【はじめに】
「主の祈り」の続き。10節の前半にある「あなたの支配が来い」という、主の祈りの「第二祈願」が本日の箇所です。ルカによる福音書11章2節にも「第二祈願」はあり、文言が完全に一致しています。だから、この第二祈願の内容も第一祈願(あなたの名前が聖められよ)と同じように、イエスが実際に祈った言葉通りであると推測されます。
9 だからこのようにあなたたち、あなたたちは祈れ。わたしたちの父よ。その彼は天の中に(いる)のだが。あなたの名前が聖められよ。 10 あなたの支配が来い。あなたの意思が生ぜよ。天の中におけるように、地の上にも。
【聖なるかな】
「主の祈り」には原型「聖なるかな(カディッシュ)」という祈りの定型句を今回も全文紹介します。下線が第一祈願、二重下線が第二祈願の原型です。第二祈願と重なる部分の翻訳を、語順も原文どおりにし、前回よりも直訳調にしています。「支配を支配する」という表現は日本語としては見苦しいのですが、ヘブル語やアラム語においては自然な表現です。
大いなる彼の名前があがめられるように、そして聖められるように、彼が彼の意思のままに創造した世界において。そして彼の支配(を)彼が支配するように、あなたたちの生涯において、そしてあなたたちの時代において、そしてイスラエルの全ての家の生命において、速やかに近い時に。そして彼らは言う、アーメン。
イエスが第一祈願よりもさらに大胆に第二祈願においてカディッシュを削っているということが分かります。削っている部分は、「あなたたちの生涯において、そしてあなたたちの時代において、そしてイスラエルの全ての家の生命において、速やかに近い時に」という部分です。一文の大半と言って良いでしょう。くどくど祈るなという趣旨からの大幅削除です。また、自分の生きているうちに神の支配が実現するようにと祈ることの傲慢さも批判しているのかもしれません。
第一祈願と同じく小さな変更を一つ加えていることが分かります。変更部分は、「彼」から「あなた」への変更です。人と神を近づけるという趣旨からの小さな変更です。神は冷たい第三者ではなく、常に面と向かって呼びかけることができる第二者であり、常に共にいる第一者・インマヌエルの神です。
ここまでは第一祈願と同じ流れにあります。本日は、第二祈願にだけみられる大きな変更に焦点を合わせます。それは、「支配するように」から、「来い」への動詞そのものの変更です。この動詞の変更と、イエスの考える「神の支配」(「あなたの支配」)とが関連しています。
【王となる】
イエスは「支配する」という言葉を斥け、「来る」という言葉を選びました。アラム語で「支配する」はメラク(MeLaK)という動詞であり、「来る」はアター(⊃aTa⊃)という別の動詞です。そして、「支配」はマルクート(MaLKuT)という名詞です。アルファベットに直すとMLKという語の根っこに当たる文字が同じであることが分かります。だから同じ訳語をあてることが望ましいのです。
このMLKを持つ別の名詞があります。メレク(MeLeK)、「王」という意味の言葉です。メラクという動詞は、原意に遡れば「王となる(即位する)/王として統治する」という翻訳が素直です。そしてメラクを「王となる」と訳すならば、マルクートという名詞は「王国」と訳すべきでしょう。カディッシュは、「彼の王国で彼が王となるように」や「彼が、彼の王国を王として統治するように」という意味の祈りです。
ダビデという男性王がいました。紀元前10世紀ごろのイスラエル統一王国の支配者です。彼はヘブロンという町でまず南ユダ王国の王として即位しました。次いで熾烈な内戦の末に北イスラエル王国(サウル王朝)を飲み込み、南北両王国の君主となりました。さらに私兵で都市国家エブスを占領してエルサレムと命名し、そこを首都に据えました(ダビデの町)。こうしてダビデは南王国・北王国・都市国家の三つの連合国の王(MeLeK)として、エルサレムに王宮を建てて、統治するのです(同君連合)。
ダビデは支配欲に満ちた野心家であり、軍事的・政治的謀略の天才でした。自分を将軍に取り立てた主君サウルを裏切り敵国ペリシテの家臣となることさえします。サウル死後に、自らも王を名乗り内戦を始め、サウル王朝の重臣を寝返らせた末に暗殺します。南北両王国の王座に着くと恩義のあるペリシテを軍事占領し、その他の周辺諸国を侵略し搾取します。一方で忠実な家臣の妻を強姦し、家臣も謀殺します。それ以前にも他者の結婚関係を強引に終わらせることを何回もしています。ダビデこそ「王(メレク)」、ダビデの国こそ「王国(マルクート)」、ダビデのふるまいこそ「王として支配すること(メラク)」です。地上の王は古今東西みなダビデのようです。
イエスの時代のユダヤ人たちは、ダビデのような王の再来を望んでいました。理想の王はダビデのような支配欲の権化です。ダビデの王国がダビデの即位によって始まり、ダビデの支配が永遠に続くこと、そのための「ダビデの子」の出現を今か今かと待望していたのです。自分の生きているうちにダビデの子がエルサレムで即位することを見ること、ローマ帝国の軍事支配からの独立を見ること、これこそ民族主義に燃えるユダヤ人たちの夢と希望でした。
【来る】
イエスはMLKの連続使用を避けました。それにより「王が王国で力をふるう世界」を批判します。イエスは自分が「ダビデの子」と呼ばれることを拒否します。キリストは、あの支配欲の権化ダビデ男性王のようではないのです。「神の国」は、「王の支配する王国」ではありません。神の国の「王」は、みなの給仕役です。神の国を支配する者は、まったく逆説的ですが、全員に仕える者です。この倒錯した言葉づかいによれば、支配という言葉は意味をなさなくなってしまいます。正にそれが狙いです。イエスは革命的に「支配する」という言葉の意味を逆転させました。その生き様と死に様において。
イエスの弟子の中にヤコブとヨハネという支配欲の強い暴力的民族主義者の兄弟がいました。二人は、エルサレムに向かう道すがらイエスに願います。「近い将来あなたが王としてダビデの町エルサレムで即位される時には、わたしたち兄弟を左右に据えてください。権力の座の二位・三位として、力を奮って人々を支配したいのです。」二人が望んでいたことは、ダビデ王のような王、そのような王の権威をかぶりながら、自分たちも支配欲をむき出しにして隣人を暴力的に支配することだったのです。
イエスは二人を諭します。「王のように偉くなりたいのならば全員の給仕役になれ。足を洗って奴隷の仕事をせよ。わたしは死刑囚として虐殺される。わたしの王冠は茨でできている。わたしの右左には、同じ死刑囚がいる。これこそ仕える道の究極の姿だ。奴隷として死に、隣人に仕える道、十字架の道だ。利他的に生きること、そこに生きがいを見出すことに幸せがある。あなたたちはわたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるバプテスマを受けなくてはいけない。それは罪(支配欲)に死ぬこと、新しい生き方を身につけることだ。」(マルコ10章35-45節、ルカ22章24-30節参照)
イエスの十字架と復活の後、教会が生まれヤコブもヨハネも給仕役となります。教会は子どもたちのような小さな者が真っ先に招かれている交わりであり、偉ぶる者が腰を低くする交わりです。わたしたちは毎週の主の晩餐で仕える道を追体験し、学び続けています。ヤコブとヨハネは復活のイエスに出会い、罪を赦され贖われ、教会で学び続け、暴力的な民族主義者から隣人に仕える「教会の柱」に成長していきました。教会はこの世の只中にありますが、この世とは一味違う「地の塩」です。
しかしその教会も「神の支配」の完成形ではありません。わたしたちには支配欲という罪が常に残っているからです。教会は暫定的な、また、部分的に実現される「神の支配」です。現実の教会には、隣人へのコントロールやマウント行動やハラスメント事象がありえます。わたしたちは未だに罪人の集まりであり続けています。場合によっては教会こそこの世よりも悪質な罪を犯してしまうことさえありえます。過去の歴史がそれを証明している通りです。
そこで「来い」という熱い祈りと謙虚な願いが生まれます。全員が全員に仕え合う交わりの完全なる実現を願う祈りです。わたしたち欠けの多い人間だけでは神の支配を実現することができません。狼と小羊が共に宿り、小さい子どもが牛も獅子も導くという交わり(イザヤ書11章)、弱肉強食ではない世界は、もう一度イエスが到来することによってのみ打ち立てられます。わたしたちは聖書の示すイエスの振舞いを真似ることはできても、完全になぞることはできません。イエスだけがわたしたちの外から真ん中に来て、つまり主の晩餐の席に実際に就いて、神の支配を完成させることができます。「あなたの支配が来い」と、わたしたちは主の祈りの第二祈願を毎週・毎日祈ります。
主の祈りの第二祈願は、「マラナ・タ」(わたしたちの主よ、来い)というアラム語の祈りと重なり合い、響き合っています。同じ動詞アター(⊃aTa⊃)の命令形ター(Ta⊃)が使われています。「マラナ・タ」という祈りは、主の祈りと同じ成文祈祷として、礼拝式文の一種として毎週の礼拝の最後に唱和されていたと推測されています。しかもギリシャ語を使う教会においてさえもアラム語のまま用いられていたことが、パウロの手紙によって明らかです(Ⅰコリント16章22節)。教会は原点に返り常に謙虚でなくてはいけないのです。
【今日の小さな生き方の提案】
仕えるということをどのように学ぶことができるでしょうか。一つの練習は、「黙る」ということだと思います。言葉が支配の道具であるからです。バプテスト教会は話し合いを重んじます。民主的ではありますが、大きな弱点があります。言葉による支配が正当化されやすいのです。わたしたちは反論しないで隣人の意見を聞くことができるでしょうか。話し合うというよりも、むしろ聞き合うことの方がより重要だと思います。話す時には聞けません。黙ること・聞くこと、この練習によってわたしたちは隣人に仕える道を学びます。黙って自分の十字架を背負ったイエスに倣うことができます。
