ルカ福音書の最後にあたり、ルカと彼が属する教会が、どのようにマルコ福音書(後50年代成立と考える)を変えたかったかを考えます。マルコ福音書になくてルカ福音書にあるものは、大きな塊では誕生物語と(1-2章)、エルサレムまでの長大な旅と(9-18章)、復活物語(24章)です。これらの舞台はすべてガリラヤ地方ではありません。マルコ福音書はガリラヤで始まり「ガリラヤに行け」と読者に促して終わります。福音はガリラヤでこそ聞けると。
マルコに対抗心を燃やすルカは、歴史の始まりをエルサレムに置きます。エルサレム神殿の祭司ザカリヤ・エリサベト夫妻がヨハネの親となることから書き起こします(1章5節以下)。そして、生後33日目に神殿で祝福されたイエスは(2章22-37節)、12歳の時に神殿で聖書について論じます(2章46節)。彼は同じ神殿で生涯最後の一週間も聖書を教えます(21章37-38節)。イエスはエルサレム郊外で殺され(23章33節)、そこでよみがえらされます(24章1節以下)。そして、弟子たちはエルサレムの宿屋で復活者に出会います(24章36節以下)。彼ら彼女たちは、同じ宿屋で聖霊降臨を体験し、教会が創始され(使徒言行録2章)、教会はエルサレムから全世界へと拡散していきます。
神殿でルカの友人パウロは逮捕されます(同21章27節以下)。ルカはその目撃者の一人です。しかも逮捕の理由はパウロがルカら非ユダヤ人を神殿に連れ込んだというものでした。使徒言行録を著した動機は、パウロの死去だったと思います(後62年ごろ)。非ユダヤ人と共に教会を形成したパウロが主人公の物語を書きたくなったのでしょう。ルカ福音書を著したきっかけは、エルサレム神殿の崩壊だったと思います(後70年)。ルカはローマ軍によるエルサレム陥落を知っています(13章35節、19章41-44節、23章28-31節)。エルサレムは歴史の出発点ですが中心ではありません。乗り越えられるべき過去の遺物です。民族主義のメッカであり、非ユダヤ人に対する差別の中心地です。この意味でもガリラヤではなくエルサレムがルカのテーマです。
教会の歴史は、エルサレムからローマへ、ユダヤ人から非ユダヤ人へ向かうのです。ローマ皇帝の勅令によってイエスはベツレヘムで生まれ、ローマ皇帝に上告したためにローマでパウロは殺されました。物語の最初から最後までローマ帝国は意識されています。二人の主人公が逮捕された場所は同じエルサレムですが、パウロの処刑された場所はエルサレムではなくローマ。ルカはエルサレムに焦点を合わせながらパウロとイエスを接続したいのです。それは「エルサレムからローマへ」が、教会の歴史の方向性だと示すためです。
わたしたちの歴史はどこからどこへと向かうのでしょうか。東京の下馬に建てられた泉バプテスト教会は、アメリカによる占領を背景に持ちます。ただしアメリカ型教会になろうとしない批判精神を大切にしてきました。その歴史を受けて現在の風変わりな礼拝と教会形成があります。活動を礼拝に限定し礼拝に何でも含め、どんないのちも祝福される礼拝を作るという「暇な教会」です。
エルサレムやローマ帝国と同じく、アメリカの支配もいつか崩れ去ります。今や国家ではなく国際的な軍需産業が世界を経済的に支配しています。この仕組みもじきに滅びます。それぞれに個性的な大小の自治共同体が、横並びに国際的にも関係し合う社会がいつか来ると思います。教会はその中の一つの自治体です。領土問題などを焦点とし近視眼的に国家主義が煽られる昨今、もう少し巨視的に歴史を捉える必要を感じます。
さて今日の箇所に移ります。24章44-53節は、ルカ福音書と使徒言行録を接着する糊代部分です。内容が福音書の中でも使徒言行録の中でも、重複し繰り返されています。この繰り返しに著者・編集者の強調があります。
まず、福音書のイエスによる言葉が繰り返されます。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は必ずすべて実現する」(44節)は、27節の繰り返しです。「メシアは苦しみを受け、三日目に復活する」(46節)も、7節・26節の繰り返しです。そして、このことは確かに「まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたこと」(44節)でもあります。十字架と復活を三度も予告しているからです(9章22節・44節、18章33節)。
くどいほどの重複・繰り返しに、ルカ教会が大切にしていた信仰の中心があります。それは十字架・復活のイエスが救い主であるということ、そしてそのことは旧約聖書を読むと理解できるということです。新共同訳聖書の巻末の48ページに、ルカ福音書が引用している旧約聖書の箇所が26箇所一覧されています。確かにその26箇所は、「モーセの律法(創世記から申命記までの五書)」も、「預言者の書(ヨシュア記から列王記まで、ただしルツ記を除く)」も、「詩編(詩編を筆頭にした前二者以外の諸々の書)」も網羅しています。
ただし46-47節の言葉は、直接的には旧約聖書のどこにも書かれていません。メシアが十字架と復活を経験するというのは、イザヤ書53章やホセア書6章等いくつかの聖句に対する、大胆な解釈です。キリスト信仰とは、知性や理性を開くことでもあります。だからこそユーモアと関わるのです。45節の直訳は、「その時彼は彼らの知性/理性(ギリシャ語ヌース)を開いた、書かれたものを理解するために」。ユーモラスな復活者の登場は、笑いと共に弟子たちの知性/理性を開花させました。旧約聖書の読み解きによって、十字架と復活の信仰を補強するように、復活者イエスが促します。
「メシアが何であるかは旧約聖書を読むと分かる。メシアが誰であるかは新約聖書を読むと分かる」と言われます。わたしたちは古代西アジアの背景を持つ旧約聖書をよく読み学んで、救い主が何であるかについて理解しないといけません。最初期の教会は旧約聖書のみを持っていました。それを学んで礼拝で用いて信徒は「十字架と復活のイエスが神の子・救い主だ」と告白しました。これこそ霊的な礼拝、わたしたちの知性や理性が新たにされる礼拝です(ローマの信徒への手紙12章2節「心」もギリシャ語はヌース)。教会は新約聖書と旧約聖書と同時に読まないといけません。礼拝説教の箇所が新約聖書の場合、聖書のいづみでは旧約聖書を学ぶゆえんです。
さて、47-48節は使徒言行録1章8節と、また、49節は使徒言行録1章4節と重なり合っています。典型的な糊代部分、使徒言行録との重複です。繰り返しを通じてルカ教会が重視する、教会というもののあり方が、復活者イエスの口を通して述べられています。鍵語は、「エルサレムから」「アッバの約束されたもの(聖霊)」「力(聖霊)」「証人」です。まとめれば、「エルサレムに降る聖霊を座して待て。その力を着て、エルサレムを離れて全世界へ宣教せよ。それは十字架と復活の証人(目撃者)として生きるということだ。その宣教は生き方の変換を促す」ということです。理性や知性だけのことではなく、勇気や生き方が教会の課題です。
教会は自力本願を捨て、真に他力本願でなくてはいけません。聖霊が降るのを座して待つのです。「とどまる」の直訳は「座る」です。ヘブライ語では「住む」という意味もあります。地域に根ざしながら、突発的な力が与えられるまで地道に毎週礼拝を続けるのです。ちょうど52-53節にあるように、「エルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえ」ながら、自分たちに力が与えられるのを待つのです。自力でじたばたしない。
そして教会は、一旦力を着たならば、自分の土地から世界へと目を転じなくてはいけません。母なるエルサレムは批判の対象でもあります。アブラハム・サラ・ロトも「父の家」を出て行きました。地域に根ざすことが、地域を神としたり、地域にあぐらをかくことになったりしてはいけません。自分の地域の利害だけではなく、全世界の課題を引き受けることが聖霊によってできます。
例えば理性や知性によって、わたしたちは沖縄の課題が、実はヤマトの課題であることを知っています。「下馬地域には米軍基地を引き受けたくない、沖縄への押し付けやむなし」と、なぜ思うのか、その罪が問われています。力を着た教会は、世界中の課題(諸々の罪)を、すべての民に発信し、「諸々の罪の赦しに至る悔い改め」(47節直訳)を促すことができます。
ルカがパウロの逮捕と処刑の目撃者であることを思い起こしましょう。復活のイエスに出会って救われたユダヤ人パウロは生き方を回転させます。ユダヤ民族主義者が「非ユダヤ人の使徒」となりました。イエスの生き様をなぞって・イエスの殺害を身に帯びて、非ユダヤ人と共に生きたために殺されました。ギリシャ人ルカの心の中にはパウロがいつもよみがえっています。ルカは、病弱なパウロを「良いサマリア人」のようにして支援し続け、パウロの最後まで看取る中で、パウロを通してイエスの十字架・復活をも目撃できました。
今十字架を負わされ苦しむ人々は必ず神によってよみがえらされ、泣いている者は笑うようになります。そのような十字架・復活の初穂として、キリストはよみがえらされました。身近なところにも遠いところにも平和を奪われ不条理の苦しみに悩まされている人々がいます。復活の救いとはその人たちのものです。十字架を負わされている人々こそ、真っ先にイエスのようによみがえらされるべきです。苦しむ人々がイエスです。聖霊によってわたしたちはこれらのことを理解し目撃できます。目からウロコです。こうして自分の生き方が少しなりとも変わります。その人々の救いを自分の救いとしても願い求めるように変わる。こうして共に福音に与る。共によみがえらされるのです。パウロとルカは助け合う同労者として、お互いの十字架・復活の証人でした。
50-53節は、使徒言行録1章9-12節と重複しています。ここにはルカ教会が行っていた礼拝の強調点が垣間見えます。それは祝福する(ギリシャ語エウロゲオー。「良く・言う」の意)ことです。53節「ほめたたえていた」も同じ単語ですから、ここに三回も繰り返されています。イエスは彼らを祝福します。そのまま祝福しながら見えなくなります。同じ「祝福+消失」が、30-31節にもありました。30節「賛美の祈りを唱え」はエウロゲオーです。この見えない方にわたしたちも祝福を返します。良い言葉でほめたたえるのです。
礼拝とは神と人、人と人、人と被造物の相互の祝福の場です。同じ口から賛美と呪いは出てきません。互いの存在を尊重し合う言葉のみが礼拝で用いられるべきです。そのような礼拝がわたしたちに一週間を生き抜く力を与えます。個人の祝祷ではなく「祝福と派遣の聖句」を交読する理由がここにあります。
今日の小さな生き方の提案は、十字架と復活を受け取ることです。隣人に起こっていることとして目撃し、また自分に起こることとして証言することです。ナザレのイエスが虐殺され復活させられたのは、正にそのためです。泣いているわたしたちが笑うためです。弱いわたしたちが聖霊によってつながるためです。この十字架と復活の信仰は、世界や歴史を見る目を変えます。それも救いです。この分断と暴力に満ちた歴史は、必ず次の歴史に接続されます。その約束を信じて待つことができる。これも救いです。互いに尊重し合う礼拝で、信じてつながること・洞察して希望を持つことを養いましょう。