罪人を招いて ルカによる福音書5章27-32節 2016年9月18日 礼拝説教

先週からの続きの物語です。人々から貼られるレッテルとしての「複数の罪」を気にするよりも、むしろ自分の内にある「単数の罪(根源的な倒錯)」と向き合うことが必要であると申し上げました。「罪人の悔い改め」という主題をルカ福音書が好むからです。マルコ福音書だけであるならば「複数の罪」をつくる者への批判で終わります。ファリサイ派の律法学者たちに対する批判だけで十分です。「単数の罪」を悔い改めるべきなのは、常に権力を持っている側だけになります。言い換えれば対立構造、敵か味方かという図式が残ります。非常に急進的な「闘いモード」です。

今日の箇所はマルコ福音書2章13-17節(64ページ)を基に、ルカが書き改めたものです。たとえば、2章17節の言葉はマルコ版のイエスの主張を代表するものです。「わたしが来たのは(自称)正しい人を招くためではなく、(他称)罪人を招くためである」。自称正しい人が律法学者たち論敵であり、他称罪人が徴税人たち仲間です。他人を罪人と呼ぶ義人の方が、実は罪が深い、根源的に倒錯しているのです。

ルカ版のイエスは対立を和らげます。結論部分に二つの単語を付け加えることで、「複数の罪」有りとされている「罪人」たちもまた悔い改めなければならないと言います。「悔い改めへと(エイス・メタノイア)罪人を招くため」救い主が来たと考えています(32節)。この「悔い改めへと」はマルコにありません。この表現を付け加えることで、意味はがらりと変わります。徴税人や罪人にも悔い改めが要求されるようになるからです。マルコにおいては徴税人や罪人は悔い改める必要がありません。徴税人を汚れていると決めつける律法学者たちの方が罪を犯しているからです。ルカにおいては徴税人も罪人も悔い改めなくてはいけません。それを目標としてメシアが来たからです。

ルカは全般的に対立構造を嫌う人です。特に使徒言行録において、本当は熾烈な内部争いがあったであろうところを非常に温かい筆致で初代教会の活動を記します。たとえば、ヘブライ語を話すキリスト者とギリシャ語を話すキリスト者との間の対立や、使徒パウロとエルサレム教会の指導者たちとの対立などは、とても深刻なものでした。ルカはそのような対立構造をなるべく表に出さない書き方をします。結果としてキリスト教が広まったことを、「分裂」「分断」とは考えずに、「分散」「拡散」と捉えます。このルカの温かい眼差しは、わたしたちにも示唆に富みます。しばしばわたしたちは対立へと仕向けられます。対立に陥らないように立ち止まることが時に必要です。

ルカ版のイエスは、罪を悔い改めることは、律法学者だけではなく、徴税人にも必要なのではないか、悔い改めはすべての人に必要とされていないかという問いを投げかけています。それによって論争点があるままに、表面的な対立を超えた交わりが創られます。

ではどのような悔い改めがレビを初めとする徴税人や罪人と呼ばれていた人に必要なのでしょうか。悔い改めとは何をすることなのか、中身が重要です。マルコにはない表現を鍵にしながら、考えていきましょう。

徴税人レビは収税所で勤務をしていました。彼の仕事は通行税を取り立てることです。「すべての道はローマに通ず」と言われます。地中海を内海としていたローマ帝国は、石造りの道路敷設土木工事がとても上手でした。現在の高速道路の使用料金みたいに、収税所(関所)で道路を使って歩く者たちから通行税を取り、そのお金をローマ人の役人に渡すのがレビの仕事です。パレスチナ地域もローマ帝国の植民地だったからです。

「分割して統治せよ」とも言われます。ローマ帝国は非常に狡猾に収税所にローマ人の役人を置きませんでした。そんなことをすれば植民地のユダヤ人たちが露骨にローマ帝国に反感を持つことでしょう。むしろ、ユダヤ人の中から通行税を取り立てる者を選出させるようにしました。そうすれば、ローマ帝国への反感は、ユダヤ人である徴税人に向かい、真の敵は見えにくくなるからです。不満の矛先として徴税人があります。

いわゆる「ヘイトクライム」という現象においても、わたしたちは対立の仕組みについて立ち止まって考えなくてはいけません。部落差別や朝鮮人差別も「分割して統治せよ」という考えのもと仕組まれた分断であるからです。不満の矛先を設定することで誰が得をしているのかを見抜く知恵が必要です。

おまけにユダヤ社会には宗教的な法律があります。律法の決まりで非ユダヤ人であるローマ人は宗教的に「汚れている」とされていました。そのローマ人に職業上接触が多い徴税人は、他の植民地の徴税人よりもさらに仲間から嫌われます。旧約聖書の拡張版である「口伝律法」には、「徴税人の家に入る者は一日中宗教的に汚れる」という決まりがありました。ローマ帝国によって仕組まれた仲間同士の分断は、ユダヤ社会で最も効果的に威力を発揮しています。この状況で得をするのはローマ人であってユダヤ人ではありません。しかし、そのことを気づかずに、ユダヤ人は徴税人への憎悪を止めません。

イエスは徴税人レビに近づき、「わたしに従いなさい」と呼びかけます(27節)。「わたしの後ろを歩きなさい」という意味合いです。レビは徴税人以外のユダヤ人仲間から、このような言葉を聞いたことがなかったと思います。しかもイエスの後ろには、シモン・ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネといったカファルナウムの漁師たちがいます。特にシモンとアンデレの兄弟は、しばしば通行税を払って商売のために行き来をしていますから、顔を知っています。彼らの表情はレビに対して変わっていました。イエスの弟子になった者たちに徴税人に対する憎悪がないのです。なぜなら、すでにハンセン病の人、体が麻痺をした人たちを含む交わりができているからです(12-26節)。

「レビは何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(28節)。マルコ版のレビは何もかも捨てていません。だからマルコ版のレビ家の食事は、何回も行われている日常的風景に思えます。レビは「定住の支援者である弟子」のようにも読めます。ルカ版のレビは、漁師たちと同様にすべてを捨ててイエスに同行する「放浪の旅に伴う弟子」です(11節)。つまりその後の「盛大な宴会」(29節)はレビの送別会の意味合いを持ちます。

これが悔い改めという行為の一つの例です。仲間から憎まれている職業、そして支配の道具となっている職業を、ある日突然ぱったりと辞めてしまうということです。それによって対立構造が緩むからです。レビの送別会には、「徴税人やほかの人々」(29節)が同席し、レビとの別れを惜しみます。マルコ版ではすでに弟子となった徴税人や罪人だけが食事を共にしていますが、ルカ版では「普通の人々」が食卓にいます。元徴税人のレビの家に、徴税人と徴税人以外の人が集まることができています。レビを仲介役にして、社会の亀裂・対立が和らいでいます。

さらに、ファリサイ派の律法学者も盛大な宴会に同席しています(30節)。すごいことです。汚れ規定を作った人たち、つまり絶対に徴税人の家に入らない人たちです。しかしレビが辞めたことで入られるようになったのです。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり、食べたりするのか」。マルコ版では「どうして、彼(イエス)は」とあるものが、「あなたたち」とされ宴会の席上の人びとが一体化されています。それにより徴税人とそれ以外の人々の融和ができていることが表されます。そして、律法学者たちも含む「わたしたち」が形作られることをルカは理想として示しています(7章36節以下も参照)。「なぜ、あなたたちは」と律法学者たちは問います。しかし、ここで食事を一緒にしているのだから「なぜ、わたしたちは」と問うべきなのです。すべての人は医者を必要としているし、すべての人は倒錯をした自己中心の罪人であり、イエスを中心にした食卓を必要としています(31-32節)。そのような「わたしたち」となろうと、ルカ版のイエスは招いています。

悔い改めとは、イエスに従って生き方を変えることです。対立構造を少しでも緩めたり和らげたりするために努力することです。すべての人は自己中心的な罪人なので放っておくと利己的な者同士の争いしか起こりません。真の敵を見破り、真の敵を利する生き方を止め、利他的な生き方を志し、争う人々の間に入る調整型の「穏やかな人」が求められています。

もう一つの悔い改めの例は礼拝という行為です。盛大な宴会はレビの送別会という面を持っていますが、「イエスのために」催された盛大な宴会です(29節)。そしてマルコ版では「なぜ一緒に食事するのか」(マルコ2章16節)とされていたものが、「なぜ一緒に飲んだり食べたりするのか」(ルカ5章30節)と変えられています。この盛大な宴会をルカは、「主の晩餐」と重ね合わせています(14章15節以下も参照)。主イエスを中心にして葡萄酒を飲み、パンを食べる、分かち合いの食事が、弟子となったレビの家でなされています。

レビは礼拝の場所を提供し、礼拝の奉仕をし、礼拝の会衆となっています。そこで、社会で対立させられている人びとが交わりを作っています。意見の違いも当然あります。罪が完全に消え去っているわけでもありません。しかし、にもかかわらず、あるいは、それだからこそ、イエスを中心にした礼拝、毎週の晩餐によって「一つのからだ」がかたちづくられます。悔い改めとは地道に礼拝し続ける行為です。

著者ルカは医者だったと伝えられています(コロサイ4章14節)。健康だと言い張る人は医者にとって厄介な患者でしょう。無病息災よりも「一病息災」と言われる所以です。どこか弱いところを持っている方が、人間は精神的に均衡を保てるように思います。医者であるルカは友人のパウロが体に弱さを抱えていることを知っています(Ⅱコリント12章)。仲間とも路線対立を繰り返したパウロ。ときに傲岸不遜とも思えるほど強烈なパウロも、体の弱さによって心の均衡を保っていたのです。パウロも癒し主イエス・キリストを必要とする罪人でした。

ルカが罪人の悔い改めを強調する理由は、「すべての人が謙虚さを持つべきだ」と考えているからだと思います。ルカは、パウロの体の弱さも仲間内の激しい対立も、使徒言行録に露骨に書きません。その代わり、罪人の悔い改めを強調し、お互いの我を張る対立の愚かさをやんわりと戒めています。

実に根源的な倒錯である「単数の罪」が贖われた後であっても(これを「救われた」と表現します)、わたしたちはなお「単数の罪」を持ち続けます。キリスト者になるということは、罪人であることを卒業することではありません。そうではなく、キリスト者になるということは、自分が罪赦された罪人であることを知ることです。未だに克服できない自己中心を認め、毎週の礼拝を必要とすることを認め、罪人のわたしをイエス・キリストの神が愛していると信じることです。

今日の小さな生き方の提案はキリスト者になるということです。キリストを必要としていることを認め、謙虚に対立を和らがせる生き方を始めましょう。