ルカ福音書のイエスはよく祈ります。たとえば十二弟子の選出のときにも徹夜で祈りましたし(6章12節)、十字架上でも祈ります(23章34節)。また、祈りについても教えます(11章1-13節)。今日の箇所は、11章5-8節の祈りについての教えと関連しています。この部分はルカにしかありません。「旅行中の友達を接待するためのパンを三つ貸してほしい」と、別の友人に真夜中頼む話です。「その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」(11章8節)。
横着な願いであっても、しつこく続ければ必ず相手が折れる。それが神に祈るという行為なのだということです。この趣旨は、本日の箇所にも丸ごと当てはまります。祈りは、神との根比べです。神が根負けするまでしつこく願い続けることです。「裁判官とやもめの譬え話」は、祈りが何であるのかを教えるために用いられています。ルカ福音書を編纂し礼拝で用いたルカ教会の主張がここに込められています。
イエスが最初の聴衆に語った部分は2-5節でしょう。やもめと裁判官はおそらく実在の人物がモデルだと思います。イエスの母親もやもめの一人でしょうから、やもめが社会的弱者であるということにイエスは関心を持っていたと推測できます(21章1-4節)。この元来の話に、1節と6-8節を付け加えて、祈りについての教えを完成させたのはルカ教会の作業です。
この編纂は、「さぼらずに絶えず祈る(1節直訳)」ことの尊さを教えています。わたしたちが祈りをさぼる主要な理由が、「どうせ聞き届けられない」と諦めていることにあることも鋭く衝いています。そこには神への批判もこめられています。神は「不正な裁判官」だという嘆きです(6節)。自分の祈り願いは地上で公正を実現するための訴えであるのに、地上には不公正がまかり通っている。神が黙認している。神は地上に介入して公正な裁きを行わない。このような神に祈る価値はないという批判です。
イエスはこのような神批判は当てはまらないとして神を弁護しています。地上のとんでもない裁判官よりも、神は「ましな裁判官」だからです(7-8節)。神は必ず速やかに「相手を裁いて、わたしを守ってください」ます(3節)。もしも、わたしたちの祈り願いが、神をうんざりさせるほどの熱意に満ちた、継続的なものであれば。もしもわたしたちが、「昼も夜も叫び求めている」(7節)のならば。神は祈る者の熱意に動かされる方です。
現在の世界で、キリスト者に求められていることの第一は、熱意をもって祈るということです。それは諦めない精神と言い換えることもできます。神を信じて自分の願いを祈る行為は、断念しないということを大前提にしています。このような素朴な信をわたしたちは軽くみなしてはいけません。困ったことに直面した場合に「困った」と言い、何とかしてほしいと率直に願う。「あなたの信があなたを救った」とイエスが答える場面は、すべてこの類の祈り願いを基にしています。単純に熱く祈り続けることをお勧めいたします。
それは鳩のように素直に生きるということです。神を近所に住む善良な隣人と考えて素直に何度でも求め続けていくのです。この素直さを取り戻すことはわたしたちの生活を豊かにします。キリスト者になることの益は、人間としての素直さを取り戻すことにあります。多くの人は単純・簡素に生きたいという欲求を持っています。教会は、礼拝というものを地域に提供して、素直に生きる生き方を示しています。大の大人が子どもにならって、神に祈る、神を賛美する、神の言葉を読むのです。ここに永遠の命が溢れているからです。
さて、中心部分である2-5節の譬え話に入りましょう。この部分においては、権力者との付き合い方が話の焦点です。ここにはイエスの人間理解・社会理解が現れています。それは現代においても廃れない説得力を持っています。
ある町にひどい男性裁判官がいたのだそうです。「神を畏れず人を人とも思わない」というのですから、聖書の倫理とは正反対の生き方をしている人です。聖書は、神を愛し・人を愛すことを勧めています。それは旧約聖書や律法の中核でもあります。当時の裁判官は律法学者が務めていたそうです。法律家であり、法律の解釈を仕事としているのですから、一見裁判官にふさわしいと言えます。またユダヤ社会の伝統では裁判をする者は統治者でもあります。裁判官は地方自治体の有力者でもあったことでしょう。この旧約聖書の律法に通じていた権力者が、神を愛し・人を愛すことを実践できていません。
しかもこの男性裁判官は自覚しています。「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない」(4節)。もちろん譬え話だからこその漫画的な表現です。言いたいことは、彼が損得勘定でしか動かない人間であるということです。そして、そのことを自覚しながらも、そのことに開き直っているのです。権力を持つ人の姿を、イエスは巧みに描いています。ひどい国会答弁を聞くたびに、似たような開き直りを感じます。
男性裁判官とは対極の存在がいます。やもめです。旧約聖書の中で社会的弱者の象徴として、孤児(親のいない子)・やもめ(夫のいない女性)・寄留者(外国人)の三者がしばしば挙げられます(出エジプト記22章20-23節ほか)。
たとえばルツ記は、二人のやもめの物語です。そこには有史以来続く「女性の貧困」という課題が描かれています。モアブ人ルツとその姑ナオミの経験は、赤貧の地獄です。彼女たちは当時の法律によって若干保護されます。やもめは刈り残しの落穂を拾って所有にして良かったので、なんとかそれで食いつないだのでした。しかしそれは「健康で最低限文化的な生活」には程遠い暮らしぶりです。保護とは名ばかり、社会的安全網など存在しない古代社会の話です。
そこで、彼女たちは赤貧地獄から抜け出すために裁判を起こします。そして「親戚が、ナオミの土地を買う義務と、ルツと結婚する義務がある」という当時の法律を利用して、金持ちのボアズという男性とルツを結婚させることに成功します。この外国人ルツがダビデ王のひいおばあさんになったというのがルツ記という物語です。家父長制・民族主義を利用して、家父長制・民族主義によって自たちの命を守らせたのでした。
「相手を裁いて、わたしを守ってください」(3節)。この言葉の基礎にはルツ記があります。女性たちは特別な法的保護を必要としていることを示しています。それによって、やもめが、律法学者である裁判官と対極の存在であることを、イエスは巧みに描き出しています。法律を作ることも、権威ある法律の解釈を創り出すこともできる男性裁判官と、この世界で力を持たされていない女性・やもめが、ここで対置されています。
このやもめは同じ地域に住む誰かから不利益を被らされていたのでしょう。そこで相手を会堂(裁判所でもある)に訴えたのでしょう。会堂は礼拝場所でもあり、学校でもあり、自治会館でもありました。当時このような事例は多くあったのだと思います(使徒言行録6章1節も参照)。だからこそイエスの譬え話には現実味と凄みがあります。
その会堂に属する男性裁判官は無力な女性を無碍に扱います。長期間無視していたのです(4節)。なぜなら、その訴えを取り上げて裁判をすることについて、彼には何の得も無いからです。たとえば彼女が大金持ちの親族を持っていれば別でしょう。彼女に恩を売れば、その見返りとして彼に金や地位が舞い込んできます。利権政治です。やもめである彼女には何のバックもありません。自分の得にならないことが分かっているので彼は彼女の訴えを無視します。
ところがしばらくすると実害が出始めてきました。「あのやもめは、うるさくてかなわない」(5節)という事態です。ここで男性裁判官は別の損得勘定を始めます。彼女のために裁判をしないことが損失になるのではないかと考えたのです。「彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」(5節)。得は無いけれども、損になるよりはましであるという判断です。「さんざんな目に遭わす」という言葉は、「目に隈を作らせる」という意味合いです。眠れない状況に追い込まれるのではないかという恐れが、男性裁判官にはありました。眠れなくなる理由は世論の動向とも関係があるかもしれません。土地の名士である男性裁判官にとって、「やもめに冷たい」という噂になると困るのです。
この結果、裁判は開かれ、やもめの主張が通る判決を男性裁判官は出したのだと思います。5節の終わり方では不明ですが、文脈からそのように推測できます。この終わり方は、やもめにとっては当然のことながら、男性裁判官にとってもハッピーエンドと言えます。これ以上やもめに煩わされるという危険がなくなったからです。そこにこの譬え話の味噌があります。いわゆるWin-Winです。おそらく実際に似たような痛快な事例が、ガリラヤのどこかの町にあったのだと思います。その町ではやもめは英雄です。
驚くべきことはイエスの価値判断です。イエスは、不正な裁判官に対して「正しくなれ」と言っていません。「神を畏れよ、人を尊重せよ」と説教していません。そうではなく、「世の中このような状況がまかり通っていますね」と、男性裁判官とやもめの社会的上下関係をある程度認めています。その上で、権力者の持つ損得勘定を逆に用いて、しつこく要求し続けることに価値を見出しているのです。相手に損失を感じさせるまで、要求し続けることで、どんなに小さくされている存在の声も、この世界に実現するということです。
蛇のように狡賢くあるということが何であるかは、やもめの行為によって分かります。彼女は、男性裁判官の損得勘定の狡賢さを逆に用いました。そして、お互いにとって損にならない道を切り開いたのでした。
現在の世界で、キリスト者に第二に求められていることは、やもめのように行動することです。特に地上で力を持っている相手に対して、「この人の求めに応じないと損失が来る」と思わせるまでしつこく訴えることです。すべての人は損得勘定で動きます。イエスが教える通りです。その点を利用して、不正な社会で正義を、「不正な者(罪人)」同士が力を合わせて実現するのです。
日本社会の弱点は政治が自分たちの身近にないことです。選挙で判断する材料も少ない。いつか「国会新聞」を作ってすべての審議を分かりやすく伝えたいと思います。短時間労働の実現に加えて、民主政治のインフラ整備が必要です。議員・役所・裁判所がどのような仕事をしているのか、罪人同士で構成する民主社会の仲間として、普段から知らなくてはいけないと思います。そうして、「より良い権力」を作る責任がすべての人にあります。嫌がられるまで訴え続けることは、そのための一つの道です。キリスト者になることの益は、政治が身近なものになることです。
今日の小さな生き方の提案は、素直に祈ること・狡賢く行動することです。神を信じて、自分を含む人間を疑う。この心持ちで熱意をもって諦めずに願うことを続けるのです。熱意が神と人を動かします。