今日の箇所は、「イエスのバプテスマ」(21-22節)と「イエスの系図」(23-38節)という二つの内容を含んでいます。今回もルカ福音書の特徴に注目しながら、二つの内容についてお話をします。ルカは、独特な視点を持っています。そもそもバプテスマと系図を前後にくっつけているのはルカの着想です(マタイ1章参照)。そこから、バプテスマの意義や、人間をどのように見るべきかについて考えてみましょう。
マルコ福音書・マタイ福音書を見ると、イエスがヨハネからバプテスマを受けたことは明白です(マルコ1章9-11節、マタイ3章13-17節)。その事実を疑う学者はいません。さらに多くの学者たちは、「イエスは一旦ヨハネの宗団に入門した」と推測しています。そしてイエスはヨハネ宗団から飛び出て、そこを割るかたちで(つまりヨハネ宗団に居たアンデレやシモンを引き連れて)、自分の弟子集団をかたちづくったのです(ヨハネ1章35-42節)。二つのグループは、しばらくの間、「近いけれども異なる」親類同士のような競合関係にありました(マルコ6章14節、使徒18章25節参照)。
ルカ福音書は、この歴史的事実をあえて曖昧にします。イエスがヨハネからバプテスマを受けるということは、「ヨハネが上・イエスが下」という見かけをもちます。ヨハネ自身が、「イエスの方がわたしより上」(ルカ3章16節)と言っているのに、その発言に矛盾してしまいます。そこでルカは、イエスが誰からバプテスマを受けたかを書かないことにしました。また、ヨハネの投獄を20節に報告し、イエスのバプテスマを21節に記すことによって、あたかもヨハネがバプテスマをイエスに授けていないかのように読者に思わせています。このようなルカの「イエスをヨハネよりも上に思わせたい」という意図は、本来の意図から発展した効果を読者に与えています。
日本バプテスト連盟の発行している「教籍原簿」には、「その人にバプテスマを授けた教会」を記す欄があります。かつて、この欄は「その人にバプテスマを授けた牧師」を記す欄でした。変更の理由は、「バプテスト教会にとってバプテスマを授けるものは誰か」ということを、よくよく考え直したことにあります。「わたしは○○牧師からバプテスマを授かった」などということを自慢する人がいますが、その類の発言の問題性が考察のきっかけでした。「偉い牧師からバプテスマを施されると、より偉い信徒になることができる」というのは、まったくの妄想です。
人は聖霊の働きによって、イエスを救い主と告白します。バプテスマ志願者の信仰告白を受け入れる判断をするのは教会員たちです。聖霊が教会員一人ひとりに宿り、教会員間を結びつけ、教会を立てて、保っていると信じるからです。バプテスト教会において牧師は教会員の一人にしか過ぎません。仮にバプテスマという儀式を執行するとしても、教会から委託されて行うだけであり、教会(や志願者)の上に立って行うものではありません。
バプテスマは聖霊の業であり教会の仕事です。過度に執行者の権威が重視されてはいけません。ヨハネという執行者の固有名を省くルカの記事は、バプテスマが聖霊の業であることを端的に言い表しています。人間を見るときに、その人の身にまとっている権威を剥ぎ取ることが必要です。そこに教会の交わりや趣味のサークルの良さがあります。社会の中の地位などは関係なく平たい交わりができるからです。
ルカは、マタイと異なりイエスのバプテスマを系図とくっつけました。それによって、「神の子」は誰かという問いを持ち出します。その問いは「すべての人は神の子である」という答えを引き出します(38節)。また、「すべての人はバプテスマによって神の子であることを再確認する」という答えをも引き出します(22節)。ここにルカの考える人間観がにじみ出ます。すべての人は神の子として等しいのです(ガラテヤ3章25-29節参照)。バプテスマによって人の子が神の子になるのではありません。バプテスマによってすべての人の子が、もともと神の子であったことが、人の子らを分断しがちなこの世界で明らかになるのです。「本当に、この人は神の子だった」(マルコ15章39節)。
イエスはバプテスマを受ける前には神の子ではなかったのでしょうか。人の子から神の子に格上げされたのでしょうか。そんなことはありません。イエスは生まれた時から神の子でした。あえて「ヨセフの子と思われていた」(23節)と書く所以です。「あなたはわたしの愛する子」(22節)という言葉は、バプテスマの時になされる確認の言葉に過ぎません。バプテスマで初めて「神の子認定」がなされるわけではないからです。
それと同じように、わたしたちのバプテスマも確認をするためのものであって、認定をするためのものではありません。バプテスマは、「改めて言うのも野暮だけれども、この人もアブラハムやサラの子ども・神の子だったのだなあ」と、再確認をする儀式です。すべての人は神の似姿として、神によって創られたいのちです(創世記1章27節)。だから生まれながらに神の子です。
ところが人はそのままで神の子らしく生きられるわけでもありません。ある人は不当に外から貶められたり、自分自身の尊厳を見失ったり、逆に誰かを支配したり、自分自身を肥大化させて傲慢に振舞ったりします。新しく生まれ変わるきっかけはとても重要です。バプテスマは新しい人生の開始点としての意味を持っています。神の子だったことを再確認して、神の子らしく生きる出発が、バプテスマという儀式の意味です。神の子らしく堂々と、神に仕え・隣人に仕えるという生き方を始める決意がバプテスマによって表わされます。
通過儀礼には意味があります。人間は儀式によって、心の区切りが付けられます。また社会的にも知られます。主観的にも客観的にも、新しく生き直すことが推し進められるために、儀式は有効です。儀式そのものが問題なのではなく、権威主義を助長する儀式が問題だということです。
「イエスが(宣教を)始めたときは・・・」とあります(23節)。原文は何を始めたか記していません。曖昧です。何を補っても良いでしょう。イエスがバプテスマを受けたとき、イエスの新しい生き方が開始されたと理解します。イエスの場合は「神の国運動」を開始することが、神の子らしい振る舞いでした。バプテスマを受けて何が変わるのか、実はそれはその人自身にかかっています。自分で神の子らしい振る舞いを考えて、新しい生き方を始めればそれで良いということです。何が神や隣人に仕えることなのか、それぞれが自分の良心に従って決めれば良いでしょう。永遠の命を生きるということは、良心に従って生きるということです。
さてイエスの系図をルカ版とマタイ版とを比べることによって、もう少し掘り下げて考えてみましょう。
ルカは民族主義を超えた広い人間観を持っています。たとえばマタイ版のイエスの系図は、ユダヤ人の先祖アブラハムからしか始めません(マタイ1章1節)。マタイはユダヤ人に興味が強いのですが、ルカは全民族に視野を広げています(ルカ3章34-38節。ただし四名の女性を記す点でマタイは優れています。マタイ1章3・5・6節のタマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻)。この視野の広がりは使徒言行録と関わっています(使徒2章9-12節)。ルカ福音書の続編である使徒言行録には、キリスト教会がパレスチナ地域からユダヤ人居住地を拠点にしながらも、それを超えて東西南北へ伝播した様子が描かれています。ルカ自身も非ユダヤ人です。
マタイの系図は先祖から子孫へという順番で記しています(アブラハムからイエスへ)。それに対してルカの系図は、子孫から先祖へという順番です(イエスから神へ)。原文には、「それからさかのぼると」(23節)という言葉も、「に至る」(38節)という言葉もありません。ただ、「マタトの(子)、「レビの(子)、・・・」(24節以下)と列挙され、最後に「神の(子)」(38節)と締めくくっています。「誰々の、誰々の」という文体が日本語として不自然なので、「それからさかのぼって、・・・神に至る」と意訳しているのです。ちなみにRSV(英語の改訂標準訳)は「the son of ○○, 」という表現で統一しているので、最後は「Adam, the son of God」とあります。
この原文の文体は、すべての人が神の子であることを主張しています。特に、神の直前に置かれている「最初の人」・「アダム」(38節)が、人間という意味の名前であるから、その主張が強まります。さらに言えば「エノシュ」(38節)も「人類」という意味の言葉です。すべての人間は神の子です。アダムが神の子、エノシュが神の曾孫であるからです。この主張をするために、ルカはあえて逆さまから系図を書いたのでしょう(ただし当時の風習でもある)。
ルカの系図には丁寧に書いた重要な部分と、雑に書いたあまり重要ではない部分があります。24-31節まではマタイ版と著しく異なります。なんと二人の人しか共通していません。27節の「シャルティエル」と「ゼルバベル」だけです(マタイ1章12-13節)。また、同じ人名の繰り返しも目立ちます(ヨセフ・マタティア・メルキ・レビ)。こうなると系図の信憑性そのものが疑われます。
だからといってマタイ版の系図の方が、より歴史的に信頼できるとも言えません。こちらも極めて人為的に作られた系図です。しかしルカほど雑ではない。少なくともマタイの考案した14代ずつに区切る仕方は、丁寧な仕事とは言えます(マタイ1章17節)。14が三つということは、7が六つあるということになり、7の七つ目(7×7)がイエスの誕生によって始まるという構想は、マタイ独特の意義ある歴史観です。
ルカにとっては系図の前半は雑な仕事でも構いません。なぜかといえばヨセフとイエスには血縁関係がないからです(23節)。ルカ版のクリスマス物語が、ヨセフよりもマリアを重視していることも関係があるかもしれません。ヨセフには聖霊は降っていません。ルカにとって血縁関係よりも重要なことは、すべての人が神の子であるということと、バプテスマという儀式によって血縁関係を超えた交わりがつくられるということです。イエスは聖霊によってみごもり、聖霊によってバプテスマを受けています。この点にルカは細心の注意を払い、最大限の強調を置いています。ルカが重要だと思っているところに、わたしたちの模範があります。
わたしたちは人間をどのように見ているのでしょうか。どのように理解しているのでしょうか。最近わたしたちの教会で起こったバプテスマという出来事から学ぶことができます。子どもたちが次々に、「バプテスマを受けたい」と志願し、イエスを救い主とそれぞれ含蓄のある言葉で告白し、バプテスマを受けました。その後、礼拝の中で今までしてきた映写機操作・子ども聖句に加えて、全体の長い聖句当番や、晩餐の配さん・献金・応答の祈りも担うようになりました。立派な礼拝者である子どもたちによって、自分も同じ神の子にしてもらった大人たちの権威主義が剥ぎ取られ、温かい時間が流れるようになったと思います。格差の激しい、分断の世界で、わたしたちは対抗文化を創りましょう。聖霊によりお互いが平等の神の子であることを確認し続けましょう。