「一行は歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった」(38節)。この一文は、少し奇妙です。今までは全員で旅をしている体裁を取っていたのに、ここではイエスだけが一人で「ある村」に入っているからです。イエスの一行の人数は、大人の男性だけで72人+12人+イエス本人=85人以上いたはずです(17節)。もし大人の女性たちを単純に倍するなら170人ほどの群衆です(8章1-3節)。さらに子どもも数え合わせると200人以上いたかもしれません(9章42節)。この大勢の人々を置いてイエスは一人で抜けたということになります。たった二人の人に会うために、イエスは200人以上の人々をそこに置き去りにします。ここには99匹の羊を野原に残して、見失った一匹の羊を見つけ出すまで探す羊飼いの姿があります(15章1-7節)。
さて、この「ある村」は明らかにベタニア村です。なぜならヨハネ福音書でマルタ・マリア・ラザロの姉弟がベタニア村に住んでいたことが明記されているからです(ヨハネ福音書11-12章)。もし、「隣人の問答」がエリコとエルサレムの間でなされたとすれば、日帰りで一人だけ抜けることは可能な距離です。ベタニア村は、エリコとエルサレムの間にあたるからです。この場面は登場人物が三人しかいません。イエスと姉マルタと妹マリアです。そして三人は小さな村の小さな家の一部屋にいます。先週と打って変わって、そういう静かな場面であることを意識する必要があります。
ベタニア村のマルタとマリアの姉妹は、この時イエスと初めて出会ったのでしょう。イエスは十二人の弟子たちと七十二人の弟子たちを派遣した9章・10章で派遣していました。その時、弟子たちに一軒一軒を訪問することを命じていました。「平和があるように」と言いながら訪問することを、イエスは弟子たちに命じていました。そのように自分自身もマルタ・マリアの家を訪問した時に言ったのでしょう。すると、マルタは即座にイエスを迎え入れました(9章5節・10章8節)。彼女たちは弟子となったのです。
イエスは早速、神の国の福音を二人の女性に話し始めました。最初に話を聞き始めたのは当然責任もって迎え入れた姉のマルタでした。その後、最初から家の中に居たマリアも話を聞くことになります。そして話を聞いているうちに、マルタ、マリアの順番で弟子となったのでしょう。
今日のマルタとマリアの物語のギリシャ語本文は、非常に異読が多い箇所です。さまざまな写本がさまざまに異なった表現で、この小さな物語を彩っています。その中で、非常に重要な写本は、「マリアは主の足もとに座って」(39節)を、「マリアもまた主の足もとに座って」としています。こちらの本文の立場を採ると、マルタが先にイエスの足もとで教えを聞き、その後にマリアもまたイエスの足もとで教えを聞いたということになります。だから、先にマルタが弟子になり、少し遅れてマリアもイエスの弟子になったと推測できます。
しばしば二者択一的に、対照的な二人の女性のタイプのように言われますが、そこまではっきりと分かれているわけではありません。お話を聞く静かなマリアと忙しく立ち働く能動的なマルタという単純化は、二人に対して失礼でしょう。マルタが先に静かに話を聞き、それを真似てマリアもまたイエスの足もとに座って、教えに聞き入ったということが素直な物語の流れです。
さてマルタは次に何をしたのでしょうか。40節の新共同訳は、いささか先入観が入り込んだ解釈/翻訳です。「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」のでしょうか。マリアだけが座って話を聞いていると思い込むから、このように翻訳してしまうのでしょう。同じ文は直訳調にすると以下のようにも翻訳できます。「さて、マルタは多くの奉仕で忙しかった。しかし彼女は傍に立って言った」。「立って」という翻訳は田川建三も採っています。もし、この時はじめて立ったのならば、マルタは立ち働いていたのではなくその時点まで座っていたのです。
「女性が忙しい場合は食事の支度である」という先入観が、今日でもわたしたちには強くあります。それだから、「奉仕」(ギリシャ語ディアコニア)という重要な単語を、女性が主語の場合には「もてなし」と翻訳しがちなのです。同じ現象をわたしたちはペトロの妻の母親の際にもすでに見ています(4章39節)。「多くの奉仕」を「いろいろのもてなし」と考えると、忙しさの内容がさまざまな料理を作るためにばたばたと立ち働くイメージとなってしまいます。この物語に「食卓」も「食べ物」も出てこないのに、わたしたちはマルタと料理を結びつけがちです。弟ラザロが台所に居た可能性は考えません。
マルタが座りながら行う多くの奉仕の可能性があるならば、もてなしのみに立ち働くというイメージが砕かれるはずです。かわいそうにマルタは2000年間このイメージのまま固められ冷凍保存されています。今日、マルタを解放してあげなくてはいけないでしょう。
多くの奉仕はありえます。たとえばイエスの今までの活動報告を聞くことです。これからの行動計画を聞かなくてはなりません。当然質疑応答が必要です。そして自らの町での計画を練り直し、段取りを整えなくてはなりません。自分の家を拠点として改装する打ち合わせも必要です。マリアとも話し合いが必要です。さらに村の中の協力者候補を挙げることです。これもマリアと話し合う必要があります。
イエスはベタニア村で神の国運動を開始しようとしています。二人の姉妹は弟子となり、ペトロの妻の家のように自分たちの自宅を拠点として差し出しました。ここから悪霊祓い・癒し・神の国の宣教が始まります。自分たちにこれから何ができるのか、どのようになすべきなのか、具体的に話し合うことが重要な奉仕となります。200人以上の弟子たちが宿泊のために来るときにどうすれば良いか。一軒では対処できません。村をどのように巻き込むべきか、良い考えを探るために話し合うべきでしょう。マルタは実にバプテスト的なのです。
おそらくイエスの話の途中でマルタはメモを取りながら、話し合いに移ろうと何回もしていたのではないでしょうか。質問も何回もしていたのではないでしょうか。また、マリアに対しても意見聴取をしていたのではないでしょうか。それに対してマリアは、話し合いを阻止して、イエスの話しを聞くことだけに集中しようとしたのではないでしょうか。
そこでマルタは立ち上がって、イエスに言いました。「わたしの妹はわたしだけに奉仕をさせています。何とも思わないのですか。共に奉仕をするようにと言ってください」(40節)。
イエスは答えます。「マルタ、マルタ、あなたは多くのこと(40節「いろいろの」と同単語)に心を配り、混乱している。しかし必要なことは一つだけだ」(41節)。イエスの答えは、問題の所在を説明しています。会議か/傾聴かという二者択一が問題ではありません。多か/一かが、真の問題です。多くの事柄に心を配ることではなく、一つの事柄に集中することが大切だと言っているのです。その一つは、多くの中に含まれているものでもあります。マルタもマリアも同じようにイエスの話を聞いているからです。問題は同じように話を聞きながら、別の事柄までも先読みして論じて、話を聞くことに集中できないこと、そして他人が集中していることを邪魔してしまうことです。
マルタからすれば「妹は自分だけに多くの奉仕をさせている」と思えますが、マリアからすれば「姉はわたしが一つの聞くという奉仕に集中するのを、あれこれと口を挟んで邪魔をしている」と言いたいことでしょう。マリアの話を聞く権利を尊重し保障するべきだとイエスは諭します。
「なぜならマリアは良い取り分を選んだからだ。そしてそれは彼女から取り上げられてはならない」(41節)。この場合の選ぶという行為は、多くの皿が並んでいて、その中からお気に入りの皿を採るという意味合いです。ここでも多と一が問題となっています。二つしかないうちの「良い方」の一つを選び、同時に「悪い方」の一つを棄てるのではありません。この考え方ではマルタはその生き方を完全に否定されてしまいます。二者択一ではなく、多くある選択肢の中からあえて一つに集中していくことの大切さが、「良い取り分(単数)」に表されています。そしてそれは、その時のマリアにとっての良い取り分であって、この一事例を矮小化して当てはめる必要はまったくありません。
例えば、「教会の中で最も重要な奉仕は牧師の説教を聞くことなのだ」という矮小化をする必要はありません。もちろん、教会の活動の中で最重要なものは礼拝です。礼拝の無い教会はありません。だから、礼拝の一要素である説教ではなく、礼拝全体に集中することが最重要の奉仕です。マリアの例を自分の支配欲のために、説教者は濫用してはいけません。
もっと広く捉えて、多くの事柄を同時にするべきではないという教えが重要です。礼拝をしながら他の奉仕をするということがダメな例でしょう。いくつものしなくてはならないことに心を配ることは、結局すべてのことに不誠実になりかねません。一つの行為に誠実に集中することが大切ですし、その一つの行為を正直に自分自身で選ぶことが大切です。さらに、過去のことや未来のことに心を配るのでもなく、「今・ここで」という集中も大切です。マルタは過去から未来まで論じたかったわけですが、今をおろそかにしてしまったわけです。それは今を大切にしたい隣人をないがしろにすることにもなりました。マルタは自覚的に一つに集中するようにと生き方の変更を迫られました。
さて、イエスの言葉はマリアに対してはどのように響いたのでしょうか。おそらく、「マリアは良い取り分を選んだ」というほめ言葉は、マリアにとっても意外であったように思えます。
この世界の基準で言えば、気が利く姉マルタは評価が高いでしょう。不器用な妹は、この世の基準では行動の選択が劣っている人です。姉の真似をしようとしているようにも見えるので(前述「マリアもまた」)、余計にマリアは劣等感を持っていたように思えます。多くの場合マリアは、「いくつも同時に気がつかないし、器用にできないので仕方なく一つしかできなかった」のでしょう。しかしイエスは、「あなたは一つしかできないのではなく、一つを多くの中から選んだのだ」と評価しました。この視点が福音です。マリアに「多から一を選んだ」という自覚があったかどうかは不明です。重要なのはイエスの目にはそのように映るということです。人は言われたように成るものです。マリアは自分の行動に自信をもって生活するようになったことでしょう。マリアは胸を張って生きるように生き方の変更を迫られました。
今日の小さな生き方の提案は、自分にとって良い取り分を多くの中から自覚的に選ぶということです。その際に他人の選びには口を挟まないものです。しばしば優先順位を付けろと言いますが面倒です。一番だけ選ぶことなら日常でも実行しやすいものです。この日の一番、今の一番を多くの中から選ぶ癖をつけましょう。それが逆に多くの人や事に誠実に生きることになります。イエスが一軒の家への訪問に集中したことはすべての弟子への教えとなったからです。