クリスマスおめでとうございます。クリスマスを子どもたちと共に祝った幼稚園のとある保護者の方の感想です。「キリスト教について大人になってから知ろうとすると困難だけれども、子どもたちは自然に理解していることに感銘を受けている」とのことでした。この言葉に良い意味ではっとさせられました。せんじ詰めるとキリスト信仰とは何か、聖書が示す神とはどのような方か、あなたは何を信じているのかと問われたような気がしたからです。
まったく単純に一言で言えば、聖書の神は「共に居る神」です。キリスト信仰とは共に居る神への信頼です。この神は旧約聖書と新約聖書を貫いて同じです。古代西アジア世界では珍しく、旧約の神は旅をする自分の民と、また信徒個人と、共におられ決して離れませんでした。新約の神は人となります。イエス・キリストの誕生です。神の子が人の子になることで、人間たちとの連帯感を示しました。人間は驚き、「私たちと共に神が(インマヌエル)」と喜び叫び、歌い、神を賛美します。クリスマスは、キリスト信仰の一つの中心を伝えています。
18 さてイエス・キリストの創生は以下のことであり続けた。彼の母親マリアはヨセフのために婚約し、彼らが共に来るよりも前に、彼女は聖霊に拠って子宮の中に持っていることを見出した。 19 さて彼女の夫ヨセフは義人であり、そして彼女(のこと)を公にすることを望まず、彼女を密かに去らせることを図った。
福音書を編んだマタイという人の属する教会では、ヨセフという人物(ナザレ村の大工)を主人公にしたクリスマス物語が言い伝えられていました。「ヨセフのために婚約し」(18節)という言葉に当時の男性中心な考え方が覗いています。当時の考え方によれば、同居をしていない婚約も同居をしている結婚と同じ重さを持っています。そして夫によらずに出産をすれば、マリアは不倫をしたとみなされ当時の法律に従って処刑されてしまいます。不倫を犯罪とする場合も圧倒的に女性に不利な法律の建付けでした。
そこでヨセフはマリアの妊娠を公にすることを望まないで、密かに去らせることを計画していたのです。婚約の解消というよりは離縁です。そして当時の法律によれば離縁ができるのは男性からだけです。ヨセフだけの計画で結婚も離婚もできるわけです。日本国憲法24条はここにはありません。ヨセフは「義人」(19節)とも呼ばれています。この意味は、「法律を守る人」というものです。「悪法も法なり」ということでしょうか。ヨセフは法律に基づいて思考し、合法的に出来事をうやむやにしようとします。マリアに対する感情について聖書は告げていません。多分ヨセフはマリアに対して不信感を抱いていたことでしょう。憎んでさえいたかもしれません。法律に基づく彼の対応は、逆恨みをしてマリアに暴力を振るうよりは冷静です。
男性中心の法律で縛られた社会にどっぷりと漬かりながら、その枠内で解決を図ろうとする「義人」ヨセフに、神が不思議な方法で近づきます。聖書の神は、ヨセフとも共におられます。
20 さて彼がこれらのことを考慮した後、見よ、主の使いが夢で彼に見られた。曰く、「ヨセフ、ダビデの子、あなたはマリアをあなたの妻として(傍らに)受けることを恐れてはならない。というのも彼女の中に生まれているものは聖霊に拠るからだ。 21 さて彼女は息子を生むだろう。そしてあなたは彼の名前をイエスと呼ぶだろう。というのも彼、彼こそが彼の民を彼らの罪々から救うであろうからだ。」
ヨセフは夢を見ます。その夢は奇天烈で謎に満ちているものではありません。はっきりとした登場人物がはっきりとした内容をもって語り、起きてからも覚えていられるものでした。「主の使い」がそれと分かる仕方で現れたというのです。そして天使は、ヨセフが現在悩んでいることがらについて助言をしました。
神は、神の言葉によって、私たちと共に居ます。そして私たちが現在悩んでいることがらについて、理解できる言葉で助言します。それは聖書の言葉です。ヨセフが夢で見て聞いた神の言葉を、現代の私たちはいつでも聖書によって見聞きできます。神は、あの時ヨセフと共に居り、また私たちと今共に居られます。
「恐れるな。マリアと同居し結婚することを恐れるな。」ヨセフは結婚によって何を恐れていたのでしょうか。自分の煮えくり返る感情でしょうか。見も知らないマリアの「相手」と向き合う可能性でしょうか。心無い噂によって「義人」であることが崩れることでしょうか。名誉が失われることでしょうか。自分の両親でしょうか。マリアの両親でしょうか。男性中心の法体系でしょうか。家制度・家父長制でしょうか。まったくもっともな理由です。
しかしこのもっともな理由はすべて一つの前提によって成っています。それは、人間社会は人間の行為によってだけ動くという前提です。もし神が人間社会の中で働き社会を動かすとすれば、それは法律というものを通じてしかありえないという前提です。だから神は私たち人間社会とは共に居ないと、ヨセフは潜在的に考えています。
神の言葉は、ヨセフが当たり前としていることを打ち砕きます。マリアは神によって妊娠しているというのです。その具体について天使は詳しく説明していません。しかし、マリアが妊娠しているのは、神の導く出来事であるというのです。「聖霊に拠る」(18・20節)は、理由や根拠や由来を示す表現です。細かい事情について詮索して、マリアや第三者を憎む必要はない。むしろこの結婚、すぐに三人で家庭を持つことを、神の導きだと信じなさいと神は助言します。
恐怖は人の判断力を鈍らせ狂わせます。恐怖の源になることがらが打ち砕かれなくては人生の舵取りは難しいものです。聖書の神は、ヨセフに対してだけではなく、しばしば信徒に向かって「恐れるな」と呼びかけ、わたしたちの立ち往生の根拠そのものを、別の根拠に入れ替えます。「神の導く出来事かもしれない」という信が、わたしたちを恐怖から解放します。
「文字は人を殺し、霊は人を活かす」という言葉が別の聖書の箇所にあります。ヨセフは法律の文字に拘っていましたが、もっと大切なことがあります。法律よりも自由に働く霊である神に従うことです。文字は神を定義しきれません。文字は人を縛ります。人に恐怖を与えます。そして人の未来を狭めます。
21節の動詞はすべて未来時制です。霊である神の導く将来の出来事が約束されています。それは第一に、マリアが息子を生むという将来です。母子ともに無事であるという明るい未来です。ヨセフが神の出来事と捉えるならば、このことがらを素直に喜ぶことができるでしょう。第二に、ヨセフが赤ん坊に名づけるという将来です。名づけは親にとって最も名誉あることです。ヨセフが神の出来事と捉えるならば、自分自身名づけの栄誉に与かることができます。しかし、その名前は予め決められています。イエスです。
ギリシャ語イエス(イエースース)は、ヘブライ語のヨシュア(イェホーシュア)の音写・翻訳です。ヨシュアの意味は「彼は救う/救う者」です。イエスこそが、自分の民イスラエルを救うだろうから、その意味を込めた名前が付けられなくてはならないというのです。つまり、ユダヤ人の一人である父親ヨセフをも、息子イエスは救うだろうと天使は将来を予告しています。もしもヨセフがこの不思議な出来事を神の導く出来事と捉えるなら、ヨセフ自身も救われます。
救いとは何でしょうか。特にヨセフが縛られていたものから考えなくてはいけません。それは法律・習慣・文字によって縛られる生き方です。それが複数形の「彼らの罪々」で言い表されていることでしょう。実際、成人したイエスは当時のさまざまな法律によって縛られていた人々を解放しました。法律で人々を縛り、複数の罪々を生み出し、「罪人」を量産している律法学者を徹底的に批判しました。「義人」という称号からヨセフは解放されるべきです。
22 さてこのことの全ては、その預言者を通して主によって言われたことが成就するために、起こった。 23 「見よ、乙女が子宮の中に持つだろう。そして彼女は息子を生むだろう。そして彼らは彼の名前をインマヌエルと呼ぶだろう。」それは(次のように)翻訳されている。「神は私たちと共に居る。」 24 さてヨセフはその眠りから起きて、その主の天使が彼に向かって命じたように、彼はした。そして彼は彼の妻を(傍らに)受けた。 25 そして彼女が息子を生むまで、彼は彼女を知らないままだった。そして彼は彼の名前をイエスと呼んだ。
ヨセフは飛び起きて、自分と共に居る神に感謝をし、自分の殻を脱ぎ捨てます。夢の指示の通りに、マリアとすぐに同居をしたのです。マリアにすべてを打ち明けたかどうかは分かりません。マリアも彼に何を言ったか不明です。ヨセフは出産まで彼女のことを知らないのです。ただ彼は夢で神を知り、この不思議が神の出来事であることを信じて、その導きに向かって飛び込みます。そして、息子が生まれた時に導きを確信し、自分の偏狭さをも解放してくれることを期待して、イエスと名づけます。
福音書記者マタイの教会では、不思議な経緯でマリアがイエスを生んだことと、ヨセフが父親としてイエスを育てたことを、イザヤ書7章14節の預言が成就したことと理解しました(22節)。ただし重大な修正を加えた上で引用しています。ヘブライ語原文は「彼女は彼の名前をインマヌエルと呼ぶ」とあるところを、マタイ教会は「彼らは彼の名前をインマヌエルと呼ぶ」(23節)と変えました。これによって、ヨセフとマリアが赤ん坊をインマヌエルと呼んだというように意味が変わります。マリアだけではなくヨセフも加わって、イエスの誕生を神の導く出来事と信じ、「私たちと共に神が」と驚嘆し喜び祝ったのです。ヨセフの悔い改めこそがマタイ版クリスマス物語の一つの主題です。
今日の小さな生き方の提案は、神が共に居ることに気づく人生への招きです。ヨセフにとってそれは「義人」であることを脱ぎ捨てる生き方でした。神の導きの方が法律に従うよりも勝っていて楽しいとヨセフは気づきました。インマヌエルの神は、私たちと共に居ながら意外な方向に私たちを導く霊です。
私たち一人ひとりにも大切にしていることや拘りがあることでしょう。悪いことではありません。しかし注意しなくてはいけないのは、自分が大切にしていることに縛られることや、自分が絶対的な存在(=「規則」)になり、隣人を縛ってしまうことです。そうなれば共に居る神に気づかなくなってしまうかもしれません。私たちの信じている神は「不規則なインマヌエル」です。ナザレのイエスの生き方がそれを見事に示しました。今も生きて働くイエスの霊を受け容れてみませんか。聖書の言葉に揺さぶられながら導かれ、常に古い服を脱ぎ捨て、ご一緒に「私たちと共に神が」と喜び歌いませんか。