神の憐れみ 出エジプト記22章15-30節 2016年2月21日礼拝説教

今日の聖書の箇所には、現代人であるわたしたちには理解できない部分が多くあります。まず、それらについて批判的に取り上げます。

新共同訳小見出し「処女の誘惑」(15-16節)は、21章33節から22章14節と深く関係しています。先週の私有財産の問題です。当時の女性が男性(父・夫・息子)の所有財産だったことが、15-16節の前提です。そして処女性を失うことが財産を損なうと考えられていたので、その賠償が定められているのです。その額は50シェケルです(申命記22章29節)。奴隷の場合は30シェケルでした(出21章32節)。

そもそも女性は男性の所有物ではありません。日本語表現にも、「(男性が女性を)モノにする」や、「お前は俺のモノ」などが生き残っています。また、女性にだけ処女性が要求されることも性差別の一つです。この聖句には、今日の性差別状況を思い出させるということにのみ、辛うじて意味を見出しえます。

小見出し「死に値する罪」(17-19節)は、「祭儀的律法」(27-30節)と合わせて読むべきです。ここでは礼拝の方法が問題になっています。このような奇妙な法文の存在には、背景となる理由があります。理由とは、さまざまな礼拝の方法が古代西アジア世界にはあって、イスラエルの礼拝方法もどっぷりとその影響を受けているということです。

たとえば「呪術」(17節)は霊媒を意味しますが、死んだ人を呼び起こすことはイスラエルでも行われていたのです(サムエル記上28章)。また長男に対する人身供犠(28節)はイスラエルでも行われていたのです(列王記下16章3節)。獣姦(18節)も、礼拝儀式の中で、儀式の一要素として行われていた可能性が高いでしょう。古代西アジアの広範囲に存在した豊穣祭儀が(バアル宗教)、性交渉を儀式の一要素としていたからです(列王記下16章4節、ホセア書4章12-14節等)。

このような土着の神々を拝む礼拝儀式の中から、「主(ヤハウェ)」のみを拝む礼拝方法が選び取られていきます。今日の箇所は、その歴史的足取りを記録したものです。この時点でイスラエルは、まじないの要素や、性交渉の要素、神々や指導者を軽んずる要素を礼拝から排除したのです。礼拝する者は「聖なる者」でなくてはならないという要素を強めたのです(30節)。咬み殺された肉は、おそらく血を食べると汚れるということから、忌避されました。

結果生き残ったのは犠牲を捧げるという要素です。しかも、この時点では、長男を殺すという要素も残りました(28-29節、13章2節も)。この定めを守る理由は、わたしたちにはありません。この後の歴史で、人身供犠という礼拝要素は淘汰され、消えていくからです。唯一の大きな例外は、イエス・キリストです。神が自分の長男を十字架でいけにえとした出来事は、例外としてのみ意味を持ちます。

聖書は歴史的な本です。誤り多い人間の歴史の中で長い年月をかけて形作られました。その本を神の言葉として重視する者たちは、注意深くなければなりません。片言隻句を悪用して、人を「魔女」(17節)としてはいけません。また、ユダヤ人の歴史(旧約聖書)をなかったかのようにしてはいけません(マルキオン主義やナチス)。命には命という伝統の延長に十字架・復活があります。犠牲祭儀の延長に、わたしたちの礼拝があります。今日の箇所からも、わたしたちは「礼拝の未来」を展望することができます。

わたしたちの礼拝は、賛美・ほめたたえ・祝福を大切な要素とすべきでしょう。それが27節の裏返しです。「神々をののしる/軽んずる」のではなく、主イエス・キリストを賛美するのです。また、この集まりの中で最も小さくされている人をこそ尊重すべきでしょう。それが「民の中の代表者を呪わない」ことの裏返しです。そして、時間を犠牲にささげること。忙しい現代人にとって最も大事なものは時間です。一週間のうちの一時間を、自分のために使わないわけです。共に神をほめたたえ、共に尊重し合って生きるために一時間を有意義に使うのです。それが「理に適った礼拝」(ローマ12章1節)です。

どんなに暇な教会でも毎週の礼拝だけは行います。そして礼拝だけで教会は成り立ちます。伝道プログラム・教会学校・信徒訓練が充実していると人が増えるのかは分かりません。わたしたちの経験でわかっていることは、礼拝のみに集中して、良い礼拝を濃密に一時間捧げるときに、神が仲間を与えてくださるということです。現代人にとって時間が極めて重要なものだからです。

小見出し「人道的律法」(20-26節)は、神の性質を示す重要部分です。わたしたちが神をほめたたえる理由が記されています。神の性質は、「憐れみ深い」(26節、ヘブライ語ハンヌーン)。新約聖書の言葉で言えば、「神は愛です」(ヨハネの手紙一 4章16節、ギリシャ語アガペー)。

ヘブライ語ハンヌーンについて説明をいたします。この言葉は、「憐れみ」というよりは「恵み」という意味が強いものです。たとえば、34章6節に「主、主、憐れみ深く恵みに富む神」という言葉があります。ここでも、「憐れみ深く」にではなく、「恵みに富む」の方にハンヌーンが使われています。類義語ではあるけれども、「憐れみ」よりは「恵み」という文字を用いた方が良いと考えます。

「恵みに富む」という意味のハンヌーンは、旧約聖書の中で13回登場しますが、ほとんどすべての箇所で神にくっついた形容詞として用いられています。人間を形容しないわけです。この意味で、ハンヌーンは唯一無比の神の性質を表す言葉です。また、プロテスタント教会では、「恵みのみ」というマルチン・ルターの言葉を重視しているので、「恵みに富む」ということが何であるのかについて、深く探らなくてはいけません。

今日の箇所から説明される「恵みに富む」という性質は、社会的弱者に対する保護です。「寄留者」(20節)は滞在または永住している外国人のことです。「寡婦」(21節)は、夫を失った女性のことです。「孤児」(21節)は、父親を失った子どものことです。若干注意しなくてはいけないのは、仮に母親がいても子どもは孤児とみなされることです。女性が人間として扱われていないので、また職業を持つことがほぼ不可能なので、母子家庭は「寡婦と孤児が共に暮らしている状態」として考えられていました。「寄留者」「寡婦」「孤児」は、社会的弱者の総称/代表例としてしばしば聖書の中で列挙されています(申命記24章17-22節)。

次に、経済的に困っている者が挙げられています(24節)。隣人に金を借りざるをえない状況の「貧しい者」です。神は「貧しい者」(アニー)を、「わたしの民」(アンミー)と呼びます。さらに貧しさの余り、家を失い路上生活をしている人を挙げます(25-26節)。上着を質にとられた人は、その夜上着のみをくるまって、野宿する人のことを指します。

神はこの人々の叫びを聞く方です(21・26節)。恵みとは、苦しむ人々の叫びを聞くことです。具体的には、貧しい人に無利子で金を貸すことや、上着しか持っていない路上生活者には、必ず日没までに上着を返してあげることが求められます。このことは依怙贔屓であり、偏った愛です。聖書の示す「恵み」は、弱者に傾く偏愛です。それはまったく一方的な愛情です。寄留者・寡婦・孤児・貧しい者・路上生活者たちが、その恵みを受けて何をお返しするかは問われません。無利子で貸したら返さないかもしれません。質流れをせずに必ず日没までに返却されるなら、踏み倒すことが可能です。それでも良いという偏った法律なのです。

イスラエルは恵みに富む主の恵みによって贖われ解放された神の民です。恵みの実例はイスラエルの今までの歩みにあります。

「あなたたちはエジプトの国で寄留者であった」(20節)ということがすべての出発点です。ただの寄留者ではなく、虐待を受ける奴隷でした(1章11-14節)。過酷を極める重労働によって、男性たちも過労死したことでしょう。そうなれば、多くの寡婦と孤児が生まれます。奴隷だったイスラエルには、多くの寄留者・寡婦・孤児が存在したことでしょう。

イスラエルは労働のゆえに叫び声を上げます(2章23-24節)。そして神はその叫び声を聞きます(3章7節)。神は寄留者の中の寄留者であるモーセ、ヘブライ人の中でも異質な少数者であるモーセを選び出し、寡婦・孤児を含む種々雑多な民をエジプトから救い出します。この一方的な解放が恵みです。神からの恵みを受けた者は、神に対してのお返しというよりは、自分の身近な隣人に同じような恵みを施すべきです。寄留者・寡婦・孤児の声なき声を聞き、社会的弱者を守ることが求められています。

奴隷が自由となることは、自由競争が自由人同士によって始まることを意味します。そこに必ず落ちこぼされる人が生まれ、貧富の差が生まれます。自由となったイスラエルには、貧しい者・路上生活者が増えていったのでしょう(24-26節)。「人道的律法」をナザレのイエスと重ね合わせてみましょう。

イエスは「恵みに富む神」をこの地上で実現した神の子・人の子です。23節は、弱者を苦しめる者への「神による同害報復」が記されています。同害報復を認めている「契約の書」だから、このような記載が残っているのでしょう(21章23-25節)。イエスによって同害報復を乗り越えたわたしたちは、報復する神のイメージを採りません。

マルコ福音書7章24-30節によれば、イエスは、寄留者であり寡婦である女性の叫びを聞き、孤児である彼女の娘の病気を治します。イエス自身も、地上に寄留した神の子でした。また、父親のいない孤児でした。上から目線ではなく、寡婦・孤児である彼女と同じ痛みを負いながら、イエスは彼女たちを癒したのです。

イエスは、路上生活をしながら物乞いする人々を保護しました(同10章46-52節)。イエスの弟子たちは、「貧しい人々といつも一緒に居る」人々でした(同14章7節)。上着を被って眠る貧しい者の一人でもありました(マタイ8章20節)。ここにも上から目線はありません。一方的な恵みとは、人生を下から支える土台であり、常に共にある柱です。「人道的律法」は、イエス・キリストにおいて、乗り越えられながら実現しています。

このような仕方で「恵みに富む神」は旧約と新約を貫く神の性質です。だから神はわたしたちが礼拝で賛美をするのにふさわしい方です。そしてこの神に根ざして、わたしたちは礼拝で尊重し合い、最も小さな人に仕えるのです。

今日の小さな生き方の提案は、自分の日常生活で困っている人をさらに困らせることに加担しないということです。二次被害を起こさない言動もその一つでしょう。この国の代表者たちの品位のない言動に憤りながらも、わたしたちは罵倒し返さないで品位を保ちたいものです。その「練習」に礼拝があります。礼拝はほめたたえる言葉と仕える態度を養います。凝縮した一時間によって一週間の歩みを整えていきましょう。