雅歌という書物の背景にある習俗がはっきりしたのは19世紀末のことです。結婚の際に、花嫁と花婿が儀礼的に王妃と王に仕立て上げられ、参列者から祝福されるという習慣が、パレスチナ地域にあったことが分かったのです。アラビア語でワツフと呼ばれる、女性の身体の美しさを賛美する歌が歌われ、みんなで踊ってお祝いをしたというのです。雅歌は、庶民の結婚式から生まれた庶民の歌集です。まったく世俗的な歌の集まりです。それがある時期から宗教的な本である聖書の一部を成すようになりました。その理由は、王妃と王に仕立て上げる際に、ソロモン王の名前を使ったからだと推測します。本日の箇所は、正にソロモンが結婚した場面を歌っているように読めます。箴言やコヘレトの言葉を著したと信じられているソロモンが、自分の結婚式の場面を歌った雅歌の作者でもあると連想されていったのでしょう。
本日の箇所は、だから歴史上のソロモン王とは関係がありません。名も無い庶民が、友人の結婚式に参列し、花婿をソロモン王に仕立てて歌った歌です。作者は女性かもしれません。雅歌は全般に「女性たち」を前面に押し立てている書です。作者の友人である花嫁のために、結婚相手である花婿をほめあげるために「ソロモン王に似ていますね」とお世辞を言っていると解釈します。そのように設定すると、わたしたちの小さな日常生活が聖書によって肯定されていることが分かります。また作者のもつ鋭い批判精神を読み解くことができます。市井の者が備え持つ権力への批判です。
なお、新共同訳聖書の小見出しに「合唱」と付けているのは、雅歌全体を「戯曲」とする学説に立っているものです。
6 その荒野から上りつつある女性は誰か、煙の柱のように。(彼女は)犠牲の煙にされている、没薬と乳香、隊商の香料の全てにより。
作者は花嫁である友人を「犠牲の煙」に喩えています。この言い方は素直に解すれば褒め言葉であり肯定的な評価です。出エジプトを果たしたイスラエルの民が、荒野を経由して約束の地に入ってくることを思い出させるからです。花嫁は神の民イスラエル全体のように考えられるので、褒め言葉です。
しかしそれと同時に、作者は友人が辿るであろう「暗い将来」についても暗示しています。彼女は犠牲の煙にされつつあるのです(分詞は現在から将来にわたる動作)。古代パレスチナです。現代日本よりも強固なイエ制度・家父長制社会があります。その「嫁」となることは、社会全体が負わせている十字架を負う行為です。
寓喩的に解釈し、新約聖書と関連付けてみましょう。赤ん坊のイエスが贈られた品、「没薬と乳香」がここに登場しています。死者に用いる香料である没薬は十字架を示唆しています。十字架で神の子は犠牲の煙として捧げられたのでした。それは「最後の犠牲」となるためのものでした。世界全体はイエスを殺しました。すべての人の罪のために殺されたと考えるからです。その不条理の死は、自分を含めて誰をも犠牲にしない生き方へとわたしたちを向かわせます。それが誰かの犠牲に基づく平和を肯定しないことにつながります。
「嫁」という一人の「女」性の犠牲によって成り立つ「家」制度の問題性をわたしたちは荒野から来つつある煙の柱を見ることで想起します。それは沖縄の「本土復帰」50周年にわたしたちが考えるべき指針です。もしも日本の安全保障のために米軍が必要だと思う人は、もっぱら沖縄の人にのみその負担を負わせて、沖縄の人を犠牲にしてはいけないでしょう。
7 見よ、ソロモンに属するところの彼の寝椅子。六十人の勇士たちが彼女〔寝椅子〕のために周りに。イスラエルの勇士たちより。 8 彼ら全員は剣(で)掴まえられている。戦争(を)教えられている。各人は彼の太腿の上に彼の剣。その夜における恐怖より。 9 四方輿(を)彼のためにソロモン王は作った。レバノンの木より。 10 その柱(を)彼は銀(で)作った。その屋根(を)金(で)。その座席(を)紫(で)。その内部は彼らの愛(で)意匠されている。
ここで登場する「ソロモン」は作者の友人である花嫁と結婚する花婿のことを指します。ですから「寝椅子」(7節)と「四方輿」(9節)は、誇張表現です。おそらくは新郎新婦の新居にある寝床のことを指す喩えです。それが栄華を極めたソロモンの豪華な寝椅子や、屋根がついていて外の世界と遮断され、内部も綺麗に飾られている輿に似ているというのです。レバノン杉に言及することで、その輿はエルサレム神殿にまで誇張されています。ソロモン王はレバノン杉を用いて神殿を建てたからです。父ダビデ王の三十人の勇士に勝るようにするため、ソロモン王には六十人の勇士がいたという誇張までしています(7節。サムエル記下23章24節以下参照)。
これも素直にとれば褒め言葉です。友人の夫となる人物を、イスラエルで尊敬されているソロモン王になぞらえて褒めているからです。しかしなぜよりによって目出度い結婚式の際に、新郎をソロモン王に喩えるのでしょうか。というのもソロモン王には千人の妻がいたとされているからです。そしてそのような「重婚」状態は批判されています(列王記上11章)。ユダヤ社会では一般的に一夫一婦制が大前提です。数ある王の中でも結婚についていわく付きのソロモンを選ぶことに作者の隠れた皮肉を看て取ります。それは王権力に対する批判です。
このような視点をもって、この歌を読み直すと現代社会にまで通用する洞察が与えられます。まず作者は、王という存在は、民を兵士として徴用するということを知っています(サムエル記下8章11節以下)。作者の友人と結婚したばかりの男性もまた、ソロモン王の命令とあれば剣を帯びる一兵士として王の周りを警備しなくてはいけなくなります。農具を剣に打ち直さなくてはいけないのです。その意味で、各人は武装して剣を帯びているという一方、それと同時に「剣(で)掴まえられている」(受動分詞)状態にあります。軍隊という組織の中で無理やり「戦争(を)教えられている」(受動分詞)のです。敵という存在がいて、夜となると襲われるかもしれないという恐怖により、普通の農民が兵士とされていくのです。
十五年戦争において中国に配備され住民の虐殺・暴行に関わる日本軍古参兵が、故郷においては相続を許されない次男三男が多かったそうです。ベトナム戦争においてアジアの最前線に配備される米兵が、故郷においては差別されているアフリカ系が多かったと言われます。そのような男性たちが自宅では「ソロモン王」となり、自分の妻を抑圧しています。さまざまな批判が、本日の箇所から読み取れます。差別は重層的であり、犠牲のシステムは精巧にできあがっています。
作者はソロモン王が自分のために大勢の労働者を徴用してレバノン杉をティルス王国から入手したことを知っています(列王記上5章)。結婚がもしも「家」を維持するためのものであるならば、それがどんなに高価な資材(金・銀・紫)を使う立派な建物であっても空しいものです。女性は「子を産む器械」、とりわけ男性を生むための道具に貶められるからです。今でも女性は家事労働・育児労働・介護労働のために「彼のために」(9節)無償で徴用されています。結婚がもしも配偶者同士対等の関係を建て上げるためのものであるならば、そこには祝福があります。それは内部の二人の関係が愛で意匠されている状態、常にその努力をし続けている状態です。
岩波訳聖書の提案に倣い本文の文字を一文字付け替えることで、「愛」を「彼らの愛」とし、「エルサレムの娘たち」を次の11節に接続させました。ここには自身の結婚観を伝えながら、友人の結婚を心から祝おうとする作者の思いがあると推測するからです。結婚において重要なのは「夫の家を建てること」ではなく、「互いの愛を編み込むこと」です。
エルサレムの娘たち、11 貴女たちは出でよ。そして貴女たちは凝視せよ、シオンの娘たち、ソロモン王を、彼の母が彼に戴冠した冠を、彼の結婚の日に、また彼の心の喜びの日に。
こうして作者は、結婚したばかりの友人や、その周りにいる女性たちに向かって、他ならない「結婚の日に」(11節)呼びかけます。「あなたたちは家制度から出るべきだ」(11節)。ヘブライ語の二人称には男女の別があります。「女性であるあなたたちは」と彼女は女性たちにのみ呼びかけています。さらに、「ソロモン王を凝視し、特にソロモン王の冠を凝視せよ」と呼びかけます。他動詞「見る」に本来不要の前置詞が付いて意味を強めています。「凝視する」としました。一体何に注意してよく見なくてはいけないのでしょうか。
冠に象徴されていることは、王の即位です。戴冠式という言葉がある通りです。ソロモン王が母親バト・シェバの力によって王位に就いたことを、作者も結婚式参列者も知っています(列王記上1章)。王冠を凝視することは、ヘト人バト・シェバという人物をよく見ることです。作者は新郎をソロモン王に喩えながら褒め言葉を語りつつ、結論部分では新郎の母親に目を転じさせます。古代社会において女性が政治権力を握る(おそらく唯一の)方法は、「王の母(太后)」となることです。
庶民の結婚式の一場面に、たとえば花で編み上げた冠を新郎新婦に載せる習慣があったのかもしれません。作者は、友人の結婚式において祭司にその役割を負わせません。このことは教会にとって衝撃的です。結婚式を教会や宗教者の専権事項ととらえがちだからです。秘跡としているカトリックだけではなく、プロテスタント諸教派も結婚式を結婚する当事者二人から、その親族友人たちから取り上げがちです。作者は、戴冠の重責を父親や一族の男性長老にもさせません。ただ許されるべきは、新郎の母や新婦の母、あるいは参列している女性たちだけです。「貴女たちがバト・シェバに倣いなさい」。
作者は家制度を固めるための結婚式ではなく、家制度を健全に批判し、家制度から出て行くための結婚式を勧めています。女性たちの連帯が織りなす痛快な情景は、ルツ記でしばしば見受けられる場面と共鳴し合っています(ルツ記1章19節、2章23節、4章14節)。ヘト人バト・シェバとモアブ人ルツは同じ系譜の人物です。原典においてはルツ記の直後に雅歌が置かれています。
今日の小さな生き方の提案は、わたしたちの小さな日常生活を意味あるものとして捉え直すということです。日米両政府の考える沖縄を用いた軍事外交という「大きな物語」と、実際に沖縄に住んでいる人の考える沖縄における幸せな生活という「小さな物語」は異なります。今までは大きなものが小さなものを呑み込んできました。家制度や、その頂点をなす天皇制においても同じ事情です。しかしこれからは逆です。小さな物語こそが大きな物語を打ち壊すのです。「わたしの幸せ」こそが、家族の犠牲・組織のための行動・国益などに勝る価値を持っています。教会に喜怒哀楽豊かな小さな物語を持ち寄りましょう。そうすればわたしたちは大きな物語に騙されません。