16 というのも、それほどにその神がその世界を愛したからだ。その結果、その息子・その独り子を、彼は与えた。彼を信じる者が全て滅びることがないように、むしろ、永遠の生命を持つようにと。 (直訳調私訳)
いづみ幼稚園では今年11/24の金曜日からアドベント(待降節)が始まりました。11/24、12/1、12/8の三回アドベント礼拝とミニコンサートを全学年合同で行いました。そして12/15(年少組・年中組)と12/16(年長組)に、キャンドルサービス(燭火礼拝)とページェント(聖誕劇)、お楽しみ会を行いました。それぞれに楽しく意義深いひと時となりました。
12/1のアドベント礼拝後のミニコンサートは保護者有志によるゴスペルでした。米国黒人教会の聖歌隊のように、讃美歌等の歌を歌い、子どもたちに楽しんでもらおうという趣旨です。その一曲「Oh Happy Day!」という歌の歌詞について、とある保護者の方から質問されました。「何が幸せな日なのか、どういう場面が想定されているのか」という質問です。
Oh, happy day! When Jesus washed my sins away, He taught me how to watch and fight and pray, and live rejoicing every day. I’m talking about that happy day.
Edwin Hawkinsというゴスペル歌手が18世紀の賛美歌Hymnをもとに1967年に作り、Edwin Hawkins Choirによって録音され、1969年に発表された歌です。
さて質問に対する私の回答は次のようなものです。多分、これはバプテスマの場面を指しています。バプテスマBaptismは入信と入会の儀式。バプテスト教会では全身浸礼で行う洗礼儀式です。水槽に水を張って、そこに志願者が入り牧師が頭の先まで沈めて引き上げます。ギリシャ語バプティゾーには「浸す」という意味があるので、全身を浸すわけです。水によって罪を洗い清め拭い去るという意味合いがあります。Jesus washed my sins awayという歌詞のとおりです。
私も黒人教会でバプテスマ式を見たことがあります。生バンド演奏の音楽に合わせて、十名ほどいた洗礼志願者が一人ずつ「ハレルヤ」などと大声で叫びながら、浸礼槽baptistryに沈められ上がって来るのです。これは正にhappyだろうなと思います。信徒はバプテスマによって罪から解放されて、永遠の生命を与えられたということを体感する、その日を思い出せば毎日喜びをもって生き続けることができる、その喜びを歌にしているのでしょう。
保護者の方とこのような話し合いができることは大変嬉しいことであり、ありがたいことです。そう思いながら、自分の回答の足りなさを自覚して、本日はこの主題についてもう少し深めてまいりたいと思います。つまり「罪」sinとは何かということであり、そして罪が洗われるという救いとは何か、「永遠の生命を持つ」とは何かということです。後で調べたところ、18世紀の原詩は「エチオピアの宦官のバプテスマ」(使徒言行録8章)を素材に作られた歌詞とのことでした。「喜びにあふれて旅を続けた」(同8章39節)が、「live rejoicing every day」という歌詞に反映されているのだそうです。我ながら回答の筋は良かったのだと思います。
罪とは利己的な生き方とも言い換えることができます。人間である限り利己的であることは当たり前です。我儘であることが重要であるときもあります。特に2歳児には。ところが聖書はその先を一歩進んで、自分を愛するように隣人を愛せと励まし、隣人が誰だかわからなければ自分から隣に行けと励まします。利他的であることを強く勧めているのです。受けるよりも与える方が幸いhappyだからです。神が、独り子イエス・キリストを与えた、この世界に誕生させたということは、神が良い方であることを示しています。いづみ幼稚園は利他的な人を育てようとしています。利己的な大人たちによって、この世界全体が滅びるばかりに痛めつけられているからです。
では利他的な良い人になることが、その人にとって宗教的な救いなのでしょうか。実はそうでもない。人間とは不思議なもので、良かれと思って行なったことが、結果的にかえって周りにとって悪く働くことがあります。また、こうすれば良いと分かっていても、なぜかできないときや、手遅れになるときや、あえてしないときがあります。さらに良い行いをしているという自覚のある人が、その良い行いを手段にして威張り始めることや、他人を支配することすらあります。こんな利己的な振る舞いはありません。まさに本末転倒、人間は倒錯した存在です。最高の善をしている最中に最低の悪をすることすらできるからです。逆立ちしながら生きているようなものです。
そこでどんなに利他的に生きている人にも、宗教的な救いが必要となります。宗教的な救いとは、どんな時でも世界に絶望しない、どんな状況でも自分に絶望しないで、輝いて生きることです。それを「永遠の生命を持つ」というのです。
神が独り子イエスを世界に与えたという意味をもう少し考えてみたいと思います。与えたということは、イエスの人生・生命・生活が捧げられたという意味です。つまり十字架で殺されるために誕生し、地上での人生を過ごしたということです。イエスの生活は小さな愛の行いの集積でした。友だちのいない人、虐げられている人、心身の弱っている人と触れ合い、世界の片隅に追いやられている人の隣人となる毎日でした。たとえば子どもの友でした。その一方で、イエスは大きな悪に対して憤り抗議の声を上げる毎日でもありました。利他的でありながら、利己的に威張る人々を批判していました。そのために威張る人々・力を振るう人々に嫌われ、でたらめな裁判の結果処刑されました。
イエスは、世界の仕組みの見方(how to watch)、なぜ自分は苦闘し葛藤しているのか(how to fight)、私たちは誰のために祈るべきか(how to pray)を徹底的に追求して生き抜いた方、その生き方の結末として十字架で殺された方です。威張っている人々を見抜いて、その人々を批判し続けていたので、彼自身は低い姿勢のまま人々を愛することができました。彼には偽善が無かったのです。あの嫌らしい罪が無い、唯一の人間でした。義人です。だから唯一無二の「神の独り子」です。
義人の血には力があるという信仰がありました。ユダヤ人たちの宗教祭儀は犠牲獣を神に捧げることを中心にしていました。罪のないものの血には罪あるものの罪(自分や隣人の罪)を洗い清める力があると信じていたのです。犠牲獣の代わりに神の独り子イエスが十字架で犠牲となったならば、世界中の人間たちの罪(利己的な内心と行為)を洗い清める力となります。イエスを、最後・最大の犠牲と信じるならば、どんな人もあの倒錯から解放されます。
神が唯一無二の独り子イエスを世界に与えたということは、世界の罪を洗い清めるための犠牲として与えたということ、殺すために生まれさせたということです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1章29節)。このような形の救い主としてイエスをキリストと信じる時に、日々の罪が複数あるままに毎日、独特の喜びをもって生活することができるようになるのです。根本的な罪が洗い清められ、自分と世界の倒錯の根本原因が分かったからです。罪を犯しやすくする仕組みでできた世界や、罪を犯しがちな自分をも神は愛し続けていることを知るので、徹底的な謙虚さと同時に圧倒的な自己肯定感をいただくことができます。これがキリスト教の宗教的な救いというものです。
バプテスマは宗教的な救いを象徴する儀式です。水は罪を洗い清めるということだけではなく、イエスの十字架の殺害と神によるイエスの復活をも示しています。全身浸礼の執行は死刑執行と重なり合うイメージなのです。イエスのように一度殺されて、再びよみがえらされるということです。罪に死に義に生きると言いましょうか。
神は義人を殺されたままにはせず、義人は必ずよみがえらされるという信仰がユダヤにはありました。そのイエスと同じようにキリスト信徒はバプテスマ後に新しい生き方へと生まれ変わります。罪が洗われることは借金(罪)の棒引きに似ていますが、復活の永遠の生命を与えられることは莫大な財産(義)をただで与えられることに似ています。
たとえば、支配欲に満たされている人やマウントを取りたがる人、本心は競争嫌いなのに無理やり他人と競合させられている人、周りから「男らしく強くなれ」と強要されている人に、イエスは別の生き方を提案しています。誰かにしわ寄せのいく仕組みに気づいて、おかしいなと思い、なるべく平たい関係なったらどうかと、イエスは勧めます。「仕える方が楽しいし幸せなのだから、自分のような犠牲を新たに生み出さないように」と、十字架からイエスは叫んでいます。罪の仕組みと、その歯車となっている自分の罪を知り、そこから降りる生き方です。
たとえば、何度も同じような失敗を犯し、相手に損害を与え、相手から批判され、自ら落ち込んでいる人に、復活のイエスは勧めます。「その古い生き方は自分が背負って十字架に磔にした。だからあなたは切り替えて生きなさい。あなたも私と一緒によみがえらされたのだから。何度で失敗しても同じように言うから、安心して行きなさい。」罪からの解放により、謙虚になりつつも落ち込み過ぎず、日々の失敗に対して爽やかに七転び八起きをすることが可能となります。
たとえば、上下関係を利用し力を濫用している人に苦しめられている人に、不当な差別待遇に苦しむ人に、イエスは勧めています。「あなたは悪くない。あなたを貶める人や仕組みを変えよう。」罪を知ることは、自分が罪を犯していないことをも知ることとなります。そこで圧倒的な自己肯定感が与えられるのです。そして神が愛している世界を、神の望むかたちに恢復させ復活させる一人になることができるようになります。
今日の小さな生き方の提案は、イエス・キリストを贈った神を信じること、神の独り子イエスが自分の救い主であることを信じること、イエス・キリストを生まれさせ活動させた神の霊が今ここにあって私たちに温かい交わりをもたらしていることを信じることです。殺されるために生まれた方、否、よみがえらされ永遠の生命を配るために生まれた方を信じることです。
バプテスマを受けていない方には、バプテスマを受けることをお勧めいたします。すると人生が変わります。日常は変わりませんが、物事の見方・考え方・生き方が変わります。徹底的な謙虚さと、圧倒的な自己肯定感が同時に与えられます。どのような状況にあっても、過分にちやほやされても過重に貶められても、穏やかで毅然とした態度をとることができます。いつでも立ち返ることができるHappy Dayが心に刻まれているからです。幸せな人生に全ての人が招かれています。