はじめに
待降節の第四週となりました。第一の蝋燭から「希望」「平和」「喜び」と進んでまいりました。第四の蝋燭のあだ名は「愛」です。クリスマスは愛とは何かを考える季節です。そしてまた、愛とは何かを聖書から示され、すでに与えられている神さまからの愛に感謝し、実際にわたしたちも愛を行うようにと促される季節です。
結論を先取りして言うならば、愛とは与える行為です。博士たちが行ったことです。博士たちをヒントにして、神さまが行った愛について考えてまいりたいと思います。
7 その時ヘロデは密かにその博士たちを呼んだ後、星の現れたその時を彼らによって確かめた。 8 そして彼らをベツレヘムの中へと送った後、彼は言った。歩いた後、あなたたちは注意深くその子どもの周辺を精査せよ。さてあなたたちが見出した時にあなたたちは私に通知せよ。その結果私もまた来た後、彼に跪拝するだろう。 9 さて彼らはその王に聞いて後、彼らは歩いた。そして、何と、彼らがその曙光において見た星は彼らに先立って導き続けた、それが来るまで。それはその子どもが居続けたところの上に立った。 10 さてその星を見た後、彼らは非常に大きな喜びを喜んだ。 11 そしてその家の中へと来た後、彼らは彼の母マリアと共なるその子どもを見た。そして落ちた後、彼らは彼に跪拝した。そして彼らの宝(箱)を開いて後、彼に贈り物を差し出した。黄金と乳香と没薬を。 12 そして夢によって、あなたたちはヘロデに向かって戻るなと告げられた後、他の道を通って彼らは彼らの地域の中へと戻った。
ヘロデの欺瞞
ヘロデ王は博士たちを密かに呼んで、キリストはベツレヘムに生まれたと教えます。「密かに」(7節)という言葉は、1章19節にも用いられていました。ヨセフがマリアとの婚約/結婚を解消しようとする時の言葉です。隠されていることで明らかにならないものはありません。1章と2章は、密かに行う行為を批判しています。そのような計画は結局のところ地上に実現しないものです。むしろ、ヘロデ王はキリストがベツレヘムで生まれたことを公表すべきだったのです。そして全ての人がイエスを礼拝することができるようにすべきです。しかし彼はそうしません。なぜなら彼はイエスを密かに殺そうとしていたからです(16節以下)。だから「私もまた来た後、彼に跪拝するだろう」(8節)というヘロデ王の言葉は嘘です。
権力者が嘘をつき、そして秘密の暗殺計画を進めるということが、マタイのクリスマス物語の独特な「影」です。生まれたばかりのキリストは、死の陰の谷を歩かなくてはならないのです(13節以降)。ルカのクリスマス物語はローマ皇帝アウグストゥス(ヘロデ王の庇護者)が税金をもっと多く徴収するための人口調査を実施したこと、そのためにマリアとヨセフがベツレヘムに来なければならなかったと告げています。ルカ伝においてもローマの権力者はある程度の「影」を落としていますが、マタイ伝のヘロデ王ほどではありません。マタイのクリスマス物語は、マリアとヨセフとイエスがベツレヘムに定住しなかった理由を説明しています。彼ら彼女らは虐殺を逃れてベツレヘムからエジプトへ、さらにエジプトからナザレへと旅を強いられます。
世界の影/陰/闇は深まっています。そして強烈な影が落ち、闇が深ければ深いほど、星は輝きを放ちます。暗い計画が進む中も、同時に、星が博士たちを先立って導いております。それは復活の光です。
ベツレヘム
「ベツレヘム」(8節)という地名は二つの要素の組み合わせです。「ベート」(家の意)と「レヘム」(パンの意)です。この語順では「パンの家」という意味になります。キリストがベツレヘムで生まれた意義は、ダビデ王が生まれたからという理由だけではないと思います。1章の系図によれば、キリストはダビデの子孫ではありません。ヨセフはダビデの子孫ですが、そのヨセフとイエスは血縁関係がないからです。
マタイ伝によれば、ナザレから南のベツレヘムへの旅は、その後のさらなる南への旅、エジプトへと逃げるためのものです(13節)。そしてマタイ伝においては母マリアよりも父ヨセフが主人公です。ヨセフがエジプトへと導くという筋立ては、ヤコブ一家が飢饉による死を免れるためにエジプトの総理大臣ヨセフを頼って、エジプトへ逃げるという筋立てと重なっています。ヤコブたちはパンを求めてエジプトへ行きます。その時エジプトこそが「パンの家」だったからです。
またヤコブという人は基本的に北の方に住んでいました。ヤコブゆかりの地はシケムにせよベテルにせよ北です。ヤコブは北から南へと移住し、途中のベツレヘム近郊で妻ラケルの死と末子ベニヤミンの誕生を経験し(この経験もクリスマス物語と重なります)、最終的にエジプトで死にます。北から南への移動というルートと最終地点エジプトも重なります。
キリストがベツレヘムで生まれたということは、ヤコブとラケル夫妻の物語や、その二人から生まれたヨセフとベニヤミンの物語を思い起こさせます。ダビデ王との重なり合いではなく、族長たちとの重なり合いが、クリスマスを豊かなものにします。ヤコブはラケルとの結婚のために20年ただ働きをしました。ラケルはベニヤミンを生むために死という代価を払いました。ヨセフはヤコブたちのためにパンを惜しみなく与え、最終的には家族全員を養いました。しかもその家族とは自分を半殺しにして奴隷として売り飛ばした兄たちでした。ヨセフは弟ベニヤミンを心から愛し偏愛していました。これらの行為が愛というものを教えています。
黄金、乳香、没薬
「曙光」(9節)の昇る東方メソポタミア地方のウルから、そしてアラムのハランを経て、移住してきたアブラハムとサラとロト家族のように、同じ道を通って博士たちはキリストのもとに来ます。神はアブラハムとサラに「夜空の星を見よ」と言いました。あなたたちの子孫は天の星のように数えきれないほど多くなるという約束を与えるために、星を見よと言われたのです。アブラハムとサラは空の星を見るたびに、自分たちによって祝福に入る多くの民の姿を見ました。ユダヤ人だけではありません。そのころユダヤ人というものは存在していないからです。
博士たちは数限りない星の中から、今まで見たことのない、異彩を放つ星を見て、その星に導かれて旅をしてきました。彼らの目には、その星に向かって全ての星がひれ伏して礼拝しているように見えました。彼らは、高価な贈り物を捧げることを決意します。その捧げ物をもって、キリストを礼拝することを決意します。そしてどれほどの遠い距離だったのでしょうか、時間と労力を捧げることを決意します。「全ての星が拝む星を、ユダヤ人ではないけれども全ての民の一人として、ユダヤ人の王を、また世界の救い主をわたしたちもまた拝みに行こう。」こうして創世記12章の言葉が実現しました。
「黄金と乳香と没薬」(11節)は、いずれも高価なものでした。「宝」とある通りです。博士たちは身を切る思いで贈り物を捧げ、自分のために用いなかったのです。なぜ、この三つの贈り物だったのかについては、中世以降キリスト教の歴史の中でさまざまな解釈が施されてきました。たとえば、「黄金」はエジプトへと逃げる旅の路銀のために、「乳香(香木から取った乳白色の香)」は馬小屋の動物臭をかき消すために、「没薬(死者のために塗るミルラという木の樹液)」は十字架の死の先取りとしてというような解釈です。実際には、すべて高価なものですから、エジプトへの旅、そこからナザレへの旅の中ですべて金に換えて用いられたのだと思います。難民として生きるということは、過酷なことなのだと推測するからです。
このような後世のクリスチャンによる解釈はとても示唆に富みます。特に没薬が十字架の先取りであるという理解は、福音書を編んだマタイ教会の中にあったように思えるのです。生まれたばかりの赤ん坊への捧げ物として、死んだ人のための樹液は、いささか場違いのものでしょう。この「没薬」(スミュルナ)という単語は聖書に2回しか登場せず、ヨハネ福音書19章39節ではイエスの遺体に対して塗るべき薬として用いられています。博士たちは期せずしてイエスの十字架の死を預言しています。イエスの示した愛が何であるのかを読者に問うています。愛とは受けることではなく与えるという行為です。隣人のために贈り物を買い、自分の手で渡すことです。お金だけではなく時間や労力や名誉も含めて何かを犠牲に支払うという行為です。「あなたも行って同じようにしなさい」と良いサマリア人になるようにとイエスは命じています。愛とは利他的な行いです。
イエスの勧める利他的な生き方には但し書きがあります。「ただし生命を捧げるという行為は自分で最後にするように、そのために自分は生命をも与える」という禁止命令も付いているのです。どんなに利他的な生き方をしたとしても、自分の生命を損なってはいけません。誰かのために生命を犠牲にせよという教えは、たやすく国家のために殉ぜよとか、沖縄を犠牲にしてしかるべきという考えに流れていくものです。博士たちが無事に逃げ帰り自らの生命を守っていることは大切な行為です。贈り物・財産という犠牲、時間と労力という犠牲を支払っても、彼らは命を捧げてはいません。没薬を捧げられる赤ん坊はイエス限りで終わらすべきです。
今日の小さな生き方の提案
クリスマスは贈り物をする季節です。その起源は博士たちや族長たちにあります。彼ら彼女たちは利他的な生き方を示しました。隣人のために自分を犠牲にして与える行為が愛というものです。愛の模範はイエス・キリストにあります。彼は病人に触れて病を癒し神の呪いを身に受けます。あえて法律を違反して徴税人・娼婦の友となり名誉と法の保護を失います。神殿の周辺で不正に富を集める者を指摘し貧しい者を弁護し、その結果死刑にされます。全てを与えた結果の死です。隣人に命を与えたイエスを、三日目に神が起こします。神が世に神の子を与えた理由は、復活の生命を世に与えるためでした。贈り物をする風習の起源は実は神に遡ります。イエスの殺害と生命を神から与えられた者は、自分も他人も大切にしながら互いに利他的に生きることができます。