罪責を負う 民数記17 章27節-18章7節 2024年6月2日礼拝説教

27 そしてイスラエルの息子たちはモーセに向かって言った。曰く、「何と、私たちは死んだ。私たちは滅んだ。私たち全てこそが滅んだのだ。 28 ヤハウェの宿り場に向かって近い者、近い者の全てが死ぬ。もしかすると私たちは死ぬことを完成したのではないか。」 

 少し振り返ります。17章8-15節には、アロンが体を張ってイスラエルの民を贖った出来事が記されています。それに続く17章16-26節における、アロンの杖(部族という意味もある)から実がなったという話は、レビ部族の直系ではないにもかかわらずアロンが大祭司として選ばれたという意味でした。アロンが持つ杖、枯れた木から命が芽生える物語は、贖い主の十字架からの復活と重なり合うものです。そして、この奇跡を見たイスラエルの息子たちは深い悔い改めを示します。「死んだ。滅んだ。全員滅んだ。会見の幕屋に近づく者は全員死ぬ。罪びとの死が完成した」と彼らは叫びます。

 ガリラヤ湖の船の上で、シモン・ペトロが「主よ、罪深い私から離れてください」とひれ伏しながら叫んだように、また、有名な譬え話において徴税人がうつむきながら「主よ、罪びとの私をお赦しください」と胸を打ちながら祈ったように、民は強い口調(完了形)で自らの滅びを断言します。恵みが圧倒的である時に、罪が深く自覚されます。

1 そしてヤハウェはアロンに向かって言った。「貴男と貴男の息子たちと貴男の父の家は貴男と共にその聖所の罪/罰を担う。そして貴男と貴男の息子たちは貴男と共に貴男らの祭司職の罪/罰を担う。 

 ここで非常にまれなことですが、ヤハウェがアロンに向かって(つまりモーセに向かってではなく)直接語りかけるということが起こります。民数記18章以外では、レビ記10章8節にしかない現象です。そして二つの文脈に共通する出来事があります。それは反乱物語の後に、ヤハウェはアロンに直接語りかけるということです。レビ記10章においては、アロンの長男ナダブと次男アビフが反乱を企て、その結果殺されたのでした。反乱の鎮圧後、神は大祭司アロンに語りかけます。

 ここで「貴男の息子たち」と呼ばれている、アロンの息子たちは元々四人でした。しかし長男・次男の死により、三男「エルアザル」(17章1・4・5節)が次期大祭司に任命されます。「貴男の父の家」はアロンの父アムラムの家のこと、ケハトの家系です。このケハトという人物も始祖レビの次男であって長男ではありません。聖書には弟妹が選ばれるという原理があります。アベルに始まり、イサク、ヤコブ、ラケル、ユダ、レビ、ヨセフ、モーセ、ダビデなどなど、後の者が先になるものです。大祭司職も実はそうです。神の選びは不思議です。だから大祭司であることが男系直系の権威となることは皮肉なものです。ケハトとエルアザルが傍系であることに目を留めるべきです。

 そして大祭司の職務は独特なものであることも重要です。「その聖所の罪/罰を担う」「祭司職の罪/罰を担う」というものだからです。二種類の解釈がありえます。一つ目は、大祭司は組織の長として部下の祭司たちの過ち、職務上の過失、諸々の一切に責任を負うという理解です。聖所に関する罪・祭司職の仕事に関する罪というように考え、その罰を長たるものが負うということです。文脈にかないます。その後が、部下であるレビ人について書かれているからです(3節「貴男らもまた(死なない)」)。「自分が責任を持つから自由にやりなさい」という太っ腹の上司みたいなものでしょうか。逃げないで責任を負う生き方を後押ししている解釈です。

 もう一つの解釈は、聖所そのものの罪・祭司職そのものの罪という理解です。「/」(アヴォン)は、宗教一般が持ちがちな過ちを指摘した言い方かもしれません。「悪しき宗教性」とも呼びます。ご利益やありがたみ、因果応報などによって、理性を曇らせてしまうような信心です。宗教的な装いをもって、その信心にすがる人を搾取することを、宗教者はすべきではありません。イエス時代の大祭司が神殿を用いて行っていたことです。真の大祭司イエス・キリストは、地上の偽の大祭司に十字架で殺されることによって「悪しき宗教性」を暴きました。信仰の名によって隣人を貪り殺すことは最も大きな罪なのです。

2 そして貴男の兄弟、レビの杖/部族、貴男の父の部族もまた、貴男は貴男と共に近づけさせよ。そうすれば彼らは貴男に接して(互いに)集まる。そうすれば彼らは貴男に奉仕する。そして貴男と貴男の息子たちは貴男と共に証の天幕の面前で(奉仕する)。 3 そして彼らは貴男の守るべきことをまたその天幕全体の守るべきことを守るのだ。ただしその聖所の諸々の器に向かって、またその祭壇に向かって、彼らは近づかない。そうすれば彼らは死なない。彼らもまた、貴男らもまた(死なない)。 4 そして彼らは貴男に接して(互いに)集まるのだ。そして彼らは会見の天幕の守るべきことを守るのだ。その天幕の労働の全てに属する(守るべきことを守る)。そして部外者は貴男らに向かって近づかない。 5 そして貴男らはその聖所の守るべきことをまたその祭壇の守るべきことを守るのだ。そしてイスラエルの息子たちの上に二度と激怒は生じない。 6 そして私、何と、私は貴男らの兄弟、レビ人たちをイスラエルの息子たちの真ん中から取った。貴男らのために、贈与がヤハウェのために与えられ続けている、会見の天幕の労働を労働するために。 7 そして貴男と貴男の息子たちは貴男と共に貴男らの祭司職を守る。その祭司職の出来事の全てのために、またその幕に属する家由来の(ものの)ために、そして貴男らは贈与の労働(を)労働するのだ。私は貴男らの祭司職を与える。そして近づく部外者は死ぬ。」

 本日の箇所には三重の同心円が記されています。「証の天幕」(2節)・「会見の天幕」(4・6節)・「聖所」(5節)には、神がおられると信じられていました。その神の「宿り場」(17章28節)を中心点として、一番内側の円が「貴男と貴男の息子たち」(2・7節)、すなわちアロンら、①大祭司の家系です。その外側の円は、「貴男の兄弟、レビの杖/部族、貴男の父の部族」(2節)・「貴男らの兄弟、レビ人たち」(6節)、すなわち、②アロン家以外のレビ部族の人々です。そして①と②が宗教者です。一番外側に、「部外者」(4・7節)、すなわち、③レビ部族以外の人々がいます。この人々は世俗の民ですが、もちろんヤハウェの信徒です。この三重の同心円は、神からの距離の近さによって人間を序列化しています。

 宗教者の中に上下関係、二重教職制が見られます。①大祭司家だけが特権的にできることがあります。それは「聖所」の中にある礼拝儀式(「守るべきこと」)に用いる「」を扱うことと、「祭壇」で犠牲祭儀を行うことです。つまり大祭司家は聖所の中の礼拝の中心的儀式を行います。彼らだけが中心的儀式を行うことによって、神において「二度と激怒は生じない」。それに反してレビ人が聖所の中に入り、器や祭壇に近づくと死にます(3節)。

②レビ人は、大祭司家に接して集まり、「天幕の面前で」大祭司家に対して「奉仕」し(2節)、「天幕の労働を労働する」(6節)とあります。大祭司家に従属するかたちで、聖所の外でなされる礼拝奉仕の全てを行うということでしょう。「労働する」(アバド)は、「礼拝する」「奴隷として仕える」という意味合いの言葉。エジプトのファラオの奴隷であった民イスラエルが、自由にヤハウェを礼拝する民となったことを表す言葉でもあります。非常に名誉な礼拝奉仕であることは明らかです。全諸部族の真ん中から取られたともいわれています(6節)。選民の中の選民。しかし、レビ人が奉仕する対象は大祭司家であって、聖所の中に宿る神ではありません。「贈与」(6節)と呼ばれるレビ人は、神が大祭司家に与えた奴隷なのです。神には近づけないけれども大祭司家に接することは許されています。

 ③レビ部族以外の人々が礼拝祭儀をまったく行えない人々としてグループ分けされています。この人々を含めた全体が会衆です。この文脈では詳細を省いていますが、イスラエル以外の寄留の民もこの第三のグループに入ります。「部外者は貴男ら(=大祭司家)に向かって近づかない」(4節)、なぜなら「近づく部外者は死ぬ」(7節)からです。レビ人には許された大祭司家への接近や接触が禁じられています。

 大祭司家とレビ人に上下関係を置くことを、バプテストの視点から批判していきたいと思います。旧約聖書には両者を上下家関係に置く伝統と、両者を等しいものと考える伝統が混在しています。大祭司家とレビ人を上下関係に置く必要はありません。本日の箇所でも7節だけは、「貴男ら(=大祭司家)は贈与(=レビ人)の労働を労働する」とあって、大祭司家の祭司職の仕事がレビ人たちの仕事と同一視されています。

限定された業務(例えば説教、牧会)しか許されない牧師と、全ての業務(例えばバプテスマ、主の晩餐、祝祷も含む)ができる牧師という二種類の牧師はバプテストにおいてありえません。正教師・補教師の二重教職制を採らないからです。「按手礼」という二重教職制のための儀式はバプテストに馴染みません。もちろん、牧師の子が牧師になるという世襲制度も、牧師とそれ以外の信徒を隔てる教職制度も、バプテストは採りません。神のもとに身分制はなく、みな平等です。平等・水平な交わりの中から、各教会員に教会の全体業務(「天幕の労働の全て」4節)の一部を委託して担わせているのです。牧師も教会員であり、牧師職は職務であって身分ではありません。

さて、イエスはサマリア人のたとえ話で、祭司とレビ人をこの順番で別個に登場させています(ルカ10章31-32節)。この語り方は両者の違いと上下関係を前提にしています。しかし、イエスはどちらも同列の宗教者としてばっさりと一刀両断します。ユダヤ人「正統」礼拝共同体の部外者とされ、差別され貶められていたサマリア教団の一員こそが、苦しむユダヤ人の隣人となったというからです。イエスは、大祭司家とレビ人間の上下も超え、宗教者たちと世俗の者たち間にあるユダヤ人内部の上下も超え、ユダヤ人とサマリア人の間にある上下関係をひっくり返し、「正統/異端」の別を無化しました。

三重の同心円によって人間を序列化している本日の箇所をイエス・キリストという定規・基準に当てはめて考えると、目指すべきバプテスト教会の姿が浮かび上がってきます。

今日の小さな生き方の提案は、全ての人を礼拝の会衆として歓迎することです。また礼拝奉仕の全てを、全ての信徒が担うことができると考えることです。教役者であるかないか、年齢の違い、性別、出身地の別、言語の別、得手不得手、それらは礼拝奉仕にとって何も要件になりえません。ある奉仕をしない自由はありますが、教会が制限する権限はありません。この多様性と水平な関係をよしとする文化をつくることこそが、バプテスト教会が日本社会に対して行いうる貢献です。みな序列化にくたびれさせられています。教会は対抗文化をつくり、それによって癒しを行います。