの信があなたを救いますように、あなたの願い通りに共同体全体が救われますように」と応答することです。そして密かに、困っている隣人の救いのために「アーメン」と祈ることです。アーメンの同心円と交差が世界を動かします。