今日の箇所は、マルコ福音書と比べるとかなり異なっています。元々のマルコ福音書に、ルカがかなり手を入れているということです。このような箇所はルカ自身の主張を知るために有益です。どのような改変がなされているかを確認してみましょう。
マルコ福音書1章14-15節。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」非常に有名な箇所です。その直後に四人の漁師を弟子にする記事が続きます。
ルカはこの素材を、かなり自由に編集しています。まず、「ヨハネが捕らえられた後」という部分は、3章20節で既に語ります。ヨハネの活動休止/停滞と、イエスの活動開始は無関係であると印象づけます(マタイ4章12節参照)。
ガリラヤに行ったことは共有していますが、非常に評判が良かったことと、ユダヤ人たちの会堂を拠点に聖書の解説をしたことが付け加わります。元々のマルコの文章も、イエスが言葉を発したことを報告しています。しかし、それは聖書の解説というよりも、自分の考えを公に述べる宣言であり(時は満ちた・神の国は近づいた)、聴衆への命令です(悔い改めなさい・福音を信じなさい)。会堂の集まる人だけに行った解説でもなく、街角で不特定の人に叫んでいるような印象です。だからこそ、直後の野外に居た四人の漁師を弟子にする記事と、馴染みやすいものです。ルカ福音書では四人の漁師を弟子にする物語は、5章まで後ろに引きのばされます。4章は、屋内の会堂で教えるという活動を基本にしていることが特徴的です。
確かにイエスが会堂でも活動をしたのは歴史の事実です。しかし、活動の最初にこんなにも諸会堂で教えているのはルカだけです(15・16・31・44節)。なぜでしょうか。このことは使徒言行録(ルカ福音書の続編)との関係で説明できます。使徒パウロの「第一回伝道旅行」における活動の拠点が、地中海世界に散らばるユダヤ人の会堂だったからです(使徒13章5節)。
キリスト教はユダヤ人の伝統から生まれました。イエスはユダヤ教徒であり、毎週の会堂での安息日礼拝に通っていました。聖書朗読奉仕当番にも加わっていたようです(ルカ4章16節)。実際キリスト教会はユダヤ教内の「ナザレ派」と呼ばれていたのです。パウロがキリスト信仰を布教していた時にも、ナザレ派という扱いです。だからこそ、寛容な会堂長は、ユダヤ教の枠内の聖書解説を期待して、パウロに会堂の中で発言を許したわけです(使徒13章15節)。なお、パウロの聖書解説によって、聴衆は二分され、その会堂で分裂が起こります(同42節以降)。このことも、ルカ4章22節以降の事態と対応しています。この「イエスが故郷ナザレで受け入れられなかったという逸話」を、福音宣教の始めに位置づけているのはルカだけです(マルコ6章1-6節、マタイ13章53-58節)。
著者ルカは、イエスとパウロの経験は重なり合うし同質のものであると言いたいのです。「福音宣教はユダヤ人の会堂での聖書解説から生まれ、会堂から分派したのがキリスト教会である。同じ聖書を共有しているけれども、解釈によって分派が起こった。それはイエスに遡る現象なのだ」とルカは主張しています。
会堂で聖書を解説することは、分裂・分派の基になるという皮肉な事実がここにあぶり出されています。宗教団体や信者は、しばしば自己絶対化に陥り、己の聖書解釈のみを唯一正しいと考えがちです。経典を正しいと信じるために、己の経典の解釈を正しいと勘違いしやすいのです。正しい者同士がぶつかると妥協の余地が少ないので深刻なけんかになりがちです。
こうして聖書信仰は、分派を続けながら全世界に散らばり今に至っています。感情的なけんかは避けるべきですが、長い目で見ると分派・分裂は悪いことでもなさそうです。バベルの塔の事件で散らされたおかげで、人類に多様性が生まれたという不思議な導きと似ています。論敵をけなさずに、互いに距離を保って尊重する限りで、分派・分裂は悪くない。聖書という正典を扱う限りにおいて、わたしたちはそのことを覚悟したほうが安全のように思えます。
いずれにせよ、ルカ4章17-21節のイエスの聖書朗読とその解説は、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」という宣言・命令を、ルカなりに説明したものです。マタイはマルコ1章14-15節を素直に踏襲していますが(マタイ4章17節)、ルカはすっぽり抜かしています。それは、今日の箇所がマルコ1章14-15節の代わりになるということを示しています。「時が満ちた・神の国が近づいた」という事態は何であるのか、「悔い改めなさい・福音を信じなさい」とは何をする命令なのか、イザヤ書61章1-2節(ルカ4章18-19節で引用されている文章の出典)を通して考えたら良いと、ルカは提案しています。
興味深い提案です。マルコ福音書を前にして、ルカはイザヤ書を引っ張ってきて(ルカの目の前にギリシャ語訳旧約聖書もあった)、「マルコ1章14-15節はイザヤ書61章1-2節に似ている」と考えたのでした。わたしたちはルカの提案を尊重して、ルカ版のイエスの言葉に耳を傾けたいと思います。
マルコの「時は満ちた」という表現は、ルカ4章21節に対応しています。直訳は「書かれていることが今日あなたたちの耳の中で満ちた」です。イザヤ書61章1-2節に書かれている出来事が、今起こっている。多くの者たちが何百年も待っていたメシアが、今会堂の中に居るというのです。メシアとは油注がれた者・神から任命され派遣された救い主という意味の言葉です。
メシアが聖書を読み、その言葉を座ってみんなで聞いている状況は、神の国が近づいている様子と同じです。もし、その言葉をそのまま全員が行うならば、神の国はそのまま実現し、神の国はその人々の只中にあります。神の意志が地上で完全に実現するならば、そこは完成された神の国です。逆から言えば、会堂での礼拝では神の国は完全には実現しません。
未完成とは言え礼拝で良い知らせを聞くことは、かなりの満足を会衆にもたらします。神の国が近づいているというのは、「かなり近くまで来ている」「相当程度実現している」ということでもあります。キリストご自身が語るような内容を持っているならば、礼拝での説教は人を幸せにするし、礼拝は満ち足りたものに近づくでしょう。キリストご自身が語る内容とは、「神はあなたを受け入れている」というものです。無条件の赦し/肯定/愛です。
19節「恵み」と訳されていますが、直訳は「喜ばれている/受け入れられる」です。「神があなたを今この時受け入れている」という言葉が、良い知らせ・福音です。マルコのイエスは、この「福音を信じなさい」と命じました。ルカのイエスは、「この福音が語られる礼拝を常に行いなさい。そうすればすべての会衆が福音を耳にすることができる」と促しています。
ルカは名詞「福音」(エウアンゲリオン)を極端に嫌います。むしろ、動詞「福音を告げ知らせる」(エウアンゲリゾマイ)を多用します。ルカは、福音というものを真空パックにして持ち運べるものとは考えていません。固定的真理ではなく、福音はもっと動的なものです。ふらっと礼拝に立ち寄った一人の人が、「わたしは神に受け入れられている」と感じることができるような言葉が、キリストご自身が語る福音です。それは、祈りの言葉かもしれないし、賛美歌の歌詞かも、また、たまたま開いた聖書の箇所かもしれません。福音を信じるということは、キリスト教教理を信じるということではなく、生きて働く神の言葉を信じるということです。
神の言葉に触れることは個人の魂に安らぎを与えますが―――そして、その限りでその人にとって「時は満ちた」のですが―――しかし未だ神の国は実現していません。近づいただけです。完全な神の国の実現のためには、悔い改めが必要です。悔い改めということは生き方の転換です。回れ右をして、別の方角へと歩み出すことです。そのためにはわたしたちは、この福音の宛名に注目すべきです。一体誰に向けて良い知らせは発せられているのでしょうか。
「貧しい人」に福音を告げ知らせるために、メシアは派遣されました。「捕らわれている人」、「目の見えない人」、「圧迫されている人(粉砕されている人)」こそが、福音を聞くべき人です。社会の片隅に置かれ、肩身の狭い思いをさせられ、小さくさせられている人こそが、「あなたは神に受け入れられ喜ばれている存在である」と、真っ先に聞くべきです。
礼拝をかたちづくる会衆の中には、比較的富んでいる人も貧しい人もいます。初代教会の時代から、奴隷も自由人もいました。そのひとりひとりに悔い改めが起こらなくてはいけません。貧しい人は、自己卑下に悩まされています。自分の責任ではない苦労を自分のせいと思わされ、自分を「神の似姿」と信じられなくなっています。あなたもアブラハムの息子/娘、神の子だと告げられ、そのように方向転換しなくてはいけません。他人から所有され、支配されること、「奴隷の自由」から脱却しなくてはいけないのです。悔い改めは、低いところを高めて平らにする行為です。
富んでいる人は礼拝で神に受け入れられたことを体験し、さまざまな人との平等な交わりを体験し、会堂から出て行って格差を縮める生き方へと方向転換をしなくてはいけません。自分の身の回りの不公正に敏感になり、自分のできる親切を小さくてもするのです。悔い改めの実を結んで格差を小さくしようとしなくては、神の国は決して実現しません。所有欲と支配欲という誘惑に打ち勝つ努力が必要です。悔い改めは、高いところを低くして平らにする行為です。
ルカは貧富の格差の問題に、全般的に関心が高い福音書です。そのことはそのまま格差社会である現代日本にあてはめることができます。
しかしその一方で現代社会は、複雑な仕組みでもあります。ある面で強者がある面で弱者となることもありえます。また、古代は大多数が貧しい社会ですが、それに比べて現代は分厚い中間層が存在します。だから、単純に当てはめるだけではなく、複雑に当てはめる必要もあります。たとえば健常者であるという点で強者であっても、女性であるという点で弱者。有色人種であるという点で弱者であっても、日本人であるという点でアイヌ民族より強者。さまざまな座標軸がありえます。しかし基本は簡単です。貶められやすい場面では尊厳を保ち、うぬぼれやすい場面では謙虚になる、その都度の悔い改めを行うということに尽きます。それによって「力の濫用」がとどまるからです。
こうして礼拝によって近づいた神の国が、礼拝以外の日常生活において実現し、広がっていきます。福音を聞き神に受け入れられた人々が、悔い改めの実を結ぶことで、平らでまっすぐな道が用意されます。
今日の小さな生き方の提案は、安息日ごとに聖書を中心にした礼拝をし、安息日以外の日々、細かい場面ごとに力関係を敏感に意識し、胸を張ったり腰を屈めたりしましょうということです。そこに神の国があります。