種を蒔く人 ルカによる福音書8章4-15節 2017年1月15日礼拝説教

種を蒔く人の譬え話は、マルコ福音書・マタイ福音書にもほとんど同じ内容で収められています(マルコ4章1-20節、マタイ13章1-23節)。このような場合、マルコをマタイとルカが真似したのです。ルカは少し短くし、マタイは少し長くしていますが、ほぼ同じです。

そして、この譬え話は極めて珍しいことに、イエス自身の解説が付いています(11-15節)。非常に理解しやすい譬え話と言えます。イエスの解説通りに、わたしたちも解釈すれば良いからです。今日の箇所でイエス自身が白状していることでもありますが、イエスの譬え話は理解し難い内容である場合がしばしばあります。一般に譬え話は、本筋の話を分かりやすくさせるための助けとして用いられます。しかしイエスの場合は聴衆に理解させないために語る場合があるのです(9-10節。イザヤ書6章9-10節の引用)。旧約聖書の預言者たちが、そのような皮肉な語り方をしていたからです。

「譬え(パラボレー)」は、「近くに(パラ)」と「投げる(バロー)」の合成語です(英語parableの語源)。言いたい事柄の近くに投げ落とすことは、うまく行けば事柄を理解するための助けになります。近くまで行けるからです。しかし、近くまでしか行き着けないということもあるでしょう。弟子たちが直接目撃している出来事・神の国の秘儀(悪霊祓い、癒し、罪の赦し)を、わざわざ言葉にすることは遠回りです。

わたしたちとしては、イエス自身の解説に身を委ねれば、上記のような遠回りにも遭わなくて済みそうです。ただし、いつものようにルカ福音書の強調点を確認します。その後イエスの解説をたどっていきましょう。聖書の唯一の解釈原理(読み解きの物差し)は、イエス・キリストなのですから。

ルカの場合は、「人間には四種類ある」という分類を、単純に考えています。マルコ福音書においては、良い地に落ちた種が大多数で(複数)、その他の土地に落ちるのは例外扱いです(単数)。しかし、ルカは四つの場合をすべて均等に単数で描いています。マルコは、大抵の人間は良い地に落ちて実を結ぶという楽観を背景にしています。しかし、ルカは良い地である確率を四分の一、倍率を四倍にしています。少数の者しか良い地ではないということになります。

また、ルカだけは「石地」ではなく、「岩(ぺトラ)」という言葉をあえて用いています(6・13節)。新共同訳聖書はマルコやマタイに合わせて「石地」としていますが、良くない態度です。マルコ・マタイは文脈上自然な単語「石地」を使っていることに対抗して、ルカはあえて「岩」という不自然な単語を選んだのです。なぜか。おそらくペトロとの関連です。ペトラは男性十二弟子の一人シモンという弟子のあだ名である「ペトロ」の語源です(5章8節、6章14節)。

先週も、三人の女性の弟子を紹介しました。三人の女性の紹介はルカ福音書にしか無い物語でした。12が3の四倍であることが、気になります。ここに著者ルカの遊び心があるように見えます。ペトロに代表される男性十二人が前半の三種類の人間であり、女性三人が後半の一種類の人間だという示唆です。

仮に、この図式を当てはめて譬え話について考えてみましょう。種を蒔く人を「神」とします。種は「神の言葉」、すなわち「イエス」としましょう(ヨハネ福音書1章参照)。「聞く」行為は、「聞き従う」行為ととります。

最後の晩餐を囲んだ十二弟子の一人ユダに悪魔が入りました(22章3節)。悪魔は荒野の誘惑の後にイエスを離れた後に(4章13節)、空の鳥のように舞い戻って来たのです(5節)。ユダはイエスを官憲に引渡します。他の弟子の中でペトロは大口を叩いて、イエスと一緒に獄にも行き、処刑されても良いとまで言いながら(22章33節)、結局「試練に遭うと身を引いてしま」い(13節)、イエスを否定し見殺しにしました(22章61節)。他の10人も結局、イエスを見捨てて逃げ去りました。その姿は、若干強調して言えば、「途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人々」の姿に似ています(14節)。ユダだけが金に汚かったのではなく、すべての弟子も人生の思い煩いに覆いふさがれ、イエスを見殺しにしたのです。

この十二弟子の姿に対抗して、十字架と復活を三人の女性弟子が目撃します(23章55-56節)。忍耐して信仰を守り通した少数の弟子たちです(15節)。神の国の秘儀はここにあります。良い地かどうかは、見かけやこの世の常識によらないものです。だから、貧しい人・今飢えている人・今泣いている人は幸いです。女性たちも含め、この世界で肩身の狭い思いをしている人の名誉を、神は回復してくださいます。

以上の解釈はルカの強調点から推測される譬え話の説明です。では、別の角度から、イエス自身の解説をなぞって、この譬え話を読んでみましょう。

「種を蒔く人」をイエスと採ります。「種」はイエスが語る教えです。「道端」「岩の上」「茨の中」「良い地」は、イエスの教えを聞く人々の心を指します。この場合、「聞く耳のある者は聞きなさい」(8節)に力点があります。「聞く姿勢が良ければ、イエスの教えを理解して実践できる、だから、言葉を聞いて行う人になりなさい」という積極的な招きと捉えるのです(21節も参照)。つまり、種が芽を出して、根を下ろして、育って100倍の実を結ぶことは、神の言葉を継続的に聞いて行う信者になることを意味します(15節)。

全ての人は、「よく耕されている土地」のような心を持つべきという価値観が示されています。頑な、頑固、頑迷な心持ちは旧約聖書以来、一貫して批判されているからです。このような心持ちでいると誘惑に負けてしまうことがしばしばありえます。二つの点から、頑なな心がいかに信仰生活を続けることに不向きかが説明されています(道端・岩の上)。そして一つの点から、逆に軟弱な心も信仰生活に不向きであることが説明されています(茨の中)。

全ての人は良い地となるべきですが、ただしかし、この譬え話の論調で言うと、これらの向き不向きは生まれつき決定づけられているようにも思えます。道自身が、自分を畑地にすることはできないからです。人間の努力で聞く耳のある人になれるのかどうか、やや疑問です。その一方で、神の言葉を聞く機会は、すべての人に平等に与えられているようにも思えます。先ほど申し上げた通り、ルカは四通りの種類を均等に紹介しているからです。後天的努力の重要性と先天的な決定に対する諦めと、譬え話の内部に緊張関係があります。この課題も頭の隅に置きながら、四つの心のあり方について考えていきましょう。

道端は、耕作地ではありませんから硬い地面です。頑なな心の喩えです。道は人間にとって便利なものですが、用途が異なります。人々の往来のための土地なので、そこから本来種が芽を出すことは期待されていません。だから育ちにくい場所です。むしろ、道本来の用途に従えば種は往来する人々に踏みつけられる危険性の方が高いことでしょう(5節)。根を下ろすことも困難なのでそれまでの間に空の鳥に食べられてしまう可能性もあります。

岩の上はさらに硬いものです。道端よりも頑固な心が批判されています。建築において家の土台を据えるために岩は有用ですが(6章48節)、耕作地にあれば除去されなくてはいけません。やはり用途が異なります。そしてもう一つの問題性が岩にはあります。水分が補給されないということです(6節)。頑ななだけではなく湿り気の無い心が批判されています。合理的で、冷たく、他者に共感しない心の有り様が批判されています。

道端と岩の上は、種が実りを結ぶということからすると、そもそもの用途が異なる的外れな心を示しています。悪魔の誘惑に積極的に参与していく人間の姿を指しています。悪魔の誘惑は、自分を神とすることです。そして、神と人を愛さないことです(4章1-13節参照)。むき出しの支配欲のままに生きる、それで何が悪い、その方が自由なのだと開き直ることです。そこで得られる自由は、空の鳥の胃袋の中の自由です。そして、損得勘定という合理的判断の上で枯れてしまう自由です。

茨の中は前二者と異なります。土地自体は、耕作地のようです。人々が踏むことも、空の鳥がつまむことも、乾いて枯れることもなさそうです。ところが手入れが悪いのか、良い土地であることによって、他の植物も生えてしまっているのです。そして、育ってほしい種の成長を茨が邪魔します。頑固な心の逆に、軟弱な心が批判されています。誰に対しても「良いよ、良いよ」と言っている人の問題性です。一体何が本当に大切にすべきものなのかが、意思が弱く心が軟らかすぎて選べなくなっているのです。それは心が分裂している様に喩えられます。「思い煩い」(14節)とは、心の分裂を指す言葉です(10章41節)。誰も神と富とに兼ね仕えることはできません(16章13節)。

茨の中の良い地は、神と人を愛したいと願っている人です。しかし意思が弱く、その他のことを優先して、「実が熟するまで至らない」人です。生まれつきの人格は信仰生活に向いていても、これまた生まれつきの性格の弱さが仇となって誘惑に負けてしまうことが批判されています。

この三つの心は、人間の根本的な倒錯を表しています。罪と呼びます。生まれつき人間は神と人を愛するようにはできていません(道・岩)。仮に神と人を愛したいと思う人も、生まれつき信仰を続けるためのしなやかさを持っていません(茨)。誰も罪を正して、良い地になることを自力ではできません。

街を設計し道を通し畑地と区分した為政者の責任が問われます。畑地から岩を除去したり開墾したり、茨を刈り取る手入れをしたりする農場主や農夫の責任が問われます。畑以外の道や岩に種を蒔いてしまった腕の悪い農夫の責任が問われます。為政者や農場主は、創り主である神のことです。種を蒔く人は前述の通り、救い主であるイエスのことです。

さまざまな土地が蒔かれた種の実を結ぶかどうかは、すべて為政者・農場主・農夫の行動にのみかかっています。人が、聖書の言葉を実行して神と人を愛するように生まれ変わるかは、神と神の子にのみかかっています。救いは徹底的に他力本願です。

だから土地/人にできることは祈ることだけです。土地の種目を変えて欲しいと祈ること、用途を道路用・住宅用ではなく、畑地に変えて欲しい。さらに、畑をよく耕し雑草が増えないように手入れをして欲しいと祈ることです。その上で種をふんだんに蒔いて欲しい、そうすれば、かつては的外れだった自分にも、神の言葉を聞いて行うことができるはずです。神がわたしたちに望んでいるのは「頑なさや軟弱さから救われ神と人を愛したい」という素直な祈りです。

今日の小さな生き方の提案は、自分の悪さや弱さを認めて悔い改め神に祈ることです。意識して、または無意識のうちに、神と人を傷つけるわたしたちの心を変え、誘惑に遭わせず悪から救い出してくださいと祈ることです。十字架のイエス・贖い主を通して神に向かって素直に祈るのです。イエスの十字架は神業です。土地の生まれつきの用途を否定せずに、そのままで実を結ぶように作り替えます。種を蒔く人は腕が悪いのではありません。イエスにかかれば、どの土地に蒔かれてもイエスの復活の力で実を結ぶのです。それが救いです。