今日は十の災いの二つ目、「蛙の災い」です。〔8章1-3節とアロンの登場するところだけがP集団により、残りの主な物語はJ集団が書いた物語です。〕神の選ぶ災害が、なぜ蛙の大発生なのか説明の仕方はいくつかあるでしょう。
聖書に出てくる超常現象を、「科学的に」説明しようとする人もいます。たとえば「血の災い」(7章14節以下)はナイル川河口の赤潮だったのだという説明です。プランクトンの大発生によってナイル川が赤くなり、呼吸困難になった魚が死んだのだとするわけです。そして蛙は肺呼吸なので死に至らず、しかし住みにくくなったナイル川から大量に陸地に上がったのだと、第一と第二の災いを関連付けて説明します。その際に「七日」(25節)ぐらいが蛙の上陸にちょうど良いと理解するのです。
ある種の合理的な説明ではありますが、この類の解釈には抵抗があります。それは「聖書/神を弁護しようとする意図」が見えるからです。またわたしたちの理解の範囲内に神を押し込めることができるかのような誤解に導くきらいがあるからです。ニュース番組でナイル川の赤潮と蛙の大発生を観るなら神を信じるのでしょうか。逆にそれを観ないなら信じないのでしょうか。神はわたしたちの理解をはるかに超えた不思議な業をなさるのが当然なのであって、そこに合理的な説明は必要ありません。また合理的な説明は、わたしたちの生き方には何の示唆をも与えないので不十分です。「自然現象として蛙は大発生することがあるのです」という説明は、それ以上の感銘を与えません。「そうですか」という答えで終わり、この物語を読む人の生き方をゆさぶるものとはなりえません。それでは聖書を読んだことにはならないのです。
だからこそ先週もナイル川の血を、カインのアベル殺しや、ファラオの赤ん坊殺しとの関連で解釈したわけです。そこに神学的な意味を、すなわち聖書を読みその言葉に共鳴して生きる意義を、見出すからです。
蛙とは何か。蛙が象徴している意味を考えることが必要です。そして、今回のファラオとモーセ・アロン間の交渉で、今までと何が変わったのかを探ることが必要です。
蛙の説明は旧約聖書の中からは極めて難しいものです。なぜかと言えば蛙という単語(ツェファルデイーム)は今日の箇所以外では詩編78編45節と105編30節にしか登場しないからです。しかもどちらの箇所も、蛙の災い物語を引用しているだけなのです。これでは蛙という単語がどのような文脈で用いられるかを調べることができません。
このような場合は、古代エジプトにおいて蛙がどのように考えられていたかを知る必要があります。ナイル川河畔には多くの蛙とトカゲがいたそうです。そして蛙のかたちをしたお守りが多数出土され、多産のための像であったことがわかっています。エジプトの言葉で数字の「10万」は、蛙の卵の象形文字です。日常よく目にし、かつ、縁起の良い小動物だったのです。
古代エジプト神話の女神にヘケトという神がいます。蛙の顔をした女神です。ヘケトは創造神クヌムの妻です。クヌムがろくろで人間を創り、その傍にいるヘケトが息を吹き込むという絵画が残っています。ヘケトは生命の女神です。なぜかと言えば赤ん坊の姿が、蛙の姿に似ているからです。蛙は出産・多産、さらには復活・永遠の命の象徴です。実にエジプトにおいては、キリスト教が伝播する頃まで、永遠の生命の象徴は蛙だったというのです。
だから新約聖書で唯一の登場箇所において蛙は悪役なのでしょう。ヨハネの黙示録16章13節で「悪霊が蛙に似ている」と書かれている理由は、著者がエジプトの文化に対抗して語っているのかもしれません。
蛙の災い物語の大きな背景には、永遠の生命の神として崇められている蛙もまた創造主の支配の下にあるという信仰告白があります。
血の災いはファラオの心に何の影響も与えませんでした(23節)。王宮には損害が至らなかったのでしょう。しかし、蛙は王宮の中にも入ります(28節)。この実際の損害と同時に精神的苦痛もあります。崇拝されている動物が、王と民の日常生活を悩ませるという皮肉から起こる苦痛です。魔術師はファラオの苦悩を知らずに、アロンと張り合ってまたもや同じ超常現象を起こしうることを自慢しています(8章3節。7章22節参照)。今日の箇所においてファラオは魔術師を無視しています。前回のようには王宮に帰らずに、むしろアロンとモーセを呼びつけて話し合いのテーブルにつくことを選ぶのです(4節)。二人が王宮に呼ばれることは初めてです。それはファラオの精神的苦痛の大きさを意味します。またファラオの心が少し柔らかくなり開かれたことを意味します。ファラオはことの重大さを知るようになったのです。
人は自分が当事者になった時に、出来事の重大さを知り、我に返り、本心に立ち返ります。人は自分が大切にしていたものからしっぺ返しを受ける時に、人生が思いのままにならないものであると思い知ります。柔らかい心・砕かれた心は、相手との話し合いを可能にします。第二の災いから初めて「条件交渉」が始まります。
「もしあなたが去らせることを拒むならば・・・蛙の災いを引き起こす」(7章27節)という条件文を引き受けて、ファラオは出エジプトの条件を提示します。「蛙が退くならば、民を去らせ、礼拝の自由を保証しよう」(8章4節)。話し合いとは双方の条件提示による妥協の過程です。ファラオが蛙を「死なせる/駆除する」とは言わずに、婉曲に「退かせてほしい」と願うところに、ヘケト神への崇敬の念が表れています。アロン(とモーセ)はそこを配慮してファラオの前では「蛙を・・・断ち(切るの意)」(5節)・「蛙は・・・退く」と言います。交渉事や話し合いにはお互いの配慮があります。面と向かって話し合うとき、論敵にさえもある種の交流が生まれるものです。それが相手の良心に語りかける話し合いです。
蛙がエジプトの王宮および民家から退き、いつものようにナイル川河畔にのみ生息し(5節)、エジプト人の持っていた蛙への尊敬の念を回復させてくれるならば、ヤハウェへの礼拝を認めようということがファラオの示した条件だったと推測します。少なくとも7節の言葉を、ファラオはそのように理解していたことでしょう。蛙はナイル川に帰ると。もし、ヤハウェが蛙を単純に退かせたならば、ファラオは心を軽くして出エジプトの許可を与えたようにも思えます。
ところが、モーセは極めて感情的にヤハウェに叫びました。8節の直訳は、「モーセはファラオのために彼(モーセとも解しうる)が置いた蛙についてヤハウェに叫んだ」です。モーセは蛙を殺すようにヤハウェに願ったのではないでしょうか。それが「蛙を・・・断ち(切る)」の含意だったのでしょう(5節)。ヤハウェはモーセの願い通りにされ、陸上に上がった大量の蛙が死ぬことになります(9節)。さらに人々は蛙の死骸を幾山にも積み重ねたので、国中に悪臭が満ちることとなりました(10節)。この事態はファラオの願ったことだったのでしょうか。命の象徴・多産の守り神たる蛙の大量の死に直面することは、確かに日常生活の不便を一掃しました。しかしエジプト人であるファラオにとっては痛恨事ではないでしょうか。この事態はファラオとアロン・モーセ間の合意の内容を正確に映したものだったのでしょうか。両者の間に、隙間が生まれているように読めます。
11節の直訳はこうです。「そしてファラオは隙間が生じたのを見た。そして彼は彼の心を重くした。」ファラオはほっと一息して心を変えたのではないでしょう。合意の内容が踏みにじられた感覚を持ち、アロン・モーセに対する不信感を持ち、交渉相手との心の隙間が生じたのを認識したのでしょう。そして、通例「心がかたくなになる」時には「心を強くする」という表現なのですが(7章13節・22節など)、この8章11節は異例なことに「心を重くする」という別の動詞が使われています(7章14節の「頑迷」も別単語)。ファラオは頑固になったのではなく落ち込んだのでしょう。失望し嫌気が差したということです。
折角話し合いのテーブルについたファラオの心はアロンとモーセから離れてしまいました。8章21節までファラオは二人を呼ぶことはありません。せっかくある条件を満たせば「ヤハウェに犠牲をささげさせよう」とまで言わせたのに、その機会は再び遠のいてしまいました。大きな意味では、ヤハウェの予告通りファラオが二人の言うことを聞かなかったからとも言えます(11節後半)。しかしアロンと特にモーセの失敗が原因にあるとも言えます。
さらに言えば、ヤハウェの立てたもともとの企画に難があったのではないでしょうか。エジプト人の崇敬する蛙を用いた脅迫でエジプト人の心が動くとは到底思えないからです。かえって感情を逆撫でしかねない要素を、第二の災いは内に含んでいました。それが結局裏目に出てしまい、ファラオは耳を閉ざしてしまいました。ファラオとヤハウェとの間にも大きな隙間が生じてしまったようにも見えます。ファラオから見れば、仮にヤハウェがヘブライ人の神であったとしても、エジプト人の神の一つである蛙をどうしてそこまで貶めるのかという問いが起こりうるでしょう。第一の災いでもむざむざと殺された魚はお気の毒です(7章21節)。さらにも増して第二の災いで殺された蛙はお気の毒と言えます。創造主は被造物を粗末に扱ってはいけません。
こうしてブーメランのように最初の問いに戻ります。なぜ第二の災いは蛙なのかということです。今を生きるわたしたちの生き方の問題として、蛙の災いの意義を考えなくてはいけません。今日はあえて反面教師として理解したいと思います。「このような話し合いを持つと、かならず交渉決裂し話がこじれますよ」という警告です。警告を裏返せば、小さな生き方の提案となります。
第一には相手が大切にしていることを尊重しようということです。困らせる蛙でさえもそれを尊敬しているがゆえにエジプト人は殺せないのです。それを嘲笑うのは良くない。キリスト礼拝を大切にするわたしたちは相手の思想信条の自由も大切にすべきです。互いの尊重があるところに信頼が芽生えます。
第二に妥協され合意された範囲内でお互いは行動するべきだということです。モーセとヤハウェは合意からはみ出た部分で暴走をしています。それがファラオをがっかりさせるのです。信じた人に裏切られた感覚です。そして本当にがっかりしたのはアロンとモーセを指導者として立てたヘブライ人たちです。重労働とファラオ崇拝の強要は、依然として継続させられるからです。信じて交渉事を託し、彼らの労働の分を誰かが肩代わりしています。
話し合いによる問題解決は人類が到達した叡智です。戦争の放棄の裏返しは話し合いによる解決です。武力の行使や威嚇によらないということは話し合いのテーブルに至上の価値を置くということです。平和というものは平和的手段によって構築されるものです。話し合いという手段はただお互いの信義を基礎とするものです。この面と向かっての信頼関係ほど強い力はありません。話し合う能力を高めることが急務です。