【はじめに】
「主の祈り」の続き。主の祈りの「第三祈願」(6章10節後半)が本日の箇所です。ユダヤ教の「聖なるかな」の祈り(カディッシュ)にも無く、ルカによる福音書11章にも無い、マタイ独自の祈願の内容です。だから、この第三祈願は、マタイ教会の信仰姿勢をよく表していると推測できます。「意思」(10節)〔セレマ〕は新約聖書の中で63回登場します。マルコ福音書がたった1回しか用いないのに対して、マタイ福音書は6回も用いています(6章10節、7章21節、12章50節、18章14節、21章31節、26章42節)。しかもこれらすべては、「イエスが信じ従った神の意思」という意味で用いられています。マタイ福音書の特徴を足掛かりに神の意思について考えます。
9 だからこのようにあなたたち、あなたたちは祈れ。わたしたちの父よ。その彼は天の中に(いる)のだが。あなたの名前が聖められよ。 10 あなたの支配が来い。あなたの意思が生ぜよ。天の中におけるように、地の上にも。
【一つの物語】
はじめに12章46-50節の物語。このマルコ福音書3章31-35節と共通の物語は、誰が真にイエスの母や兄弟姉妹なのかということを伝えています。マルコ3章35節に、マルコはセレマという単語を唯一用いています。マタイ教会は、マルコの言葉使いに学んで12章50節にセレマを用います。そしてそこから発展させて「神の意思」という表現を、マタイ教会はマタイ福音書全体に満遍なくしかし意図的に散りばめます。様々な場面に登場させ、最初に「主の祈り」、そして最後に「ゲツセマネの祈り」に入れ込んでいるのです。振出し・中心は、イエスの母・兄弟姉妹とは誰かという一つの物語です。
12章46-50節の物語は、教会の交わりが肉親の交わりではないということを示しています。イエスの母マリア、すぐ下の弟ヤコブ以下の弟妹たちが、イエスに会おうとして来た時に、イエスはそれを斥けました。イエスの弟子たちは師に気をつかって、「親族が折角会いに来たのだから」と、自分たちの集会よりも肉親の交わりに席を譲ろうとしたのです。それに対してイエスは、肉親の交わりよりも弟子たちの集会と交わりを優先させるべきと言い放ちます。自分の話を座って聞いて、そして立ち上がって神の意思〔セレマ〕(50節)を行う者こそが、真に尊重し合う交わり(隣人を母と見る)、真に平等な交わり(隣人を兄弟姉妹と見る)を形作るのだと言うのです。ここで神の意思が何に示されているのかが説明されています。それはつまり、イエスの言葉です。わたしたちで言う新旧約聖書・正典です。信徒は過去の書物を神の言葉と信じています。
神の意思が何かは聖書のみに示される、これがプロテスタントです。しかもその聖書は聞かれるべきものです。「聞く」には「聞き従う」という意味と、「尋ね求める」という意味があります。この時代にあってこの聖句はどのような意味かを真剣に探求することが必要です。そうして、自分の納得した聖書の言葉を神の意思と信じて行うことです。間違えても構いません。何度でもやり直せます。なぜなら固定化された正典が常に手元にあるからです。
【三つの譬え話】
マタイ福音書は三つの譬え話でセレマを用いています。この譬え話群が、正典を聞いて神の意思を行うことについて説明しています。
一つ目は7章21-23節の「天国に入れない人の譬え話」です。イエスは、イエスの名前を呼ぶ者や、イエスの名前を用いて預言をしたり悪霊祓いをしたり奇跡を行なったりしても、天国に入ることができない場合があると述べています。天国に入るためには、イエスの「天の父の意思」〔セレマ〕(21節)を行わなければなりません。「主よ、主よ」と呼ぶことは礼拝です。この人はキリスト信徒でしょう。イエスを主と信じる信仰も、教会での礼拝も、イエスの名前で行う種々の宣教(伝道や癒し)も、天国に入ることを保証しません。むしろ神の意思を行わなければ、天国には入れないというのです。マタイ教会は、見せかけだけの信仰を嫌います。天国に行くための行いも嫌います。地上で神の意思を誠実に行うことが大切です。
二つ目の譬え話は、18章10-14節にある「九十九匹と一匹の羊の譬え話」です。この譬え話は神の意思が何であるのかを直截に教えています。神の意思とは驚くべき愛です。九十九匹の羊を置いて、迷う一匹の羊を探し出す羊飼いに、神は譬えられています。なぜならこれらの小さな一人が滅びることが、愛の神の意思〔セレマ〕(14節)に反するからです。イエスの周りに座って、イエスの言葉をじっと聞き入って、再び立ち上がって神の意思を行うということは、この世界で小さくされている存在が滅びないようにと、小さな行動を取るということです。聖書を読んで誰が今日小さくされている存在であるのかを読み取り、それをイエスの言葉として聞き、その存在が滅びないようにと日常生活の中で行うことが大切です。自分の家族に対して、友人知人に対して、または見知らぬ誰かに対して、時に自分の計画から回り道になることがあっても、小さな愛の行いをしようと、マタイ教会は信徒に促しています。これらの最も小さな者にしたことは、すなわちイエス本人にした愛の行為であるからです。
三つ目の譬え話は、21章28-32節にある「二人の息子を持つ父親の譬え話」です。この譬え話も、見せかけや口先ではなく中身や行動が大切であると教えています。二人の兄弟がいました。ぶどう園の経営者である父親は兄弟に「今日、ぶどう園で労働するように」と命じました。兄は当初父親の言葉に「嫌だ」と言ったけれども、後で心変わりをし、結果として父に従いました。もしかするといやいや従ったというだけなのかもしれませんが、ともかく兄はぶどう園で働きました。弟はその逆に、「はい、父よ(「主よ、主よ」参照)」と言いながら、結局行動しません。父親の意思〔セレマ〕(31節。新共同訳「望み」)に従ったのはどちらでしょうか。当たり前のことですが兄の方です。聞いて行うということは、聞いたことに全面的に賛成していなくても良いのでしょう。実際に行うかどうかが問題です。聞いて口先だけ従順であったり、心から同意していても体が動かなかったりするよりも、不承不承であっても従う方が神の意思を行うことになります。とても実践的な勧めです。
さて12章の物語で叱責されたイエスの弟ヤコブは、自身の書いた手紙で「行いを伴わない見せかけだけの信仰」を強く批判しています(ヤコブの手紙2章14-25節)。弟ヤコブは、兄イエスの言葉を聞いて行うことの重要性、小さい者を滅ぼさない愛の行いの重要性を、良く学んだのだと思います。それは、口先だけではない、愛の行いを伴う信仰の実践です。
以上三つの譬え話は、神の意思が「愛」であることと、たとえ小さな愛であっても地上でそれを誠実に行うことが信仰生活に重要であることを解き明かしています。
【二つの祈り】
6章10節の「主の祈り」の第三祈願と、26章36-46節の「ゲツセマネの祈り」は、呼応しています。十字架で処刑される前夜、ゲツセマネの園でイエスは一人神に祈りました。42節の祈りの最後の言葉は、原文において一言一句「主の祈り」の第三祈願と同じです。「あなたの意思〔セレマ〕が生ぜよ」という部分です。マルコ福音書のゲツセマネの祈り物語には、セレマという名詞は使われていません。ゲツセマネの祈りと、主の祈りとをあえて呼応させながら、神の意思についてマタイ教会は教えています。
十字架で神が神の子を棄て、同じ神が神の子をよみがえらせるということが、神の意思=愛でした。十字架・復活とは何か。それは、イエスを信じる者が一人も滅びないで永遠の生命を得るという救い、つまり神の愛の行いです。神が独り子をこの世界に捧げ、この世界で最も小さくされた死刑囚を起こし復活させたのです。そこに神の意思がありました。
他方イエスの方から見ても十字架と復活は愛を行うことです。イエスは苦い杯を飲むこと(死刑に処されること)について心からの同意を示していません。はっきり「嫌だ」と祈り、神の意思を尋ねています。このやりとりを経てイエスは最終的に神の意思に聞き従い、自分の生命を捧げて、復活で永遠の生命を与えられ、罪人たちにそれを配りました。この救いは、神の子の愛の行いです。地上で生じるべき神の意思とは、イエス・キリストの十字架と復活です。この愛の出来事によって、どんな小さな存在も滅びないで救われます。イエスは自分が「アッバ(お父ちゃん)」と信じた神の意思に従って、世界を救う愛の道を歩まれたのでした。
この愛をわたしたちは行なえるでしょうか。いくばくか部分的にまねができるかもしれません。また神の意思を尋ね求めて行う姿勢はまねすべきです。しかし、イエスのように完全に、他人のために自分を捧げ尽くすことはできないでしょう。どんなに聖書に書いてあっても完全に利他的に生きかつ死ぬことはできません。なぜならわたしたちがどこまで行っても利己的であるからです。誰かのために死ぬよりも自分自身の人生を生きることの方が大切です。
「だからこのようにあなたたち、あなたたちは祈れ」(9節)と、イエスは命じているのではないでしょうか。神の意思を行うということは、祈るべき事柄です。愛を行うことを諦めよとは言っていません。謙虚であれと言っているのです。キリストに到底及ばないということを思い知りつつも、聖書に示されるキリストの愛の一端でも、自分が納得し自分に可能で自分がすべき愛を、諦めないで行うということです。「神よ、あなたがあなたの意思を地上で生じさせてください。そのために、小さなわたしたちを用いてください。」これこそが、わたしたちのなすべき祈りではないでしょうか。
【今日の小さな生き方の提案】
神の意思を聞きましょう。そのために聖書を読むのです。今・ここで・何が神の意思にかなう愛であるのかを尋ね求めましょう。その際にキリスト者にはキリストという基準があります。神の意思は過去にイエス・キリストにおいて現わされました。イエスならばどのように聖書を読み、何を行うか、これがわたしたちの基準です。そして神の呼びかけに気づきましょう。
神の意思を行いましょう。それは大それたことではありません。小さな愛を日常で行うことです。互いに尊重し平等に生きること、それが神の意思を地上で生じさせることです。わたしたちには神の意思を行うことができます。
だから神の意思を祈りましょう。世界を見回しても愛は欠如しています。自分自身を見ても愛は欠如しています。「キリストのように仕える愛をください。わたしにも、身の回りにも、世界にも」と謙虚に祈りましょう。
