聖霊を受けなさい ヨハネによる福音書20章19-23節 2014年11月16日礼拝説教 

今日の箇所は、「ヨハネ福音書版ペンテコステ」と呼ばれる部分です。使徒言行録2章に記されている聖霊降臨と教会の誕生が、ヨハネ福音書ではイエスによる息の吹きかけによって描写されています(22節)。ギリシャ語でもヘブライ語でも、息・霊・風は同じ単語です。だからイエスの息は聖霊と同じです。使徒言行録においては、復活の40日後にイエスの昇天があり、その10日後に聖霊降臨があったとされます。それによって弟子たちは「使徒(遣わされた者の意)」となったのでした。十二弟子から十二使徒へ変わった瞬間です。ヨハネは、復活直後に聖霊の吹きかけがあり、イエスによる弟子の派遣があったと言います。そしてイエスの昇天は記載されません(ただし17:13、20:17など「イエスが神のもとに上った」という観念は共有している)。

今までも何度もヨハネによってわたしたちは固定観念を揺さぶられてきました。今回もそうです。ヨハネは使徒言行録と教会暦に挑戦しています。米国時代、「使徒言行録が先に書かれ、その後に四つの福音書が書かれた、それだから福音書(イエスの活動)は四つあるにもかかわらず使徒言行録(教会の活動)は一つしかない」という学説を聞いたことがあります。その説に従えば、ヨハネは使徒言行録とマルコ福音書を知っていて、それに反論しているのです。

ヨハネはイースターとペンテコステの日を同じ日として、この二つは一つの出来事であると主張しています。イエスの復活と同時に教会ができたのだという主張です。それがヨハネ自身の体験した教会の誕生だったからです。また、あたかもイエスが天に昇っていないかのようにあえて昇天記事を記載しません。わたしたちは、ヨハネの言いたいことを最大限に汲み取って、そこから学べることがらを発見したいと思います。結論から言えば、それは「面と向かった交わりが大切だ」ということです。

結論に向かう手掛かりとして創世記を用いたいと思います。著者ヨハネはそもそもの書き出しから創世記1章を意識していました。「はじめに言があった・・・万物は言によって成った」(ヨハ1:1-2)は、「はじめに神が天と地を創った」(創1:1)と重なり合います。「はじめに」の部分は、単語レベルで一致しています。また「わたしはある」(出3:14)という古い神の名前を再発見・再発掘しているように、著者は独特のかたちで旧約聖書を意識して書いています。この箇所は特に創世記2-4章を念頭において書いていると推測します。

神が土から人間を造り、その鼻から息を吹き込んで生けるいのちとした。神は人間を神と向き合う同労者として、互いに向き合う隣人として造った(2章)。人間は神の顔を避けるようになった。神は自由に歩き、人間を捜し出し、語りかける(3章)。人間同士もまた交わりを壊し、共に礼拝できなくなってしまう。神は新しい人間を授け、共に主の名を呼ぶ礼拝を創始する(4章)。

これが創世記2-4章のあらすじです。著者の気持ちになって、このあらすじを頭におきながらヨハネ版ペンテコステ物語を読み直してみましょう。

マグダラのマリアの報告を受けて、弟子たちは(十二弟子に限定されていません。当然マリアらもいたのです。)ユダヤ人権力者を恐れるようになりました。ヨハネ福音書では弟子たちはイエス逮捕の場面で逃げることをしません。ここで初めて恐怖を感じたというのは、おそらくニコデモやアリマタヤのヨセフという議員の弟子を匿っていたからでしょう。だからこの恐怖は、復活のイエスに出会うことへの恐れではありません。20節で、イエスに出会ったことを喜んでいるからです。彼ら/彼女らは、復活のイエスだけが自由に通り抜けられるように、ユダヤ人権力者たちだけを締め出すためにかんぬきをかけていたのではないでしょうか。ここに新しく創りかえられた人間のあり方があります。

エデンの園において「古い人間」は神の自由な歩みを恐れます。神と面と向き合う交わりを避けます。そしてお互いに罪をなすりつけ合い不信感を増幅させます。「新しい人間」は、仲間が告げた信じられないぐらいの良い知らせを信じます。ヨハネが見ないで信じたイエスの復活・マリアが見て信じたイエスの復活という良い知らせを、彼ら/彼女らは信じ始め、体を向き直していました。「霊の体を持つ方は、ここに来てくださる聖霊の神だ」と信じ、神の自由な歩みと語りかけを希望していたのです。風はその意志に従って吹くからです(3:8)。その場には、アリマタヤのヨセフやニコデモに加え、サマリア人女性やヘロデの側近の行政官、陰謀によって殺されかけた女性、目が見えるようになった人やその家族などなど、今までこの福音書に登場した信頼のネットワークに連なるすべての弟子たちがいたことを想像します。

夕方風の吹く頃、神はエデンの園を自由に歩き回ります(創3:8。「歩く」の談話態は再帰:自分自身のために)。神と面と向き合えない人間にも神は自由な意思で出会おうとし、絶望の方角にしか体を向けない人間にも神は語りかけ「あなたはどこにいるのか」と問います。また、自分の弟を殺害したカインに向かって、「あなたの向き合うべき兄弟はどこにいるのか」と問います。

同じように復活のイエスは、夕方風の吹く頃、弟子たちの真ん中に立ちます。十二人の男性に限らずそこにいた全ての弟子と、顔と顔とを合わせます。「あなたがたに平和」と語りかけるイエスは、弟子たちを評価しています。「あるように」は原文にありません。だから、イエスは復活者に会う希望を持ち、主の名を呼ぶ準備を済ませて、体が向き直っている新しい人間たちに、「あなたたちの交わりには平和がすでにある」と褒めたと解しえます。二度語るということは、感嘆の褒め言葉という意味かもしれません(19節・21節)。「兄弟が自分に反感を持っているのを思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を捧げなさい」(マタ5:23-24)というイエスの言葉があります。礼拝前に平和を作り出せという勧めです。そうでなくては、礼拝は偽善行為になるでしょう。礼拝前の平和づくりこそ、カインに求められていた姿勢です。わたしたちが礼拝の早い部分で平和の挨拶を交わす根拠です。

だからこの平和な交わりを見て、「わたしが神に遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わす」と、イエスは安んじて言うことができたのです。互いに愛し合い・仕え合う信頼のネットワークをつくりなさいという命令です。

そして、イエスは弟子たちの鼻にいのちの息を吹き込みます。きわめて自然な形で、ただ呼吸をするだけで弟子たちは、復活者の持つ永遠のいのちを与えられました。ここにはバプテスマがありません。救いの出来事が先にあり、儀式としてのバプテスマは色々な意味で後にあるのです。復活のイエスに会う喜び、これが救いです。その時自然に、まさに空気のように、わたしたちは聖霊を吸い込みます。この喜びが人を生けるいのちにします。礼拝は復活のイエスと面と向き合う喜ばしい出会いです。

使徒言行録ではイエスが昇天しているので距離が感じられます。また炎の舌が降るという超常現象が、わたしたちの日常との距離を設けています。ヨハネの描くイースター・ペンテコステは、神と人・人と人の顔と顔とを合わせ、人格的に向き合う交わりです。その近さが特徴です。これこそ、永遠の命をもたらす「霊と真の礼拝」です(4:24)。こういう礼拝を目指したいものです。

23節の言葉をどのように理解すべきでしょうか。新共同訳の解釈では、教会はイエスに成り代わり、人間の原罪を赦すことも、人間の原罪を断罪することもできる宗教的権威になりえます。それで良いのか。教会が行う儀式が人間の根源的に的はずれな倒錯を正すことができるのでしょうか。プロテスタント教会は、そこに対して「否」と言って始まったのでした。イエス・キリストのみが唯一のサクラメント(人を救うことができるもの)です。キリストだけが、わたしたちの世界全体を救い、根源的な倒錯を持つわたしたちを丸ごと肯定し、わたしたちの倒錯を正すことができるのです。わたしたちは、もう一度自分たちの頭でこの聖句を考え直し、解釈をし直す必要があります。

直訳はこうです。「あなたたちが誰かの罪(複数)をそのままにするならば、それらはその人たちにそのままになる。あなたたちが誰かをつかまえるならば、その人たちはつかまえられた」(田川訳も参照)。奇妙な文であることがお分かりでしょう。前半が罪の話をしながら、後半は人の話をしています。末尾だけが完了時制なのも変です。日本語に訳す際に、付け加えたり、構文を整えたりしなければ、意味をなしません。つまり滑らかな日本語である新共同訳には、かなりの解釈が施されているということです。

まずはっきりしていることは、ここでは罪が複数形なのでいわゆる「原罪」という根源的な倒錯を意味しないということです。ここでは一つ二つと数えられる悪行が問題となっています。不特定多数の人が行う具体的な諸々の悪をそのまま放置するならば、その人にとって悪が残ったままになるということです。これは世界の現実を現しています。悪を見抜く人が沈黙しているならば、悪は放置されるのです。かつてキング牧師が「悪人の差別だけではなく善人の沈黙も問題だ」と喝破したとおりです。だから前半部分は、細かい悪事を一々告発すべきだという勧めです。悪事に焦点があります。神がアダム・エバ・カインの悪事を告発したことと重なります(創3-4章)。

では後半の言葉「あなたたちが誰かをつかまえるならば、その人たちはつかまえられた」はどうでしょうか。末尾の完了時制はヘブライ語の癖で語られたものでしょう。ヘブライ語には現在・過去・未来などの時制はありません。言い切るかたちの完了か、言い切らないかたちの未完了かしかありません。未来のことでさえも完了で言い切れるのです。話者の強調を読み取るべきです。

「つかまえる(クラテオー)」は、イエスの癒しの業(マコ1:31、9:27)、特に復活の奇跡の際に使われる動詞です(同5:41)。イエスは手をつかまえて、優しく倒れている人を起こし、よみがえらせたのでした。だから後半もこの世界の現実を示しています。世界で小さくされている人が大勢困り果て倒れているからです。その人々の手をとる癒しの業が勧められています。この場合、人に焦点があります。神が人を手作りされたことも重なります(創2章)。

弟子たちは復活のイエスの言葉を聞いて、イエスが細かい悪事を一々告発してきたことを思い出しました。また、イエスが困り果てている一人ひとりに手を差し伸べ、手を置き、手をとって立ち上がらせてきたことを思い出しました。みんなそのようなかたちで信頼のネットワークに連なったのですから、自分の身に起こったことを思い出したのです。聖霊を吸い込むと、裁判の場面でさえ「悪いことは悪い」と堂々と言える勇気が与えられます。聖霊を吸い込むと、倒れている人を隣人とみなす共感が与えられます。

悪事をそのままにしないことに教会の仕事があります(反原発等)。同時にさまざまな理由で倒れている人を癒すことに教会の仕事があります(脱被ばく等)。平和がある教会にそれができます。世界に平和を作り出し、愛の交わりに入るように世界に呼びかけることができます。これからも、復活して霊の体を持つイエスと面と向き合い、隣人と向き合い仕え合う、聖霊を吸い込む礼拝を中心とした交わりをつくっていきましょう。