【はじめに】
ユダヤ教の暦における第七の月の第一日目は、2025年であれば10月2日にあたります。本日の聖書箇所にある「第七の月の一日目・十日目」は、ちょうど今頃です。そしてこの時期は、ユダヤ暦における新年です。第七の月の一日目を「ローシュ・ハッシャナー」(「その年の頭」の意)と呼びます。同じく十日目を「ヨーム・キップール」(「贖罪の日」の意)と呼びます。
ユダヤ教の三大祝祭日の一つ仮庵祭も第七の月の十五日目から行われますから、第七の月は重要な一か月です。キリスト教徒の待降節とよく似ています。教会暦においても一年の始め(その年の冒頭)は待降節の第一日目です。過越祭とイースター、七週祭とペンテコステ、そして仮庵祭とクリスマスを重ね合わせることが有益です。新約聖書は旧約聖書を基盤にしているのだし、キリスト教はユダヤ教を基盤にしているからです。本日の箇所の説明にあたって、ユダヤ教ではどのようにして、この二つの日を大切にしているのかを謙虚に学びながら読み進めていきたいと思います。
その際に適宜レビ記16章や23章も参考にしていきます。というのも本日の箇所と同じ内容が若干言葉を変えて繰り返されているからです。
1 その第七の新月における、その新月に属する一日において、聖の召集が貴男らのものとなる。労働の仕事の全てを貴男らはしない。合図の一吹きの日が貴男らのものとなる。 2 そして貴男らは、ヤハウェのための憩いの香りのための煙の上る捧げ物をなす。群れの息子の雄牛一頭、雄羊一頭、完璧な年の息子たちの子羊七頭。 3 そして彼らの穀物の捧げ物、その油の混ぜられている小麦粉十分の三(エファを)その雄牛ごとに。十分の二(エファを)その雄羊ごとに。 4 そして十分の一(エファを)、その子羊七頭に属する、その一頭の子羊ごとに。 5 そして雌山羊たちの雄山羊一頭は貴男らの上に覆うための罪の捧げ物。 6 その新月の煙の上る捧げ物と彼女の穀物の捧げ物と日毎の煙の上る捧げ物と彼女の穀物の捧げ物と彼らの注ぐ捧げ物以外に、彼らの公正に応じてヤハウェのために火祭の憩いの香りのために。
【第七の月の一日目】
ローシュ・ハッシャナーは、安息日にあたっていなくても、安息日のように過ごさなくてはいけません(レビ記23章24節)。「聖の召集」(1節)がある特別な礼拝実施日です。安息日と同じく「労働の仕事の全て」が禁じられます。ヤハウェを憩わせるための捧げ物が捧げられます。会堂では特別の礼拝であることを示すために、必ず「合図の一吹き」があるそうです。そのラッパは、レビ記23章24節に基づいて「角笛」です。だから今でもイスラエルの街角でこの日は角笛の音が聞こえるそうです。
さてこの角笛は第一に希望を告げます。新年に当たりユダヤ教徒たちは全世界を創られた神が、新しい年を創られる方であることを思い出します。新しいことが始まることを角笛は告げ知らせます。神は新しいことを創始する神である。聖書の示すこの事実は、教会にとっても真理です。神は神の子を世界に遣わすときに、決定的に新しいことを創始されたのです。アドベントの第一日目と、ローシュ・ハッシャナーは似ています。わたしたちは年に一度は必ず新しい希望をいただくことができるのです。街角でクリスマスキャロルが響き渡る時、わたしたちの心が弾みます。それは希望の角笛です。
ただし、この角笛の一吹きは警笛でもあります。ローシュ・ハッシャナーは「裁きの日」とも呼ばれます。というのも十日目の大贖罪日は罪を覚えて悔い改める日だからです。ユダヤ教徒は、ローシュ・ハッシャナーから始まる十日間を悔い改める期間としても守ります。この点でも第七の月は待降節に似ています。一回目に来られたメシアは、二回目にも来られる(再臨)。そして再び来られるキリストは世界を公正に裁かれると信じられているからです。
一回目に来られた時に、神の子はどのような目に遭ったのでしょうか。人々は、「これは農園の跡取り息子だから殺してしまえ。そうすればこの農園は我々のものとなる」と言って、彼を虐殺したのです。農園はこの世界の譬えであり、農園の主人は創造主である神の譬えです。キリストの誕生を祝うことは、キリストの殺害の責任を負うことでもあります。世界を救うために遣わされた方は、世界から締め出されました。生まれたばかりのキリストは、飼葉桶という非人道的なベッドに寝かせられ、十字架という処刑台を王座とされたのでした。「この人は真に神の子だった」。2節以降に列挙されている、夥しい数の犠牲獣の血は、十字架で流されたナザレのイエスの血を指さしています。「見よ、神の子羊」。
7 そして、この第七の新月の第十(日)において、聖の召集が貴男らのものとなる。そして貴男らは貴男らの全存在を苦しめるのだ。労働の全てを貴男らはしない。 8 そして貴男らは煙の上る捧げ物(を)ヤハウェに近づける。憩いの香り(を)。群れの息子の雄牛一頭、雄羊一頭、完璧な年の息子たちの子羊七頭、それらが貴男らのものとなる。 9 そして彼らの穀物の捧げ物、その油の混ぜられている小麦粉十分の三(エファを)その雄牛ごとに。十分の二(エファを)その雄羊一頭ごとに。 10 十分の一、十分の一が、その子羊七頭に属する、その一頭の子羊ごとに。 11 雌山羊たちの雄山羊一頭は罪の捧げ物。その諸々の贖罪の罪の捧げ物と日毎の煙の上る捧げ物と彼女の穀物の捧げ物と彼らの注ぐ捧げ物以外に。
【第七の月の十日目】
「ヨーム・キップール(贖罪日)」という言葉はレビ記23章27節にあります。「聖の召集」があることは、ローシュ・ハッシャナーと同じです。十日間という短期間に二回も特別な礼拝があり、さらに十五日目にもあることは特筆すべきことです。この三回ともに安息日に準じて、一切の労働が禁じられています。アドベントにおいてキリスト教徒が四週間かけて一本ずつ蝋燭の火を灯し、一回ごとの礼拝を特別な気持ちで過ごすことに似ています。
ヨーム・キップールの特徴は、「貴男らは貴男らの全存在を苦しめる」(7節)ことにあります。礼拝者は自分自身を苦しめなくてはいけないというのです。レビ記23章では、この「苦行」が繰り返し規定されています(27・29・32節)。わたしたちが抱えている諸々の罪のために、「その諸々の贖罪の罪の捧げ物」(11節)がなされるからです。
「全存在を苦しめる」とは何を意味するのか、そして「罪」とは何かを考えていきましょう。「全存在」と訳したヘブル語はネフェシュです。ギリシャ語訳以来しばしば「魂」と訳されますが、精神的なものだけではありません。丸ごとのその人自身、生命を表す言葉です。「苦しめる」は、アナー(苦しむ)という動詞の強意・作為の談話態で、暴力的に虐げるという意味となります。
教会にとってそれは、イエスの十字架です。彼の尊厳を徹底的に剥ぎ取って、肉体的にも精神的にもそのネフェシュを痛めたこと。そしてその生命・ネフェシュを奪い取ったことが「全存在を苦しめる」という行為です。キリスト教徒は、イエスの十字架によって自分の「罪」を教えられます。本日の箇所の罪という言葉はハッターというヘブル語です。いろいろな罪を指す用語がある中、このハッターという罪は、純宗教的な意味合いの罪、「聖なる神の眼から見るとまったく汚れている」という意味の罪です。イエスの殺害と同種の罪を、わたしたちが今も行っているのならば、純宗教的にわたしたちは汚れており、神の裁きの前に耐えることができません。
たとえば、わたしたちは支配欲に負けて誰かにマウント行動をとってしまわないでしょうか。たとえばわたしたちは自己保身のために誰かを犠牲にしないでしょうか。たとえばわたしたちは誰かの苦しみを見て見ぬふりをして無視しないでしょうか。たとえばわたしたちは無責任に誰かを罵っていないでしょうか。これらのもっとも小さな一人にしたことは、すなわちイエスを十字架につけたことと同じです。もしも、十字架の血が8節以降に列挙されている夥しい犠牲獣の血と同じように、ただ一回だけ自分と世界中の罪を覆うために捧げられたのだと信じない限りは、わたしたちは聖であり義である神の前には立つことはできません。皮肉なことに、わたしたちは自分がイエスを殺していることに気づくことによって、イエスによる救いの入口に差し掛かるのです。この類の諸々の罪を覆い、根本的な原罪を贖う者がイエス・キリスト以外にいないからです。
ヨーム・キップール(贖罪日)に倣って、わたしたちがなすべき、自分の全存在を苦しめる行為とは何でしょうか。自省や自己否定をまったくしないで、「イエスさま、贖ってくれてありがとう」と言って、無批判に同じ罪を犯し続けることではないでしょう。そのような自己肯定は不誠実というものです。そうではなく、自分の犯し続けている諸々の罪を振り返ることです。小さな罪でさえも見逃さず、イエスの贖いという救いに胡坐をかかずに、イエスを殺害するという純宗教的な罪を犯し続けている自分に向き合うことです。これはとても苦しい作業です。
この点でも第七の月と待降節は似ています。神の子イエスの誕生を前にして、神の民がいかに神に叛き続けてきたかをわたしたちは旧約聖書を通して教えられているからです。「わたしの全存在は災いだ。わたしは自分を見つめ直せば見つめ直すほど苦しい。罪人のわたしを赦してください」と下を向いて祈りながらメシアを待ち望む人々のもとに、神の子イエスは到来されました。
時は満ちた。新しい時が創られたのだ。神の支配は近づいた。人の支配は打ち砕かれたのだ。あなたたちは悔い改めよ。自分自身を苦しめるほどに、罪と向き合え。あなたたちは福音を信ぜよ。その自己否定を潜り抜けて、真の自己肯定を得よ。
【今日の小さな生き方の提案】
礼拝は全く新しいことが始まることに期待する日です。礼拝を守ることでわたしたちは月曜日からの生活を心待ちにすることができます。「週の初めの日」にイエスをよみがえらせた神がわたしたちを再創造します。それと同時に礼拝は、真剣な自己吟味の時間です。仕出かしてしまった大小の過ち・失敗、浅い罪・深い罪、誰かに指摘された悪事、誰にも言えない恥ずかしい弱さ、これらを神の前に曝け出し、全存在を苦しめる時です。存在の深みにまで掘り下げ、悔い改めるのです。最も深いどん底に十字架のイエスがおられます。そこから神の右までわたしたちを引き上げてくださいます。これが福音です。