預言者ミカはイザヤと同時代人の南王国の人です。それだから預言の内容に共通点が多くあります。本日の箇所もその一つです。4章1-3節は、イザヤ書2章2-4節とほぼ同じです。ミカ本位で考えるならば、ミカの預言をイザヤ(またはイザヤの弟子)が、イザヤ書に加えたのでしょう。
その一方でイザヤとミカの出自は対照的です。祭司貴族イザヤは首都エルサレムで王の顧問として政治権力を持っていました。ミカはモレシェトという農村出身の農民です(1章1節)。アモスと同じく、職業的な預言者ではありません。アッシリア帝国が南ユダ王国の町々を占領した時に、ミカの故郷モレシェトの村も占領され、ペリシテ人に譲り渡されました(紀元前705年ごろ)。ミカは戦争難民です。彼はこの時エルサレムへと移住します。アッシリア軍はエルサレムを包囲します(列王記下18章13節以下)。紀元前701年のことです。イザヤは宮廷で王の顧問として「アッシリアを恐れずただ主に頼れ」と助言します。非武装中立です。しかしこの政策は採られませんでした。
モレシェトの農村でも「お前たちの鋤を剣に、鎌を槍に打ち直せ。弱い者も、わたしは勇者だと言え」(ヨエル書4章10節)という宮廷からの呼びかけが響きました。ミカは収穫の前に泣く泣く農具を兵器に変えさせられた農民の一人でした。その結果は、故郷を失うことでした。ミカはエルサレムの町に上り、ぐるりと包囲しているアッシリアの大軍を透き通った目で見渡しています。多くの属国を従えて、もろもろの民が大河のように上ってきています。「これが巡礼・礼拝であれば良いのに」とミカは夢想します。
農民預言者ミカは、戦争のただ中で、戦争の反対語を思い浮かべます。戦争を不可能にする方法を夢想します。3節前半までは完了視座で語られています。未来に対する強い確信を示す表現です。
3 そして彼は多くの諸民の間を裁いた。そして彼は遠くまで強い諸国のために裁定を下した。そして彼らは彼らの諸々の剣(を)諸々の鋤に打ち直した。そして彼らの諸々の槍(を)諸々の鎌に(打ち直した)。国は国に向かって剣を上げない。そして彼らは二度と戦争(を)学ばない。
対立する民と民同士が自分たちで判断すると戦争が起こりやすいものです。特に強い国ほど、自分の判断を押し付けがちです。神が裁定するという構えは、人間は戦争を始める判断をしないということです。戦争を始めるという判断は常に誤っているからです。ミカは、他国について勝手に「ならず者国家」「悪の枢軸」などと決めつけるなと言っています。北朝鮮が飛翔体を打ち上げ続けている今こそ、Jアラートに踊らされてはいけません。冷静になることで戦争は食い止まります。
「アッシリア軍の持っている剣や槍の穂先を鋤や鎌にしたい。その鋤や鎌をもって、早くモレシェトの村で収穫をしたい。」農民ミカの素朴な願いです。戦争のために金属を国家が集めるのではなくて、農業のために金属を国家が配るのです。武器がなくなれば、戦争はなくなります。
3節後半は未完了視座です。振り上げる剣が無くなれば、戦争というものは存在しなくなるでしょう。そうなれば戦争というものを学ぶこと、真似ること、研究することは意味がなくなります。未完の期待がここにあります。
現代のわたしたちの世界において、国際連合憲章はいまだに「自衛のための戦争」を合法としています。いまだに武器の製造や、武器の売買、武器の保持を禁じる国際法はありません。軍事同盟を禁じる国際法もありません。自衛の名によって、ロシアがウクライナに侵略戦争を始めて、ウクライナが徹底抗戦を続けています。さまざまなものが値上げして、わたしたちは初めてウクライナという国の位置や、「世界の穀倉」だったこと、その歴史などを身に染みて知るようになりました。
農民預言者ミカが今ここにいたら、わたしたちに何と言うのでしょうか。4節以降はイザヤ書には無いミカ本来の主張です。
4 そして各人は彼の葡萄の木の下と彼の無花果の木の下とに座る。そして脅かすものは無い。なぜなら、ヤハウェ・ツェバオートの口が語ったからだ。
戦争の反対語は何でしょうか。各人が、葡萄の木の下や、無花果の木の下に座ることだとミカは言います。それは安らぐことができる好きな木の下を選んで、好きなように休む姿です。トウゴマの木の下で休んだヨナという預言者もいました。木の下は日陰になります。その一方で木の下は屋外であり無防備な場所でもあります。野獣等が自分を脅かすのであれば、木の下では休めません。つまり他の被造物との共生共存が、この場面の大前提となっています。戦争の反対語は被造世界の調和です。戦争が最大の公害だからです。また、戦争の反対語は個人が任意に休むことです。
「座る」という言葉は、「住む」とも訳せます。同じヤシャブという動詞です。これは人間の暮らし方のたとえなのです。国や民という括り方に重きをおいて、国を守るために(国家主義)、民族の誇りのために(民族主義)、個人を犠牲にする生き方が良いのか。それとも「各人」という単位で、個人の自由意思を尊重して自らが属する組織でさえも客観視できる生き方が幸いなのか。ミカは「各人」という単語をここで「民」「国」の反対語として用いています。戦争の反対語は個人主義です。すべての戦争は政府の行為による国家の行いだからです。国家的動員なしに戦争は遂行できません。
「ヤハウェ・ツェバオート」は神の固有名詞です。「万軍の主」とも訳されます。ツェバオートは「軍」の複数形です。旧約聖書は、神ヤハウェが元来は軍神であったことを証言しています。「ヤハウェの箱」というものが登場すると、そこに座している軍神ヤハウェがイスラエルを戦闘に勝利させると考えられていたからです(サムエル記上4章ほか)。ヤハウェ・ツェバオートという名前は、その名残です。
軍神ヤハウェが、ここでは武器を用いず言論を用います。「口が語った」とある通りです。ヤハウェという神は、ここで自ら武装解除しています。ノアの洪水物語の最終盤でも、神は「弓」(ケシェト)を雲に置いて「虹」(ケシェト)として、二度と世界を滅ぼさないと誓います(創世記9章13節)。神もまた二度と剣を上げず二度と戦いを学びません。世界に対して武力をもって威嚇し脅かしません。言葉や理をもってわたしたちを励まし慰めます。それがわたしたちに与えられた神の子イエス・キリスト、ロゴス(言葉/理)です。「なぜなら」とあるので、言葉こそが平和の根拠です。言論による解決が戦争の反対語です。すべて戦争は言論による外交の失敗によって始まるからです。
5 実に、その諸民の全ては各々彼の神々の名前において歩む。そして私たちは私たちの神ヤハウェの名前において歩む、永遠に(終わり)まで。
しばしば唯一神教は排他的で好戦的だと批判されます。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教のせいで世界に戦争が絶えないのだというのです。乱暴な言い方だと思います。現在のウクライナ戦争にもあてはまらないでしょう。何でもかんでも日本由来ではない宗教のせいにすることによって溜飲を下げても、結局のところ戦争を止める力になりません。むしろ戦争の反対語を拾い集める方が有効です。
本日の箇所は、旧約聖書の示す「唯一神教」というものが排他的ではないことを示しています。ミカは、他の民が他の神々を礼拝することを許容しています。つまり信教の自由が個々人にあるということです。「他宗教の存在を許容する、ゆるやかな唯一神教」、または「他宗教について無関心で、信徒の他神礼拝のみを禁じる専一神教」がミカの立場です。
5節の「その諸民」には冠詞がついているので、3節の「多くの諸民」を指しています。さかのぼって1節の「諸民」のことでもあります。エルサレムに連合して軍を派遣している国々や、相互に戦争をしかねない国々のことです。それぞれの国・民は、それぞれの神々の名前において歩んでいます。神々の名前を呼び、神々を礼拝し、崇拝し、毎日を過ごしています。「歩む」ということは、日常生活を暮らしているという意味です。そのような仕方で現に生活を営んでいることをミカは否定しません。「他の民が拝んでいる神像は神ではない」などと言いません。それぞれの内心/思想/信教は自由だからです。
戦争の反対語は心の自由です。多様な信念を認め合うことです。勝手に相手を意味づけないことです。たとえば「唯一神教が戦争の元凶」のように。戦争は画一化を志向します。戦争を遂行する国家は、一つの信念を多様な心に押し付け、他人の信条/心情を否定します。アッシリアによって統合されている諸民が、山を下りて散らばっておのおのの土地でそれぞれの神を礼拝すれば良いとミカは考えています。戦争の反対語は多様性の承認です。
5節においては「私たちの神ヤハウェの名前」としており、ヤハウェ・ツェバオートという名前を使いません。「万軍の」「諸々の軍勢の」という性格を棄てた、生のヤハウェという名前こそ、わたしたちの神の名前です。礼拝において呼ばれ、崇められ賛美される名前はヤハウェです。このヤハウェがギリシャ語訳聖書においてキュリオス(「主」の意)と翻訳され、キリスト信徒によって「イエスがキュリオス(主)」と告白された「私たちの神」です。ヤハウェという神の名において歩むということはどういうことなのでしょうか。
ヤハウェは「彼は生起させる」という意味です。名は体を表します。無から有を生じさせる神。死から生に転じさせる神。奴隷を自由に解放する神。倒れている者を起こす神。躓く者を助ける神。よろめく者をまっすぐにする神。病む者を癒す神。軽蔑されている者を尊重する神。罪びとを贖う神。くすぶっている者に火をつける神。孤独な者の隣人になる神。晴天と雨天を与え、収穫を与える神。飢えている者にパンを与える神。裸の者に服を与える神。
殺す方ではなく生かす方、生命そのものであって、共に歩むわたしたちに生命を永遠に至るまで与え続ける方。それが聖書の示すヤハウェの神です。戦争の反対語は生命です。なぜなら戦争とは端的に殺す行為だからです。戦争は生命を愛することによって止まります。
今日の小さな生き方の提案は、戦争の反対語をヒントにして、ヤハウェの名前において生きること、生命を愛して生活するということです。人間の編み出した技術で軍事転用されなかったものはありません。わたしたちの考え方の根本が、他の生命を活かす方向ではなく殺す方向に向かっています。それが罪の本質です。神の中にすっぽりと入ってみてはどうでしょう。それは、神を信じ神の名を呼び毎週礼拝するという生き方に加わるということです。「わたしは道である」と言われる方の中で歩むことは、無理のない方向転換です。キリストという道の中で躓こうが迷おうが逸れようが、いずれにしろ道は生命の方向に向かっています。どこにいても神と隣人が共にいることになります。キリストの道を歩むと寛容さ・愛が身につきます。主に寛容に扱われて自由を得ているので、すべての生命に対しても寛容になれるのです。