神は愛 ヨハネの手紙一 4章7-12節 2023年12月3日 待降節第1週礼拝説教

7 愛する者たち、私たちは互いに愛そう。なぜならばその愛がその神に拠るからである。そしてその全て愛する者はその神に拠って生れた。そして彼はその神を知る。 8 その愛さない者はその神を知らなかった。なぜならばその神が愛だからだ。 9 このことにおいて、その神の愛が私たちの中に現れた。なぜならばその彼の息子を、その独り子をその神がその世界の中へと遣したからだ、彼を通して私たちが生きるために。 10 このことにおいて、その愛がある。私たちがその神を愛したということではなく、むしろ彼こそが私たちを愛し、また彼のその息子を、私たちの諸々の罪についての宥めを、彼は遣したということ(だ)。 11 愛する者たち、もしもその神が私たちをそのように愛したのならば、私たちもまた互いに愛することを責としている。 12 誰もいまだ神を(間近に)見たことはない。もしも私たちが互いに愛することができるならば、その神は私たちの中に留まる。そして彼のその愛は私たちの中で全うされたのである。

新約聖書に残されている文書からだけでも、1世紀のキリスト教会にはさまざまな系列があったことが分かります。パウロ・ルカの系列は多分に主流です。ステファノやフィリポ、バルナバたちを源流とする「国際派」です。それと対極に位置するのが主の兄弟ヤコブを中心とするエルサレム教会です。ユダヤ民族主義が強く神殿参拝もするし、祭司・サドカイ派も教会員にいるほどの「ユダヤ民族派」です。この人々の源流は十二弟子、特にペトロとゼベダイの子のヤコブとヨハネです。ゼベダイの子ヤコブは殉教し、エルサレム教会の柱は三人の人物となります。主の兄弟ヤコブとペトロとヨハネです。

非常に大雑把に言えば、この国際派とユダヤ民族派という両極の間に、モザイク模様にさまざまな系列があって「ユダヤ教ナザレ派=キリスト教会」を構成していました。福音書という分野を創始したマルコは、パウロとも接触し喧嘩別れしていますから国際派でありつつ、生前のイエスの生き方(ユダヤ人の枠に収まらない愛と知恵の実践)を描きます。生前のイエスをよく知るペトロはユダヤ民族派から出発しますが、エルサレム教会のみに定住せず様々な教会を渡り歩き国際派との懸け橋的存在になります。マルコはこのペトロの通訳をしたとも言い伝えられています。そして福音書の中でマルコはペトロたち十二弟子を批判しています。

ヨハネ福音書、ヨハネの手紙三通を残した人々を、便宜的に「ヨハネ系列の教会」と呼んでおきます。ゼベダイの子ヨハネを源流としているグループと推測します。イエスから格別に愛された弟子であるヨハネは、マルコ福音書に触発されて、ヨハネ福音書の核となる部分を著しました。それが同系列の教会群の礼拝で用いられていくうちに何回も改定補充がなされました。ヨハネ福音書は20章31節でいったん終わっている文書です。このような増補改訂の延長として、ヨハネ系列教会群の中の一教会がヨハネの名前を用いて、「手紙」という分野の、礼拝で用いられる文書を作成したのでしょう。手紙という分野を礼拝で用いることは、パウロ系列教会で盛んになされていた実践です。

本日の箇所がヨハネ福音書3章16節や1章18節に呼応していることは明らかです。神はその独り子を与えたほどにこの世界を愛してくださいました。だから神は愛です。神の愛は、神の独り子イエス・キリストの派遣というかたちで明らかになりました。神を見たことも聞いたことも触れたこともない者たちは、ナザレのイエスの声を聞き、顔と顔とを合わせて見、彼に触れること・触れられることによって、神を知ることができます。そして本日の箇所は、神を知った人が何をなすのかということを示しています。互いに愛するということです。

下線を引いている通り、7-12節の中で三回も「互いに愛する」という表現がありますから、これは鍵語です。その根拠は、弟子たちの足を洗うイエスの姿にあります(ヨハネ福音書13章)。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい」(同34節)。十字架前夜のイエスの遺言に基づいて、ヨハネの手紙一4章7-12節において、三回も互いに愛することの重要性が語られています。その語りかけは次第にエスカレートして事柄の重みを増していきます。

一回目は呼びかけです。「互いに愛そう」(7節)。これは提案です。そして接続法というやや曖昧な含みで語られています。互いに愛せないかもしれないという可能性を含んだ表現です。実は、提案ではなく熟慮という意味でも訳すことも可能です。そうなると「互いに愛そうか(どうしようか)」という翻訳も可能です。そうであれば、さらに弱い表現となります。

二回目は「互いに愛することを責としている」(11節)という表現です。責としているということは、債務を負っているという意味の動詞が用いられているので、冗長に訳出しました。多くの翻訳は「互いに愛するべきである」とすっきりと訳しています。ここで一つギアが上がっていることが分かります。提案から踏み込んで義務としています。蓋然性/可能性から踏み込んで、当為/なすべき行為としています。それは、10節「私たちがその神を愛したということではなく、むしろ彼こそが私たちを愛し」たということに根拠があります。私たちは神に背負われ、神は私たちの債務(諸々の罪)を帳消しにしてもらいました。そこで、神を愛するという新たな債務が生まれるかというと、実はそうではないというのです。そうではなく、神に愛された者たちは、互いに愛するという債務/義務を負うのです。

三回目はさらにギアを上げています。一見理解しがたい内容をもつ12節の条件文と結びの一言です。「もしも私たちが互いに愛することができるならば、その神は私たちの中に留まる。そして彼のその愛は私たちの中で全うされたのである。

互いに愛することができるならば神が共にいるというのです。そして神の愛を私たちの行為が完成させるというのです。反対から言えば、私たちが互いに愛することができないならば神は共にいないということになります。また神の愛は私たちによって完成しないというのです。不可思議な言葉です。私たちは、神の愛が無条件であることを信じています。私たちの行いに関わりなく、神はイエス・キリストを贈ったのです。十字架は無条件の赦しの出来事であるはずです。インマヌエル、神は私たちと常に共に居られるという救いは、無条件に与えられるはずです。

しかも神の愛は、人間たちの相互の愛の諸行為で完成されるような小さな愛ではないはずです。ただ一度イエス・キリストが来られ、十字架と復活の救いを起こしてくださったことに唯一無二の愛があるはずです。12節の結びの言葉は、私たちの信仰の基本的な枠組みを壊しています。

信徒の中に神がとどまらない場合があること、実は人間のなす愛が神の愛と同じように高く評価されていることを示しているからです。この意味で私たちの信仰を揺さぶる強さにおいて、三回目の「互いに愛することができるならば」は強烈な衝撃を与えています。この条件の前に少しひるみます。

旧約新約聖書の諸文書は、このように相互に緊張感を保っていながら一冊の本です。この意味で非常に教育的です。教育とは、さまざまな角度を提供しながら、その人の人格の成長と完成を目指すものだからです。

ここで冒頭のゼベダイの子ヨハネという人物の人格の成長を振り返りたいと思います。彼は非常に狭いユダヤ民族主義者でした。サマリア人に対する憎悪を隠そうとしません。「民族浄化」を口にする差別者です(ルカ福音書9章54節)。その彼のためにもイエスはサマリア人に助けられるユダヤ人の譬えを語り偏狭な民族主義を戒めます(同10章25節以下)。イエスはヨハネをこの上なく愛していたので、悔い改めを期待していたのです。そして十字架上からやもめである自分の母親をこのヨハネに託します(ヨハネ福音書19節26節ほか)。

エルサレム教会でヨハネはおそらくイエスの母マリアの家の教会に出席していたことでしょう。イエスの弟ヤコブもいたユダヤ民族主義の強い群れです。しかし彼は国際派のフィリポの後を追って、サマリア人たちの教会を訪問します(使徒8章14節以下)。あれだけ嫌っていたサマリア人の多くの村を訪問し、多くの教会を訪れ、あなたたちも仲間だと宣言していくのです。この後使徒言行録からヨハネはいなくなります。その後の歩みは不明です。

ゼベダイの子ヨハネ系列の教会には、このヨハネの強烈な転向が影響しているように思えます。互いに愛することができるかできないか分からないほどの葛藤が、ユダヤ人たちとサマリア人たちにありました。隣人を愛さないヨハネをイエスは愛し、愛することを期待して隣人を託しました。そのイエスの愛が、ヨハネを変えてサマリア人と互いに愛することを可能としました。多分に、ヨハネはエルサレムに帰って報告の証をしたと思います。「サマリア人と交わった時に、その交わりの中にイエスご自身を感じた」。できる/できないで言えば、やはり神の愛を実現しこの地上で完成することは、できると言わなければなりません。

9・10節「このことにおいて」を文の冒頭に置くことは、ヨハネの手紙一の口癖です。全体で14回もあります。「このことにおいて」と言われることがどのことにおいてなのか、前段を受けているのか後段を受けているのかは、良く分かりません。口癖なのだから全体を受けると考えます。キリストを通して神が私たちを愛しているということにおいても、私たちがキリストに倣って神の愛を実践できるということにおいても、神は愛であるのです。

クリスマスは私たちに挑戦しています。インマヌエルに感謝する信仰と同時に、それとは正反対に、「もしかすると愛の無い私たちの中にはキリストは留まっていないのではないか」という疑念をも抱かせるからです。「できるはずなのに、なぜあなたはしないのか、あなたも行って同じようにせよ」という励ましを、教育的に受けるからです。ガザの人々の泣き叫びを前に、私たちは無力感を持っています。だからこの状況では、「あなたはそのままで良い」という慰めだけではなく、私たちに何ができるのかを考えるべきなのでしょう。

今日の小さな生き方の提案は、互いに愛せないかもしれない小さな私たちが、神の愛を完成させる大きな器であるということに気づくことです。ゼベダイのヨハネがその証です。ヨハネの後ろを歩いたヨハネ系列の教会が、私たちの一つの模範です。まずは教会の中で愛を実践し、そしてその愛を溢れさせて地域に、この世界に、特に片隅に追いやられている人々に実践いたしましょう。クリスマスは贈り物の季節でもあります。何か一つ具体の愛の行為を、自分の頭で考えて、悔い改めの実として行いたいと思います。その時私たちの中に愛の神が留まり、私たちはキリストという木に留まることができます。