15 そしてヨセフの兄弟たちは彼らの父が死んだということを見、言った。「もしやヨセフは私達を憎むかもしれない。すると彼は私達に、私達が彼に行った全ての悪を、必ずし返すはずだ」。
ヤコブの死をエジプトの国威発揚のために用いたヨセフに対して、兄弟たちは恐怖を感じました。「見る」という言葉は、時系列を考えると全体を認識したという意味でしょう。兄弟たちは、ヤコブの死のありさまと、ヨセフの仕切ったエジプト流の国葬と、マクペラの洞穴で行われた家族葬という一連の「彼らの父の死」を見渡し、この出来事が何であったのかについて認識したのです。
シリア語訳聖書とラテン語訳聖書は、「見る」(ra-<ah)という言葉を、「恐れる」(ya-ra-<)という言葉に取り替えます。彼らは、父の死によって引き起こされることを恐れたと、踏み込んだ解釈を示します。「恐れた」は、次に続く兄弟たちの発言内容とも合致します。見渡し認識しながら恐れたという風に、二重の意味合いを感じ取れば良いと思います。それぞれ異なる本文を残した礼拝共同体を尊重したいからです。
物語を遡るとエサウは、双子の弟ヤコブを憎んでいました。そして二人の父イサクが死ぬ時を待っていました。その時にヤコブを殺そうと考えていたからです(27章41節)。読者はエサウとエサウの甥であるヨセフの兄弟たちが似ていることに気づきます。「憎む」という単語も共通しています。ヤコブとエサウの兄弟は、父イサクが死ぬ前に和解をなしとげています(33章)。そして協力して共に葬儀を行っています(35章29節)。同じマクペラの洞穴にある先祖代々の墓です。この経緯は似通っています。ヨセフたちも父ヤコブが死ぬ前に和解をなしとげています。
なぜ兄弟たちはエサウのような平穏の心持ちになれないのでしょうか。丁寧に読み進める読者には違いが分かります。ヨセフの国葬と、ヨセフがマクペラの洞穴にいなかったこと(可能性)。この二つが兄弟たちの心を騒がせます。「エジプトの権力者は怖い。何を思い出し、前言を翻し、ゴシェンの地に騎兵を出動させるか分からない。我々はエジプトの大軍を見たではないか。彼の命令には、ファラオ以外の全ての者が聞き従うのだから恐ろしい。」
16 そして彼らはヨセフに向かって命じた。曰く、「あなたの父は彼の死の前に命じた。曰く、17 『このようにあなたたちはヨセフのために言うべきだ。ぜひともあなたは持ち上げよ、ぜひ、あなたの兄弟たちの背反と彼らの罪とを。というのも、彼らがあなたに悪を行ったからだ』。そして今、ぜひあなたはあなたの父の神の奴隷たちの背反を持ち上げよ」。そしてヨセフは彼らが彼に向かって語った時に泣いた。 18 そして彼の兄弟たちも歩き、彼の面前に落ち、言った。「わ、私達はここに。あなたに属する、あなたの奴隷のために(背反を持ち上げよ)」。
兄弟たちは恐怖心を振り払って一発逆転の賭けに出ます。ヨセフに直接命令(強い要請)をするというのです。今までの物語で、「命ずる」という動詞の主語は常にヤコブかヨセフでした。ここで初めて兄弟たちがヨセフに命令をします(16節)。ヤコブが生前発したとされる命令に基づいて、ヨセフに向かって命令する。これは命がけの交渉です。作り話が見破られるかもしれないからです。聖書の中にはヤコブのそのような命令は記載されていません。ヤコブとヨセフの一対一の場面にも一切報告されていません。ヨセフに嘘を見破られ、かえって逆上させて命を危うくするかもしれないけれども、兄弟たちは賭けに出ます。それほどにヨセフの態度が不信を引き起こすものだったからだと思います。
怖いけれども直接物申す。最初で最後の命令をヨセフに出す。後のモーセとアロンのファラオへの要請行動と似ています。足はガタガタ震え、口もうまく動かないけれども、言うべきことを言う、自分たちの生命と尊厳のために言論で闘うのです。
「私達の背反を持ち上げよ」(17節)。イメージとしては神のおられる高いところまで罪を持ち上げてほしい、神にのみ裁いていただきたいという語感です。兄弟たちはヨセフに暴行を加え、衣服をはぎ取り、穴に突き落とし、エジプトに売り飛ばしたのでした(37章)。この行為は、隣人に対する背反であり、隣人の生命を創り、神に似た尊厳を隣人に与えた神に対する背反・罪です。横着にも加害者たちが被害者に向かって、「棚上げせよ」と要請しています。
兄弟たちは決死の面もちです。顔面蒼白、声も震えています。全員で来なければ言えない内容です。ヨセフは、この兄弟たちの立ち居振る舞いに「信実」を見ます。自分が無用の不信感を植え付けたことを後悔します。だからヨセフは泣きました。一体何回目でしょうか。兄たちを試した時も(42章24節)、ベニヤミンに会った時も(43章30節)、自分の身を明かした時も(45章2節)、ヤコブに会った時も(46章29節)、ヤコブが死んだ時も(50章1節)、ヨセフは泣きます。共通していることは、すべて悪い感情の時にではなく、自分が良心に立ち返る時にヨセフは泣いています。だから今回も、ヨセフは良い感情で泣いています。「不徳の致すところで不要な不信感を与えて済まなかった」という涙でしょう。
18節「兄弟たちも歩き」は、「兄弟たちも泣き」の書き間違えではないかと学者たちは注釈をつけています。「も」が付いているので、直前のヨセフの泣いた行為に関係させるのが自然だからです。私もそう思います。ヤコブとエサウが抱き合って互いに泣いたことと同じ場面がここに繰り広げられています。兄弟たちもヨセフの悔い改めと信実を見て泣いたのです。なおギリシャ語訳は「彼の面前に落ち」を欠いていますので、兄弟たちは立ったままヨセフと対峙したという立場です。ヨセフにひれ伏すまで卑屈ではないという解釈です。この強い態度と「命じた」(16節)という強い言葉は対応しています。泣きながら語っている兄弟たち。原文では兄弟たちはどもっています。「わ、私達は」としておきました。18節「奴隷に(なる)」なのか、「奴隷のために(持ち上げよ)」なのか。若干強引ですが、兄弟たちがそこまでヨセフに対して卑屈ではないとした上で、「自分たちを許せ」という意味に解しました。
19 そしてヨセフは彼らに向かって言った。「あなたたちは恐れるな。実際、私は神の代わりだろうか。 20 そしてあなたたちこそはわたしについて悪(を)企図し神はそれを善のために企図した。彼が今日のように行うために、多くの民を生かすために。 21 そして今、あなたたちは恐れるな。私自身があなたたちとあなたたちの小さな者たちを養う」。そして彼は彼らを慰め、彼らの心に接して語った。
19-21節のヨセフの言葉には、ヨセフ物語の中心思想が現れています。わたしたち読者は、この言葉に出会うために長い物語を読み進めてきたのです。ヨセフは自分の権力の乱用が兄弟に恐怖を与えたことを悔い改めます。「恐れるな」が二回繰り返されています。恐怖に基づかない対等の関係を結び直す決意がここに見られます。
二回の「恐れるな」がヨセフの発言を囲っています。このような場合、囲われた部分の特に真ん中の位置の言葉に言いたいことの中心があります。集中構造と言います。それは20節の「あなたたちこそはわたしについて悪(を)企図し神はそれを善のために企図した」という一文です。
兄弟たちはヨセフに「罪の棚上げ」を要請しますが、ヨセフはそれを拒みます。「わたしは神の代わりだろうか(いやそうではない)」という独特の反語表現で、やんわりと神ではないので背反・罪・悪をどうこうすることができないと言うのです。兄弟たちの加害はそのまま残ります。被害者にとってそれは棚上げも忘却もできないものです。だから、ヨセフが憎み続けている可能性すらあります。ヨセフにとって自分が赦すかどうかは真の問題ではありません。問題は、神がどのようになさるかです。「あなたたちこそはわたしについて悪(を)企図し」で、「こそは」という強調表現が用いられています。ヨセフは彼らの悪を忘れも赦しもしていません。そして全く接続詞を用いないで次の文が続きます。「神はそれを善のために企図した」。MLキング牧師が「悪人が悪い計画を練る(plot)時に、善人は良い計画を練る(plan)」という言葉を残しました。本日の聖句を念頭にしていると思います。原文は二つの文に接続詞を挟んでいません。珍しいことです。そのためにわたしたちはさまざまに考えることができます。「にもかかわらず」なのか「だからこそ」なのか。単純素朴、構文通りに、人間の企図する悪を善のために企図する神ととります。
兄弟たちが十七歳のヨセフをエジプトに売り飛ばす計画を立てたという悪を知った神は、その悪だくみを修正しヨセフを用いてエジプトを中心に多くの民を生かす計画を、善のために立て直しました。その多くの民の中にはイスラエルの特に小さな者たち(災害弱者)も入ります。イエスを十字架で処刑する悪だくみがなされていることを知った神は、十字架で殺されるイエスをよみがえらせ永遠の命を配るという、良い計画に練り直します。
ヨセフは自分が神ではないことを知っています。「自分には加害者を赦すことも、悪だくみを覆すこともできない。ただ自分は、面と向かって現れないけれども、自分の人生の台本を書いている神を信じている。神は思いもよらない方法で、自分に家族との再会を実現させ、家族の生命を救わせ、父の看取りまでさせてくれた。悪を善のために企画しなおした。この神を信じるので、自分は報復することができない。悪だくみに対抗する悪だくみは、神の良い計画をも止めてしまうから。」
ヨセフはきょうだいたちの心に触れる言葉を語っています。きょうだいの単純な嫉妬心すら分からないで嫌がられたヨセフが、きょうだいを慰める言葉を用い、心を開いた対話をしています。きょうだいもまたエジプトでの上下関係を打ち破って、最後にヨセフと対等な対話をすることができました。ヨセフ物語は、ヤコブの息子たち娘たちの霊的成長の物語です。それが神の書いた台本なのです。
今日の小さな生き方の提案は、わたしたちの人生の台本を書いている神を信じることです。他人からひどいことをされることがあります。悪だくみに巻き込まれて被害を被ることもあります。隣人に不信感を持つこともあります。人生が思い通りにならないこともあります。わたしたちは目を上げ天を仰ぐ。涙がこぼれないようにします。そこには人間の企てによる「悪」「災い」「罪」「背反」「コロナ禍」を良いことのために練り直している神がおられます。一人ひとりの人生の台本を、個別に「尊厳回復の逸話の挿入」「幸いな方向」「極めて良い結末」へと筋を書き直している神がおられます。わたしたちは天の神(地上では共に居られることが分かりにくい神)を信じましょう。そうすれば下劣な報復や、下品な自暴自棄に陥らないですみます。神を見上げ霊的成長をしながら自分だけの人生を生きましょう。