若者は幻を見 使徒言行録2章14-21節 2020年10月4日礼拝説教

14 そこでペトロが十一人と共に立って、彼は彼の声を上げた。そして彼は彼らに布告した。「ユダヤの人々よ、そして、エルサレムに住んでいる全ての人たちよ。これはあなたたちのために知られるべきである。そしてあなたたちは私の言葉に耳を傾けよ。 15 というのも、あなたたちが想像しているように、この人々は酒に酔っ払っているのではないのだから。というのも、昼の三時なのだから。 16 むしろこれは、預言者ヨエルを通して言われていることだ。

 宿屋に面する道路に大勢の人が集まりました。それはユダヤ人も含め、さまざまな国や地域の人々で、エルサレムに住んでいる人たちでした(14節)。この言い方からも、ペンテコステの出来事に立ち会った人々が、外国に住んでいたユダヤ人ではなく、エルサレムに住んでいた外国人であることが分かります。おそらく三千人以上の人々が不思議な出来事を体験しています。百二十人ほどのガリラヤ人たちの賛美や信仰告白が、同時にそれぞれの母語で聞こえるのです。宿屋の主人もびっくりしたでしょう。なぜなら宿屋としては死刑囚の弟子たちを匿っているつもりだったからです。なるべく目立たないように潜伏することが常道です。逮捕され十字架で殺されるかもしれないからです。

 この時、ペトロたちには勇気が与えられていました。聖霊が与えたものは不思議な言葉を話す能力だけではありません。イエス・キリストの十字架と復活を証言する勇気です。外への窓を開けることです。山の上にある町は隠れることができません。教会の礼拝は世界に開かれたものです。説教は世界への布告です。お寺の掲示板もそうですが、わたしたちの教会の礼拝説教もウエブサイトに掲載しています。誰が見ても良い、教会員だけのものではないのです。

 一般に当時のユダヤ教の会堂での礼拝では話をする者が座っていました。ペトロやその他の十一使徒たちは自分たちの習慣を捨てて、立ち上がって演説を開始しています。なぜなら集まってきた人々がユダヤ人だけではなく、むしろ外国人が多かったからでしょう。立って演説をするのはギリシャ文化では当たり前だったようです。諸外国人の前では諸外国人のように、教会は最初から国際的でした。すべての人に通用する良い言葉は、すべての人が耳を傾けてくれるやり方で伝えられるべきです。

 ペトロは自分たちへの非難(新酒の飲みすぎ)を聞いていたようです(15節)。ということは百二十人と三千人とはそんなに遠い距離で対峙していたわけではないということになります。かなり近くまで人々は近寄っていたのです。「昼の三時」は現在の時計に合わせれば午前九時ごろです。この時間ですからこの人たちは首都エルサレムで働いていた人々です。だからこそ、「何を酔っ払っているのだ」という批判になりやすかったのでしょう。

ペトロは不思議な現象が自分たちに起こっていることを自覚した時から聖句を探していました。今の状況は聖書で言えば何に当たるのかを高速回転で考えていました。その一方で外からの批判も聞こえます。酒に酔ってはいない。では何が起こったのか。それを聖書からどう説明するべきか。特に全世界から集まっているエルサレム住民に何を語るべきか。全世界に開かれている説教というものは、全世界向けの説明責任を果たすことです。「今起こっているこの出来事は、聖書によればこのような事態なのだと解します」。このような仕方で語られる言葉がキリスト教会の説明責任です。

ペトロは「預言者ヨエルの言葉が実現した」とは言いません。「過去の予言が現在当たりました」ということではなく、聖書の言葉が現に今起こっているというのです。「預言者ヨエルを通して言われている(現在完了分詞)ことだ」。現在完了は過去の動作の効果が現在に至るまで継続していることを示す時制です。ギリシャ語は英語よりも継続の意味合いが強いし、ここではさらに分詞(英語のing)です。ヨエルがかつて言ったことはずっと起こり続け、今も起こり続けているのです。神の民イスラエルにおいて、そしてこの日開始された神の民キリスト教会において、今もこの泉バプテスト教会において、さらに未来に向けてすべての神の民に起こり続けるであろうことです。

17 終わりの日々において以下のことがあるだろうと神は言う。私は私の霊から(一部を)全ての肉の上に注ぐだろう。そしてあなたたちの息子たちは預言をするだろう。またあなたたちの娘たちも(預言するだろう)。あなたたちの若者たちは幻を見るだろう。またあなたたちの老人たちは夢で夢見るだろう。 18 そしてまた私の男奴隷の上に、また女奴隷の上に、これらの日々において私の霊から(一部を)注ぐだろう。そして彼らは預言するだろう。

 ここから全ての動詞の時制は未来になります。日本語としてはくどいですがすべて「だろう」を付けて訳しておきました。ペトロの教会観がここに現れています。教会は未来から来た共同体です。「終わりの日々」(17節)というのは世の終わりのことを指す言葉です。教会においては世の終わり、つまり、未来の最果てが起っています。だから教会にいるだけで、わたしたちは未来の社会に身を置くことができます。教会が楽しい理由の一つです。世の中ではまだこの人たちは声を上げていないかもしれません。しかし教会では未来を先取りして子どもたちが実際に生き生きと働くのです。

ペトロは聖句の一部を任意で変えています。「老人たち」と「若者たち」の順番です。ヨエル書はヘブライ語でもギリシャ語訳でも老人が先、若者が後です。それを大胆にもペトロは若者を先にします。わたしたちにはそのような勇気はありませんが、初代教会の人々は聖句の語順を組み替えることすらします。そこまでして訴えたいことは、「教会は未来志向であるべきだ」という価値観でしょう。一般社会で高齢者男性は力をふるっている。しかし、教会ではそうであってはいけないのです。むしろ若者が見る幻を、未来絵図としてわたしたちは受け取るべきです。教会は未来世代を大切にする共同体です。年配者の理想的なあり方は「夢で夢見る」ような教会への関わりです。つまり前面に出ないけれども、解釈が必要な含蓄のある言葉を語るということです。ヨセフの夢解きがそのヒントとなります。

ペトロの教会観は、聖霊について語るときにも現れています。舌のような炎をペトロは霊である神・イエスの霊・主なる神の霊であると解しています。神の霊の一部が全員に分配されている徴なのだという理解です(17・18節)。それは人間が平等であることを象徴しています。すべての人は神の似姿・神の子です。等しく神の霊を宿しているからです。少なくとも教会ではそのように全員が扱われます。だから年配者も赤ちゃんも神の子として平等に尊重されます。そして、元々一つの霊であるということは、すべての人が一つの交わりに入ることができるということです。同時に分かれているということは一人ひとりが個人として尊重されているということです。神の霊がわたしたちをネットワークで結ぶのです。一人ひとりが適切な距離で一つのネットワークに編まれている姿。ペトロは教会をそのように捉えています。

 ペトロの語る教会観は「男もなく女もない」というところにも示されています。教会では全ての人が「主の僕(奴隷)」「キリストを礼拝する者」です。そのような彼ら彼女たちすべてが預言をするのです。「そして彼らは預言するだろう」(18節)の「彼ら」には女奴隷たちも含まれています。現代的には女性・男性のくくりにはまらない人も入ります。実はこの一文はヨエル書にありません。ペトロが付け加えているのです。語順の変更だけではなく聖書本文にも一文付け加えるという大胆さが初代教会にあります。こうした語順変更され付け加えられたものが、現代の新約聖書の一部になっています。聖書はこうして多角的な視点を加えながら雪だるま式に増えていったのです。

 この一文の付け加えで、17節の息子・娘と、18節の男奴隷・女奴隷が同じ人々であることが明確になります。霊の分配と預言する行為がどちらにも明記されているからです。モーセの時代、72人の男性の長老にだけ聖霊が降り、彼らだけが預言をしました(民数記11章)。モーセはすべての人に聖霊が降ることを望みましたが、その「すべての人」に女性たちは入っていませんでした。預言者モーセの願い以上の願いが(それを象徴的な意味で「預言者ミリアムの願い」と呼べるかもしれません)、キリスト教会で実現します。

ではキリスト教会においてすべての人がなしうる預言とは何をする行為なのでしょうか。それは聞いている人に届く言葉で、キリストをほめたたえ、キリストを主と呼ぶことです。相手に通じない言葉は教会を建て上げません。相手が何語を話そうが、どのような社会層に属していようが、どのような年齢であろうが届く言葉で、イエス・キリストがわたしたちの救い主であると告げ、共にこの信仰告白に連なろうと言うこと、それがここで言う預言です。なぜならペトロたち百二十人(老若男女)が聖霊を受けて勇気をもって行ったことは、要するにそのような行為だからです。

19 そして上方の天において私は奇跡を与えるだろう。また下方の地の上に徴を、(すなわち)血と火と煙の蒸気を(私は与えるだろう)。 20 太陽は闇へと変えられるだろう。また月は血へと(変えられるだろう)、大いなるまた顕わになる「主の日」が来る前に。 21 そして以下のことがあるだろう。すなわち主の名を呼ぶ者はすべて救われるだろう。

 「自然災害が世の終わりの前兆である」という教えが、恐怖と脅迫を伴う熱狂的終末論につながりやすいのはキリスト教史の中の反省です。むしろ、聖霊が降った後はいつでも「世の終わりの前日」と捉えた方が安全です。わたしたちは常に「明日来る主イエス」を待ち望み準備をしておかなくてはいけません。自然災害や新型コロナウイルスがあろうがなかろうが。

 世の終わりの前兆が何かということよりも、「主の名を呼ぶ者がすべて救われる」(21節)ということの方が重要です。わたしたちは「イエス・キリストが救い主だ」と名指しします。このような仕方で名前を呼ぶことは「礼拝する」という意味です(創世記4章26節)。「イエスは主なり」と礼拝する者はだれでも救われます。すべての人が参与できる礼拝の中で、誰でも罪を告白し、イエス・キリストによって罪を肩代わりしてもらい、新しい生き方を始めることができます。聖霊は一人ひとりを信仰告白へと導きます。

 今日の小さな生き方の提案は、預言者ヨエルと使徒ペトロの言っていることが、今ここでも起こり続けていると信じることです。聖霊の分配が今ここに起こっているのです。だれでもここでイエス・キリストを救い主と告白できます。その告白や賛美を誰にでも届く形にすることが教会の仕事です。人間以外の被造物は信仰告白の必要がありません。その存在で神に信仰告白をしているし、教会が被造物の信仰告白を翻訳する必要がないからです。空の鳥・野の花が神を信じているのは一見して明らかです。その一つ一つの生命を聖霊が網状につなげています。こうして女も男も、若者も年配者も、人も犬も、主の名を呼ぶ礼拝を行なっています。救いとは自分の命が尊重されながら、誰かと適切な距離でつながり続けることです。預言とは救われた経験を届く形で共有することです。礼拝(賛美・祈り・聖書)によってそれが体感できます。