先々週と先週に引き続くサンドイッチ構造の最後の部分です。いわゆる「ペトロ(の信仰)告白」と呼ばれている箇所です。これにより、「イエスとは誰か」という問いに対する答えが明らかになります(7-9節、18-19節)。人びとはイエスが何者かをさまざまに論じていました。バプテスマのヨハネなのか、エリヤなのか、昔の預言者の一人なのか。すべて違います。ペトロが答えました。イエスは「神からのメシアです(20節)」。
直訳すれば「神のキリスト」という表現です。ここで新共同訳聖書はギリシャ語のクリストスという単語を逆翻訳しています。ギリシャ語クリストスは、ヘブライ語メシア(マーシアッハ)をギリシャ語に翻訳するときのための言葉です。メシアは「油注がれた者」という原意ですが、「神に任命された救助者」つまり「救い主」という意味へと発展していきました。ユダヤ人たちが、王を任命する時に頭から油を注いでいたことに由来します(サムエル記上10章1節他)。原文ギリシャ語ではなく、その背後にあるヘブライ語にまで遡って翻訳することを逆翻訳と呼びます。いずれにせよ意味は同じです。「メシア」であれ「キリスト」であれ、「救い主」という意味です。余談ですが、「イエス・キリスト」という二語は、名前・苗字の関係ではなく、名前・称号の関係にある、ひとつながりの呼び名です。
もう一つ翻訳の問題があります。「神からの」という訳し方です。ありえる訳ですが強い/狭い意訳です。「神の」が直訳です。曖昧な意味ですが、ここは曖昧な方が良いでしょう。多分に「神の子」のような意味で用いているように思えるからです(3章38節の最後の単語は「神の」。なお、マルコ8章29節、マタイ16章16節も参照)。また、「神のキリスト」は、「神」と「キリスト」が同格のようにも捉えられるので、三位一体の神を信じる立場からも良いように思えます。イエスとは誰か。神のキリストです。
ルカの文脈において、キリストは五千人の人々を満腹させる力を持っている救い主・「食卓の主」です(10-17節)。ここにルカ福音書と使徒言行録を編纂して書いた人々の信仰告白があります。この人々は、「四千人の給食物語(七つのパン、余りが七つの籠)」を省き、五千人の給食物語の中に含ませました(マルコ8章1-10節、マタイ15章32-39節参照)。「イエスとは誰か」という問いに対する「食卓の主である」という答えを重視するためです。
マルコの教会はペトロを評価していません。むしろ、「あなたはキリストです」というペトロを叱りつけています(マルコ8章30節)。直後にイエスから「サタン」とまで言われます(同33節)。ペトロ告白はペトロを批判するために用いられているのです。
マタイの教会は、逆にペトロを持ち上げます。教会の礎とまでイエスがペトロを褒めあげます(マタイ16章17-20節)。ペトロ告白はペトロを評価するために用いられています。
それに対してルカの教会は、ペトロを否定も肯定もしません。ルカのイエスはペトロだけを名指しで褒めもせず、ペトロだけを「サタン」とも呼びません(21節)。ルカの教会の関心は、食卓を通して・食卓の直後に、どんな人もイエスを主と告白する信仰に導かれるというところにあります。それは、教会が食卓と一体化した礼拝を中心に伝道をしていたからです(使徒言行録2章41-47節、6章1-6節、20章7節、コリントの信徒への手紙一 10-11章)。
結果としてルカ共同体が五千人の給食物語だけを残して記録したことは史実に近い態度となりました。おそらくイエスは一度だけ大勢の人を養ったのでしょう。それが別の伝承経路で二つの物語に分岐したと考えられます。そしてその奇跡が起こった場所は、トラコン地方の湖べりの小さな町ベトサイダでした(10節。ヨハネ1章44節、同6章1-15、マルコ8章22節参照)。
ではペトロ告白の場面はどこなのでしょうか。マルコ福音書は「フィリポ・カイサリア地方の方々の村」と指定しています(マルコ8章27節)。フィリポ・カイサリア地方は、トラコン地方の別名です。トラコン地方の首都がカイサリアだったので、このように呼んだのでしょう。「ガリラヤの領主ヘロデの弟フィリポが建てたカイサリア」という意味で、地中海岸沿いの大都市「(海の)カイサリア」と区別して、「フィリポ・カイサリア」と言います。ガリラヤ湖から40kmほど北の内陸の町です。おそらくこのペトロ告白の場所も正しい情報でしょう。イエス一行は領主ヘロデの追っ手を避けて、ベトサイダを始めとしてトラコン地方の村々を旅していました。そのどこかの時点で、ペトロ告白が行われたと思います。
だからルカの文脈で、イエスが弟子たちを叱りつけて、「このことを誰にも話さないように」と命令する理由は、彼らが迫害を避けて逃げているという事情にあります(21節)。イエスをキリストと告白することは、トラコン地方にあっても危険なことだったのです。この文脈でルカは弟子をかばうイエスの優しさを描いています。それが、十字架と復活の予告と(22節)、弟子の覚悟についての教え(23-27節)につながっていきます。
イエスは、トラコン地方までついてきて信仰告白までする弟子たちを、ある意味でねぎらい、「命の危険を冒して信仰告白を公言するまでもない」と言います。その後で、イエスは心を変えて、「よく考えてみれば、弟子となれば常に命の危険が伴うのだから、予め覚悟を教えておこうか。その方が親切だ。なぜなら自分も十字架で殺されるのだから。三日目によみがえらされるとしても、苦難について予告しておいたほうが良かろう」と考えました。(22-27節)。
ルカ福音書において、ペトロ告白は決して悪いことではありません。むしろ良いことです。その点ルカはマタイに似ています。しかし、ペトロという信仰告白をする者が中心ではないのです。ルカの力点は信仰告白の対象であるイエスにあります。ルカの教会の強調点は、常にイエスの配慮が信者に対してあるというところにあります。一方で、信仰告白というものは、非信者に無理強いしてさせるものではありません。ただし他方で、イエスは道を求める者をほったらかしにもしません。このイエスに集中すること・委ねていくことの大切さをルカは訴えています。そのためにペトロ告白が用いられています。
「イエスがひとりで祈っておられたとき」(18節)とあります。ルカ福音書のイエスは、よく祈ります。バプテスマの際にも祈り(3章21節)、人を癒した後に人里離れた所に退いて祈り(5章16節)、十二使徒を選ぶ前にも祈り(6章12節)、三人の弟子を連れ山に登って祈り(9章28節)、ペトロのために祈り(22章32節)、ゲツセマネの園で祈り(22章41-42節)、十字架の上でさえも祈ります(23章34節)。それに加えて食前の祈りが常にあります(9章16節・22章17節・24章30節)。イエスの祈りが前にあり、ペトロの信仰告白が後にあります。イエスの祈りに基づいて弟子は選ばれ、イエスの祈りによってパンが豊かに増えて弟子は養われ、イエスの祈りに支えられ弟子は信仰の告白に導かれます。その後、弟子はイエスを裏切り引渡し見捨て十字架へと追いやりますが、イエスの祈りによって弟子は赦されて使徒とされます。
特にペトロについて、この赦しがよく分かります。トラコン地方で一度信仰告白をしたペトロが、エルサレムで十字架前夜に三度イエスとの師弟関係を否定します(22章54-62節)。「ペトロの否定」と呼ばれる、有名な裏切り行為です。ルカ福音書だけが、「ペトロの否定」のその瞬間イエスが振り向いてペトロを見つめるのです(22章61節)。この優しい眼差しは、「ペトロの信仰がなくならないための、あらかじめの祈り」に基づくものでした(22章32節)。ペトロは一つの例にすぎません。すべての弟子・すべての人・すべての命が、予めイエスによって祈られているのです。
キリスト信仰というものは徹底的に他力本願です。キリスト中心と言っても良いでしょう。イエス・キリストが信仰の創始者であり完成者であると信じることが重要です(ヘブライ12章2節)。信仰告白というものを自分の努力で作り上げることができるのでしょうか。信仰告白というものは救いの条件なのでしょうか。バプテスト教会がバプテスマと一体化したものとして入信志願者に各個人の信仰告白を書かせるために問題になります。わたしたちは基本をまず共有しなくてはいけません。誰も聖霊によらなくては「イエスが主である」という信仰告白を与えられません(コリント一12章3節)。これが基本です。つまりキリストを信じたいとか、キリスト教会に行ってみたいと思うことそのものが自力では生まれない思いです。聖霊の神がその思いを与えているということです。
聖霊とは十字架で殺され三日目によみがえらされた「イエスの霊」です(使徒言行録16章7節)。イエスは霊というかたちで、世界中を覆い、教会を包み、ひとりひとりの中に宿っておられます。聖霊は世界のために、教会のために、ひとりひとりのために執り成し祈る神です。そして三位一体の神への信仰に基づいて、聖霊はイエスそのものです。今もイエスは聖霊としてわたしたちのために祈っておられます(ローマ8章26-27節)。神とキリストが同格のように、聖霊も神とキリストと並び同格です。神が霊であるからです(ヨハネ福音書4章24節)。
ペトロや他の弟子たちを信仰告白へと導いたのはイエスの祈りでした。同じようにすべてのキリスト信徒を信仰告白へと導き続けているのは聖霊の祈りです。イエスを自分の救い主と信じる行為は、力んでなされるものではありません。自分から構えてハードルを設けて、それを乗り越えないと達成できないものでもありません。例えば聖書をたくさん読んで覚えるとか、毎日決まった時間に祈るとか、人に親切をするとか、そういった事柄は良いことですが、イエスをキリストと信じることと関係なくできることでもあります。信じるということは、信じたいという思いが与えられていることに気づくこと、そしてその恵みをただ受け入れることなのです。
そもそも信じたい思いはどのようにして与えられたのでしょうか。わたしが生まれる前から、わたしのために祈っている方がおられたからこその出来事です。それはわたしが死ぬ時まで、わたしのために祈っておられる方がおられるということでもあります。その方は実際にわたしの人生を導き、人生の折々に必要な養いを与え、立ち上がる力を与えてくださいます。そしてわたしが死んだ後も、その方と共に永遠に生きることができるのです。
イエスとは誰か。このようなメシア、キリスト、救い主、わたしたちの主、全世界の主です。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(20節)。ここに集っているわたしたち、あるいは聖霊によって呼び集められているわたしたちは、この問いの前に立っています。素直に神の前で心を開いて、キリストを信じたいという気持ちがあることに気づいてみませんか。そして主の食卓を通して、「イエスがキリストである」という告白を共にする交わりに参与していきましょう。それが今日の小さな生き方の提案です。