「そして彼(ヤコブ)はそこにその夜宿泊し、自分の手の中に来ているものから贈り物を取った。エサウのために、自分の兄弟のために。」
ヤコブの必死の祈りに対して、この時点で神の応えはありませんでした。群れを二手に分けるだけでは不十分だとヤコブはさらに考えを深めます。自分や家族のいる本体部分から、エサウに対する贈り物を分けようとするのです。そうすればエサウは機嫌が良くなるかもしれないからです。ここにはヤコブの、いつも通りの慎重な工作が見えます。しかしそれだけではない。ヤコブの本心からの悔い改めも見えます。知恵だけでなく、謝罪・和解・悔い改め。これらが合わさっていると捉えて、本日の箇所を読み解きます。
「贈り物」(ミンハー)には、神への捧げ物という意味もあります(4章3-5節等)。ヤコブはエサウを最上級に敬っています。それが必死に増やした多くの家畜をここで捧げるという行為に現れています。その数は膨大です。「200頭の雌山羊と20頭の雄山羊、200頭の雌羊と20頭の雄羊、30頭の乳を飲ませているラクダとその子たちと40頭の雌牛と10頭の雄牛、20頭の雌ロバと10頭の雄ロバ」(15-16節)。半分に分けたうちのほとんどではないかと思われます。23-24節を見ると、ヤコブは家族と必要最低限のものしか手元に残していないようです。贈り物の数そのものにヤコブの真心が込められています。
「そして彼は自分の男奴隷たちの手の中に群れ(と)群れを別々に与え、自分の男奴隷たちに言った。『あなたたちは私の顔の前で渡れ。そして間隔を群れと群れとの間に置け』。そして彼は先頭の者たちに命じた。曰く『エサウ・私の兄があなたに出逢う時に彼はあなたに尋ねる。曰く「あなたは誰に属するのか(LMY)。そしてあなたはどこに行くのか。そしてあなたの顔の前のこれらは誰に属するのか(LMY)」。そこであなたは言え。「あなたの男奴隷に属し・ヤコブに属する。これは私の主人に・エサウに送られている贈り物。そして見よ。彼(ヤコブ)もまた私たちの後ろに」』」(17-19節)。
二手に分けた後の、自分の手元にある群れをヤコブは細分化します。おそらく贈り物を四分割しています。山羊の群れを先頭の第一集団に、第二集団は羊の群れ、第三集団はラクダと牛の群れ、第四集団はロバの群れです。新共同訳ではこの区分が分かりにくいのですが、原文では15-16節の接続詞「と」の使い方から4つのグループ分けが推定できます。
「そして彼は第二の者にも、第三の者にも、その群々の後ろを歩く全ての者にも命じた。曰く。『あなたたちが彼を見つける時に、エサウに向かってこの言葉のように言え。そして次のようにも言え。「見よ、あなたの男奴隷ヤコブは後ろに」と』。なぜなら彼は言ったからだ。『私は、私の顔の前を歩く贈り物によって、彼の顔を覆いたい。その後で私は彼の顔を見たい。もしかしたら彼は私の顔を上げるかもしれない』と。そしてその贈り物は彼の顔の前を渡った。そして彼自身はその夜その陣営(マハネー)に宿泊した。」(20-22節)。
グループを増やし回数を分けることは、最小限の被害で食い止める危険回避の工夫です。そして贈る回数を重ねることによって、ヤコブはエサウの顔色を伺っています。受け取り拒否や強奪が起こったら、その知らせがすぐにもたらされ、次の行動が変更されます。
本日の箇所は、「顔」が一つの鍵語です。この単語は、次週の「ペヌエル(神の顔)」(31節)という名づけの伏線になっています。「顔」はその人の存在そのものを象徴します。ヤコブは自分の顔の前に贈り物を渡らせ、自分の顔とエサウの顔との間に贈り物を挟み、両者に適度の距離を与えます。イエス・キリストという贈り物が、敵対する両者の間に置かれる時に隔ての中垣が壊され平和が作られるのと同じです。
エサウの憎しみに満ちた顔を贈り物で覆い隠すことは、エサウを「宥める」ことです。顔を覆う=宥めるは、ヘブライ語の熟語表現です。顔を覆うことは兄弟殺しの罪を防ぎます。顔覆いは憎悪を濾過するイエス・キリストというフィルターです。その意味で宥めることは「贖う」こと、未然に救うことです。
ヤコブは顔覆いをした後で、エサウの顔を見たいと願います。やはり顔と顔とを合わせる交わりが回復されなければ和解は成り立ちません。ただし、それは互いをおぼろげに見合うということです。その方が喧嘩にならないからです。相手を実はそんなには知らないのに、知ったと思い込むことは良くない。相手の顔を見ることは支配することにつながります。誰もまじまじと、じろじろと顔を見られたくないものです。キリストというフィルター越しにぼんやりと見合うことがキリストの教会の交わりです。
私たちが隣人に望むことは顔を上げてもらうという行為です。日本語にも「顔を立てる」という表現があります。尊重するという意味です。ヘブライ語で「顔を上げる」が「許す」という意味になるのも似た事情です。存在そのものが下から上に持ち上げられることだからです。これは何か悪事をしてしまった人を事後に救うことです。エサウを二度に渡って騙して権限を奪い取ったヤコブの存在が、エサウによって持ち上げられるのかどうか。それは社会で悪事を行った人が社会で生き直すことができるのかどうかという問いにつながります。
殺されないための工夫だけでは、この根源的な課題を克服できません。共同体から追放されたヤコブは、共同体にどのようにして戻ることができるのでしょうか。ヤコブの全存在をかけた悔い改めのメッセージがなければ、エサウの全存在も揺り動かされない、エサウが意見を変えることは難しいでしょう。ここで暗号とその解読が必要とされます。
一体なぜ、200頭の雌山羊と20頭の雄山羊、200頭の雌羊と20頭の雄羊、30頭の乳を飲ませているラクダとその子たちと40頭の雌牛と10頭の雄牛、20頭の雌ロバと10頭の雄ロバなのでしょうか。合計550頭の家畜をなぜヤコブはエサウに、断続的に贈ろうとしているのでしょうか。
エサウたちは401人で来つつあるのに、550頭の贈り物では半端です。また雌雄のアンバランスは贈り物として配慮に欠きます。グループごとも不揃いです。なぜ山羊と羊は10:1なのに、牛は4:1、ロバは2:1なのでしょうか。しかもラクダはさらに不規則です。雌雄ではなく親子一つの塊で30頭にしています。そしてラクダだけが無理矢理牛とコンビを組まされています。わざと違う数字を選んでいるし、何らかの意味付けのあるグループ分けのように見えます。
ユダヤ教徒のまねをした解釈を試してみます。個々の数字に注目した暗号解読的な読み解きです。ヘブライ語のアルファベット22文字は1から400までの数字を代用できます。最初の文字アレフは「1」、最後の文字タウは「400」をも意味します。もしかするとこれらの数字をアルファベットに置き換えて、グループごとに単語を形成すると意味をなすかもしれないと思いつき、試してみました。ヤコブの置いた群れ同士の間隔は、単語間のスペースです。
200=R、20=K、30=L、40=M、10=Y、550=400+100+50=TQN。並べるとRK RK LMY KY TQNです。これはかろうじてヘブライ語として意味をなします。「弱い者、弱い者は誰に属するのか。なぜなら、彼は真っ直ぐになったのだから」。四つのグループは一単語ずつに相当します。「弱い者RK」「弱い者RK」「誰に属するのかLMY」「なぜなら~だからKY」というように。そして最後に全ての数字を合計した550を400+100+50と分解すると、「彼は真っ直ぐになったTQN」という単語ができ、一文が完成します。
ここにヤコブがエサウに伝えたかったメッセージが暗号として示されています。「自分は弱い者である。本当に弱い。そして自分はあなたのものである。なぜならかつてあなたを騙した心の曲がった自分が、今は真っ直ぐに悔い改めているのだから。もう弟と呼ばれる資格はない。どうか雇い人の一人にしてほしい。」この夥しい贈り物には、ヤコブからエサウへの真心が詰まっています。どんな捧げ物よりも喜ばれるのは、本心に立ち返る存在・悔い改めた悔いた魂です。エサウも、そして神も、それを決しておろそかにはしません。
最初の山羊の群れがエサウに出会います。それが200頭・20頭です。すると、エサウはヤコブの男奴隷に、「あなたは誰に属するのかLMY。これらの群れは誰に属するのかLMY」と尋ねます。答えは「これはあなたに属するヤコブに属するもの、200頭・20頭の贈り物です」。二番目の者にもエサウは尋ねます。答えはほとんど同じです。ここでエサウは、謎解きを始めるでしょう。これには意味があるのではないかと数字を文字に直すのです。RK、RK。弱い、弱い者とは誰のことか、エサウかヤコブか。そして三番目の者に出会ったとき、自分の問いが逆に問い返されます。30頭・40頭・10頭LMY「誰に属するのか」。弱い者ヤコブは、エサウに属すると言っていると、エサウは了解します。ヤコブはエサウに対して恭順の意思を示しているのです。
さらに四番目の20頭・10頭KYが来て、エサウは考え込みます。「なぜなら~だからだ」という接続詞。これは次の単語を要求します。しかし、これで贈り物は最後です。しばらく待ってからエサウは、贈り物の頭数を合計します。550頭。これで単語を作るとすれば400+100+50=TQNです。「彼は真っ直ぐになった」。ヤコブは真っ直ぐになった。だから許して欲しいと言っている。
エサウとヤコブは双子です。双子には双子だけの世界があります。生まれた時から同級生がいる環境です。そこで文字遊びをしていたかもしれません。二人だけにピンとくる話は多いものです。エサウはヤコブの暗号を正確に理解し、暗号の解読に成功したと推測します。双子の兄だからです。それを期待してヤコブは必死に贈り物を選んでいたのでしょう。双子の弟だからです。そして自分の使いの者たちに、ヒントを授けていたのでしょう。「誰に属するのかLMY」という単語をあえて使って意識付けをしているのはそのためです。
この贈り物にはヤコブの才覚が詰まっています。救われたいという希望も詰まっています。そして、エサウとの和解を果たしたいという真心も詰まっています。二人にしか分からない暗号の使用は、これらすべてをユーモアでくるんでいます。21節「思った」(新共同訳)は、直訳「言った」です。まだヤコブの祈りは続いています。神からの明確な応えが得られない中、祈りの最中にヤコブは一日がかりでできる限りの行動に出たのでした。14節の宿泊から22節の宿泊は丸一日の出来事を記しています。危機にあってヤコブは、祈りながら行動し・行動しながら祈り、一日を生き切ったのでした。
今日の小さな生き方の提案は、ヤコブに倣うことです。祈りの応えがなくても、祈りつつ行動し・行動しつつ祈ることです。そうして向き合いたくないことがら・人物に向き合うのです。そのようにして一日一日を、神の顔の前で、キリストに顔覆いをしてもらいながら、隣人と顔と顔とを合わせて、互いに顔を持ち上げながら、誠実に生きていきましょう。自分の弱さを自覚し、キリストに属し、キリストと共に真っ直ぐという道を歩いていきましょう。