今日も聖書を通して小さな生き方の提案をしたいと思います。それは「神の業を行う」(28-29節)ということです。これだけではあまりにも漠然としていますので、具体的に何を行うことなのかを説明いたします。
22-25節は前回の話とのつなぎです。ある意味「外伝」的な話です。1-15節で満腹した群衆のうちの何人か/何十人かが、実は数艘の舟でイエスを追いかけていたというのです。弟子たちはそのことを知らずにカファルナウムまでたどり着きました(16-21節)。
そして群衆はカファルナウムでイエスを見つけて、いつもおなじみの「こんにゃく問答」(田川建三)が始まります(25節以降)。こんにゃく問答というのは、いったい何を言いたいのかわからない言葉のやりとりのことです。禅問答のように不思議な、つかみにくい対話がヨハネ福音書には多くあります。ある時は問いにまっすぐに答え、またある時ははぐらかすようなことが多くあるのです。その意味で味のある福音書です。
25節で「いつ来たのか」という問いに、イエスはまったく正面から答えません(26-27節)。むしろ、「あなたたちは満腹したから来たのですね。奇跡を見たからではないですね。ならば永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」とその人たちを評価した上で、全然ちがうおすすめをします。そのすすめにつられて人々は問います。「神の業を行う(永遠のいのちに至る食べ物のために働く)ためには何をしたらよいでしょうか」(28節)。この問いにイエスはまっすぐ答えます。「神が遣わした者(イエス自身)を信じることです」(29節)と。ここまでは人々のうちの「満腹に感謝し応答したい派(実践派)」との対話です。
次に人々のうちの別の考えの人々が方向違いのことを持ち出します。「あなたを信じるために何の奇跡をしてくださいますか。わたしたちの先祖モーセは奇跡のパンを荒れ野でくださいましたが」(30-31節)。おそらくこの人は、14節に出てくる人々です。「イエスの行なった奇跡を見てメシアだと考えた人々」です。満腹したから追いかけてきた人とは異なります。12のかごにあるパンを見て追いかけてきた人々です。数艘の舟には、いくつか違う意見の人々が乗り合わせていたのでしょう。そして、どちらかと言うと、この「奇跡を見たら信じる派(教条派)」の方が多かったと思われます(60節)。
この別の考えに立つ質問に対してイエスは答えます。「モーセではなく神が与えたのです。アッバは天からの真理のパンを与えます。それは世界にいのちを与えるものです」(32-33節)。質問に対して焦点がぼやけた答えです。この答えの説明は次週以降取り上げます。ただし今までも申し上げているとおり、「奇跡を見たら信じるという考え」に全体として反対している福音書なのですから、「そのような奇跡は見せない」という拒否の答えと考えて良いでしょう。
この箇所を理解するために大切なことは、イエスがこの数十人のうちの前半の人々をほめているということです(26節)。パンを分け与えられ満腹した人は、イエスを慕って、ファンになって追っかけるものなのです。そして、パンをいただいたものは食べ物のために働くものです。さらにこの働くことが食べ物になるというのです(27節)。この働きは神の労働(「業」は「なりわい」と読んだら面白い。原意に近い)です(28-29節)。神は昔から今に至るまで、ご自分のお創りになったいのちにパンを配り続けているからです(31-33節)。パンを配り続ける時に、自分も満腹していきます。ここには永遠のいのちを生きる循環が描かれています。神はパンを与え人々を満腹させます。その満腹した人々は神に感謝し神の労働に参加します。パンを人々に配る人になります。その人はその働きそのものを自分の食べ物とすることができます。永遠に飢えることがなくなります。なぜならパンを与える時に必ずパンが分かち合われ自分も満腹するからです。
逆に神学論争を好んでいる人々、奇跡を見せてくれるならメシア・救い主として信用してあげようという人々をイエスは批判しています。当時のユダヤ教の考えの中に、「ユダヤ民族を救うメシアは奇跡行者でもある」という教理があったのです。この人々は飢えている人に関心はありません。満腹の喜びにも無頓着です。だから人々のために働くことにも意欲がありません。聖書については詳しいかもしれません。しかし、聖書の神が今も生きて働く方であるということ、勤労精神をもつ労働者であること、しかも隣人を愛するという働きに仕えていることを無視しています。その結果、自分も利他的に働くべきであるということを忘れて(すべての人は神の似姿)、神学議論に没頭し、相手に失礼なことを言うのです。「この条件を満たすなら信用しよう」という言い方はどんな人に対しても失礼です。この人々はあわよくばイエスを「ユダヤ民族のメシア」として担ぎ上げようとして追いかけて来たのでしょう(15節)。
何のことはない、毎週申し上げている通り、その人の働き・生き方が問題です。本田哲郎神父は28節を「神の生き方を生きるには、わたしたちはなにをしたらいいんですか」と訳します。神のように永遠のいのちをいただきながら生きるという時に、どのような生き方が永遠のいのちをいただいている人にふさわしいのかということです。ただで与えられたいのちをいかに輝かせて生きるのか、と言い換えても良いでしょう。
それはイエスを追いかけてイエスの後ろを歩くことです。イエスに従いイエスを真似することです。イエスを全人格的に信頼するということです(29節)。神の働きをしなさいと言われても、神など見たことも聞いたことも触ったこともないのだから、わたしたちは何をして良いかわからなくなります。神の働きの具体例を示すために、イエスは地上に遣わされました。「もし神なるものがいて地上に降り立つならば、おそらくイエスのように生きるだろう」という信仰のもと、福音書は書かれました。ここにはイエスへの全人格的な信頼があります。信頼に基づいて書かれている聖書のイエスに信頼を寄せて、新しい歩みを起こすこと、つまり聖書に書かれているイエスの行いを真似すること、ここまでを含んで「神がお遣わしになった者を信じること」(29節)が完成します。本田訳は29節を「神がつかわした者を信頼してあゆみを起こすこと、これが神の望まれる生き方である」と訳します。
信じるために神学論争は必要ありません。一昨日も電話で質問してきた人がいました。エホバの証人とプロテスタントの違いは何か、どちらが正しいのかというような質問に応対しました。この問いそのものにあまり意味を感じません。自分が信じるものを真理とすれば良いからです。正統/異端などという区別は意味がないからです。そしてその人の生き方に関わる限りにおいて教理には意味があるものです。「正しい教理」なるものを信じ告白することが、「利他的な生き方」に結びつかないならば、信仰というものはただの教養や自己満足でしょう。だからお題目のようにして教理を信じることが、「神が遣わした者を信じる」ということには直結しません。
では聖書に書かれているイエスとは誰かということが問題になります。そして聖書に書かれているイエスの行いとは何かということが問題となります。イエスを信じたとしてもどの部分を真似して何を行うのかということです。
ヨハネ福音書の著者の著作動機は、まさにこのイエスとは誰かを明らかにして、イエスを信じることに意味があると宣伝することにあります(20:31)。イエスとは誰なのでしょうか。何をした人だったのでしょうか。著者によるとイエスは、自分のことを人の子と呼んだ神の子です。その意味は、今日の聖句に重ね合わせるならば、イエスが人の子であり労働者であるということです。パンを得るために働き、隣人にパンを配るために働き、それによって永遠のいのちに至るパンのために働く労働者、ただの人です。そのような生き方が永遠のいのちを永遠に循環させて輝いて生きることになるのです。
イエスはごく普通の労働者でした。彼は大工でした(マコ6:3)。この「大工」という言葉には、「家を造る人」や「石工」や「家具職人」などいろいろな種類の職人が含まれます。マルコ6:3では「この人は大工ではないか、マリアの息子ではないか」と軽蔑をこめて言われています。ここから推測されることは、もっとも過酷な肉体労働であった石工の仕事です。また、「マリアの子」という言い方には、婚外子/非嫡出子差別の匂いがします。父親の名前で呼ばれていないからです。彼は一所懸命働いているけれども、あまり金銭面でも名誉の点でも報われない貧しい労働者だったと推測されます。
イエスのたとえには労働者に関するものが多くあります。特に農業が多いのです。たとえば種まきのたとえはいくつも伝えられています。ヨハネ福音書ならば、「一粒の麦は死ぬ場合に豊かに実を結ぶ」(12:24)というたとえがあります。からし種のたとえ、良い麦と毒麦のたとえ、自然に成長する作物のたとえ、いろいろな土地に種まきした農夫のたとえなどなど、イエスとその聴衆は農業に詳しいのです。このことはイエスが実際に農業に携わっていたこと、大工の仕事だけでは暮らせなかったことも推測させます。
この関連で強烈な印象を残すのはぶどう園の季節労働者のたとえです(マタ20:1-15)。おそらくイエス自身の体験が基にあると推測されます。非常に厳しい当時の労働市場の現実が背景にあります。繁忙期に季節労働者の募集がかかりました。風変わりなぶどう園の主人は、一日のうちに何度も「立ちん坊」を自分のぶどう園で働かせます。そして労働時間のちがいに関わりなくすべて一律に同じ賃金を与えたというのです。おそらく早朝雇われた者は壮健だったのでしょう。夕方まで立ちん坊だった人は、体が弱かったりしょうがいを持っていたり外国人であったり婚外子であったりしたのでしょう。
粉塵により喘息持ちだった石工のイエスが季節労働者として、つまり早朝から並んでもなかなか雇われない立ちん坊として立ち尽くす姿を、わたしたちは想像できるでしょうか。もし、神が地上に降り立ったなら、おそらく働きたくても働けない人々の輪の中にいるのです。そのような体験の中で、現実をひっくり返す神を待ち望み、常識がひっくり返っているぶどう畑を理想とする、イエスの教えと活動が生み出されます。
すべての人に同じ賃金が与えられたということと、すべての人が満腹したということは、こうして見事に重なります。ガリラヤの人々を中心にサマリア人も含む男女の弟子たちとユダヤ人国会議員や王の役人が共に食事をする交わりは、あのぶどう畑の実現です。共に食べることが永遠のいのちを食べること、永遠のいのちを生きることなのです。人々は労働者の目線で語りかけ被差別者に偏り病人を癒すイエスに全人格的な信頼を寄せて「神の国運動」に加わり、イエスのようになっていったのでした。誰でも自分のことを真にわかってくれる人を信頼し手伝い真似するものです。教会はこの食卓運動の継承者です。
今日ここにいる人はすべて「ただの人」であり「労働者」です。イエスはわたしたちの「報われないなあ」という思いを知り共感してくれます。そして「満腹に感謝し一緒に働こう」と招いておられます。晩餐のパンを分かち合い、世界のパンを分かち合う、神の労働に共に参与しましょう。