1 なぜならイスラエルが若者だからだ。そして私は彼を愛した。そしてエジプトから私は私の息子〔単数形〕と呼んだ。 2 彼らは彼らのために呼んだ。そのように彼らは彼らの顔からバアルたちのために行った。彼らは犠牲を捧げる。そして偶像のために彼らは香を焚く。 3 そして私、私はエフライムのために歩かせた。彼らの腕に接して彼らを取る。そして彼らは、私が彼らを癒したということを知らなかった。 4 人間の紐で私は彼らを引いた、愛の帯で。そして彼らに属するものに私はなる。彼らの首の上のくびきを高める者のように。そして優しく彼に向かって私は食べさせる。
クリスマス物語には多くの「メシア預言」があります。旧約聖書の預言者たちの言葉が、キリストの誕生において実現されたと信じる言葉です。特にマタイによる福音書に著しい特徴です。ホセア書11章1節の「エジプトから私は私の息子を呼んだ」という言葉も、マタイ福音書2章15節に引用されています。ヨセフ・マリア・イエスの三人家族がヘロデ王に殺されないようにエジプトへと逃げたことは、ホセアの預言の実現だというのです。ホセア書の「私」は神のことを指し、「私の息子」は神の子イエスを指すという具合です。本日は、このあまり有名ではないメシア預言から、神がどのような方なのかを共に確認していきたいと思います。この箇所は原文を直訳しても意味が通りにくいので諸翻訳はかなり工夫・操作をして文意を滑らかにしています。あえて直訳を提示しています。
ギリシャ語訳旧約聖書は、「エジプトから私は彼の息子たち〔複数形〕を呼んだ」としています。神は彼(イスラエル≒ヤコブ)の子孫を出エジプトさせたという内容です。マタイの教会は、ヘブライ語のホセア書を読んでいるようです。ギリシャ語訳は歴史的事実を重視し、比喩的な言い方を避けています。二つの本文の対話は興味深いものです。神の子イエスと、神の子らイスラエルは重なり合うという結論が得られるからです。頭の隅に置きながら、ホセアの預言に迫ってまいりましょう。
預言者ホセアは、唯一の北イスラエル王国出身の記述預言者です。先週取り上げた南ユダ王国のイザヤよりも少し先輩、前745年ごろから725年ごろまで、北王国の首都サマリアで預言活動をしていました。「イスラエル」(1節)と「エフライム」(3節)は、どちらも北イスラエル王国を指します。ホセアは、シリア・エフライム戦争(前734年)を知っていますが、北王国の滅亡を知りません(前721年)。同じ戦争を北のホセアは南のイザヤと異なる立場で経験しています。北王国はアラム王国と連合して南ユダ王国に攻め入りました。そのために、アッシリア帝国に侵入されました。今や北王国の命運は風前の灯火です。アッシリアに対抗しうる大国エジプトに頼りましたが、結局それは火に油を注ぎアッシリア王シャルマナサルは首都サマリアを包囲します(王下16-17章)。
預言者ホセアはこれら歴史的悲劇を眼前にして、原点に帰ることを主張します。救いの歴史の原点、神信仰の原点です。救いの原点とは、エジプトの奴隷が自由に解放された出来事です。神が奴隷の民を宝の民とされました。民の叫びが神に届き、神が民の受けている不当な苦しみに共感し、降って行って民を脱出させ自由に礼拝できるようにしたのです。神は義と愛の方です。
11章1節は10章15節から続いていると考えます。ベテルという大都市(北王国の南端)もアッシリアに攻め落とされるという預言の理由付けが11章1節です。「なぜならイスラエルが若者だからだ。そして/しかし私は彼を愛した」。「若者」(ナアル)は3歳以上の未成年者といった意味合いで、赤ん坊という意味はありません。ヘブライ語の「そして」は「しかし」とも訳せます。「しかし」を採るならばこういう意味になるでしょう。北イスラエル王国は未熟であるので滅ぼされるのだが、それにもかかわらず、私は彼を愛した/愛するのだ。預言者ホセアは、神の愛が不思議な選びに基づくことを語っています。未熟なものであるにもかかわらず、神の一方的な選びによってイスラエルは神の子と呼ばれるのです。養父母から養子への命名がなされています。
2節は意味が通りにくい箇所ですが直訳のままでも解ります。全体としてイスラエルの一部が諸々の「バアル某」という別の神々への礼拝を、自分たちのために行ったことを批判しています。だから2節の「呼んだ」は、神の名を呼ぶという礼拝行為と考えます。「彼らは彼らの顔からバアルたちのために行った」というのは、会衆の見ている前で堂々と一部が別の礼拝を行うということと解します。「彼らは犠牲を捧げる。そして偶像のために彼らは香を焚く」。この言葉は出エジプト記32章(金の子牛礼拝)や民数記25章(バアル・ペオル礼拝)の故事についての言及でしょう。実際北王国のベテルという町では、金の子牛が崇拝され、出エジプトの神として(ヤハウェ神として!)祀られていました(王上12章)。ホセアは、出エジプトの時代と、自分の時代を重ね合わせているのです。時代は変わりますが、民の背反の体質は変わりません。
3節は子育てというよりもリハビリのような姿です。「癒した」とあるからです。「歩かせた」は聖書に一回しか登場しないので意味は不詳です。エフライムの両腕を自分の両腕で取って、歩くことができるように回復訓練をしていると解します。奴隷の解放というのは、立ち上がることもできないほどに打ちのめされている人の手を取って、歩かせることと似ているのでしょう。
4節もまた、奴隷の解放という視点で理解することができます。ファラオと奴隷の関係は、家畜を使う者と家畜の関係に似ています。家畜同士は「くびき」で繋がれ、同じ方向にしか行けません。くびきでつながれても家畜同士は連帯できません。エジプトの奴隷たち同士は連帯できないように仕向けられています。しかし、神の救いはそのくびきを取り上げます。代わりに「人間の紐」・「愛の帯」を用いて自由に歩かせます。種々雑多な人間たちが信頼関係という紐帯で、神を中心にした緩やかな交わりをつくることができます。
民が神に属する奴隷になるのではなく、神が民に属するものになるのです。イエス・キリストが弟子たちの足を洗って、自ら奴隷の仕事をし、優しく食べさせたことと呼応しています。時代は変わりますが愛の神は変わりません。
5 彼はエジプトの地に向かって戻らない。そしてアッシリアこそが彼の王。なぜなら彼らが戻ることを拒否したからだ。 6 そして剣〔女性名詞〕が彼の町々の中で舞う。そして彼女〔剣〕は彼の大言壮語する者を断った。そして彼女〔剣〕は彼らの計画により食べた。 7 そして私の民は私の分離のために吊るされ続けている。そしてエル・アル(を)彼らは一斉に彼を呼ぶ。彼は彼らを高めない。 8 どのようにして私は貴男を与えるか、エフライム。(どのようにして)私は貴男を渡すだろうか、イスラエル。どのようにして私は貴男を与えるか、アドマのように。(どのようにして)私は貴男を置くか、ツェボイムのように。私の心は私の上でくつがえった。私の諸共感は一斉に熱くなった。 9 私は私の鼻の炉(を)つくらない。私はエフライム(を)滅ぼすことに戻らない。なぜなら私はエルだから。そして男性ではなく貴男らの中で聖。そして私は町の中に来ない。
5節以降はホセア時代の北イスラエル王国のことを語っています。エジプトから来た民はエジプトには戻らない、今や奴隷の主人をエジプトのファラオからアッシリア王へと、民がすげかえたのです。「アッシリアこそが彼の王」。アッシリア軍の剣が北王国の町々で舞い踊ります(6節)。南ユダ王国侵略の勝利に酔って大言壮語する者たちはアッシリア軍に殺されます。アラム王国との軍事同盟による戦勝を計画した者たちもアッシリア軍に食べ尽くされます。
この時に民は神ではなく偶像神「エル・アル」(7節)の名前を呼び、一斉に礼拝をしています。首都サマリアの偶像神への国家儀礼を行い、アッシリア軍に対して総玉砕の構えをとります。国家宗教への礼拝は、民のくびきとなるだけであって、くびきを取り上げ「高め」ることにはなりません。くびきによって吊るされ続けているような状況であることに民は気づきません。ヤハウェとの「分離」の深刻さに気づかずにヤハウェを軽んじているのです。
8節「アドマ」と「ツェボイム」は、大昔に滅んだ町の代表としてソドムとゴモラに並んで紹介されています(創世記14章8節、申命記29章22節)。もはや滅びるばかりの北王国に対して、神の共感が燃え上がります。北イスラエル王国を誰の手にも与えたくないという思いが、民をアッシリアの手によって裁くという考えを上回ります。神は心を変えます。9節のように、鼻を赤くし怒りを外に出すのではなく、神は内心を熱くさせます。そして滅ぼすというかつての決断に「戻らない」ことを決めます。「なぜなら私はエルだから」(9節)、アル・エルのように人間が作った偶像ではないから。
「男性ではなく、貴男らの中で聖」(9節)を、現代的に解釈してみましょう。ヤハウェは男性たちだけの絆・ボーイズクラブ・男の友情の輪、いわゆるホモソーシャルHomosocialの内輪の中にはいません。女性ゼロの地方議会で愚劣な名誉棄損が議員・首長らによってなされていることや、男しか集まれない料亭政治・派閥政治によって重要な政策が決められていることがこの国の病です。神は男性ではなく、男たちのみの交わりの中で超然としています。神の望む交わりは、人間の紐・愛の帯による、もっと広く緩やかな紐帯です。
この神は剣の舞踊る殺戮の現場である「町の中に来ない」(9節)のです。アッシリア軍と剣を交える男性のイスラエル軍兵士として神を想像するべきではありません。そうではなく神は、立ち上がることができなくなった者を、また、その原因すら分からずに打ちひしがれている者を、立ち上がらせ、手を取って歩かせて機能回復をし、その人間たちを互いに結びつけようとする方です。いわゆる「男らしさ」によって支配する者ではなく、真に人間らしく互いに仕え合う交わりを創り出す神です。これこそ、出エジプトという救いを成し遂げた「義と愛の神」です。
ホセアが示した神を、イエス・キリストは有名な「二人の息子の譬え話」で解き明かしています(ルカ福音書15章)。南北両王国が姉妹であることを踏まえると、弟息子は北イスラエル王国エフライムの姿と重なります。ナザレのイエスも北の人です。父親を裏切る弟息子を、父親は変わらずに愛し続けます。未熟者であればあるほど可愛いかのようです。鼻を真っ赤にして怒鳴り上げずに、首を抱き、手を取って共に歩き、優しく食べさせるのです。子の男らしくない父親を中心に、兄弟もまた家の者も近隣も平たい交わりをつくることができるようになります。
今日の小さな生き方の提案は、ホセアとイエスの示す神の姿を思い浮かべて、救いを体験し、人間の紐・愛の帯によって交わりをつくることです。神はエジプト(主人・奴隷関係)からの脱出を呼びかけています。イエスが実際に行ったように、仕え合う交わりへと逃げてくることです。水平な人の子らの交わりづくりこそが、救いを経験した神の子らの使命なのです。