死後の世界を語ることには躊躇があります。躊躇のあるほうが健全です。誰も死後の世界のことを知らないからです。「見てきたような嘘」を言う可能性があるので、そこには謙虚さが必要です。およそ「悪徳宗教」と呼ばれるものは、死後の世界についての無知につけこんで、法外の寄付を要請したりするものだからです。また、この世の生き方において信者に現実逃避を促すだけならば、その類のあの世の教えを垂れ流す宗教はアヘンでしかないでしょう。「国のために死ね」という教義も国家宗教の持つ危険性です。
にもかかわらず、わたしたちは死後の世界を語らなくてはいけません。そこに宗教というものの社会貢献があるからです。宗教が人類史に芽生えた原因は、<死についての意味づけ>にあります。死という厳粛な事実をどのように考えるのか、あらゆる宗教はそれぞれの語り方を持っています。先ほど述べた宗教による搾取や麻薬や国家の悪用にならないような<死についての意味づけ>が必要です。また同時に、死とは何かを考える生者の人生が豊かになるような<死についての意味づけ>が必要となります。たとえば、「死んだらすべてはおしまいなのだ」という語りも、一つの<死についての意味づけ>であり、ある意味、現在の人生を大切に生きようというメッセージを含んでいます。
ヨハネ福音書14章は死後の世界を語っています。これは珍しい現象です。全体として著者ヨハネは、イエスと共に今を生きるということに力点を置いているからです。「世の終わり」についても語らないし、あの世に関心があまりありません。ついでに言えば、ヨハネ福音書の中の「世の終わり」の記述部分は、元々の著者の筆ではなく後代の加筆です(5:19-30、6:38-40)。今日の箇所で言えば、3節がその加筆にあたります。
この死後の世界についての教えを、キリスト教全体が持つ<死についての意味づけ>と関係させて、お話をいたします。死とは何か、あの世とは何か、世の終わりとは何か、それは今を生きるわたしたちの生き方にどのような良い影響を与えるのでしょうか。
「わたしの父の家には住む所がたくさんある」と2節にあります。この言葉は、死がすべての終わりではないことを示しています。人は死ぬと、イエスがアッバ(おとうちゃん)と呼ばれた神の家の中にある住む所に行くのです。「神の家」とは、この場合、天国=あの世のことです。おそらくは別の身体となって、死者は神のもとに行く。その場所がどこかということは意味がありません。宇宙飛行士も発見できないところです。別の身体なのですから、物理的空間的な場所を想定する必要はありません。
より大切なことは、神のもとというところは、ヨハネ1章によればイエスが元々居たところであるということです。しかもアッバのふところ(コルポス)に居たと書かれています(1:18「コルポスの中へと」)。この場所は、著者ヨハネ自身、最後の晩餐の時に居た場所です。彼はイエスのふところの中に居ました(13:25)。そこからイエスはこの世に派遣されたのでした。そして仕事を終えて、イエスは神のふところの中に戻っていきます(14:12)。だから死んだ人は、神のふところの中・イエスのふところの中に行くのです。そのイメージは、神と一緒に楽しい食卓を囲むというものです。
このような天国に行くことを「救い」と考えるということは、ご飯を人と一緒に食べることができない状態が前提になっています。食卓を共にできないほどに人から遠ざけられ、神から最も遠い人と決めつけられみなされていた人にとっての天国は、このような場所でなくてはいけません。
ルカによる福音書16章19節以下の天国のイメージは、今申し上げたことと重なり合います。これはイエスのたとえ話です。金持ちと貧乏人ラザロが死んだ後に、金持ちは地獄に行き、ラザロは宴席に着くアブラハムのふところの中に行くという話です。22節「コルポスの中へと」は、ヨハネ1:18とまったく同じ表現です。アッバとアブラハムは語呂合わせにもなっています。この地上で飢え、路上生活を強いられ、苦労をしたラザロは、天国に行って住む所を得て、腹いっぱい食べ、神との交わりを楽しむことになるのです。
イエスの弟子たちは、イエスの人格全てを心から信頼して、その信によってイエスを通って死後天国に行き、神と出会い、神と食卓を囲みます。彼ら彼女らも空腹を覚えながらも、職を捨てて、ホームレスとなり、イエスと共に旅を続けてきました。ラザロの気持ちがよくわかるひとりひとりです。イエスは自分が死ぬ直前に、「わたしもアッバのふところに戻るが、あなたたちもアッバのふところに行く」という慰めを与えたかったのでしょう。
しかしその天国での生活は最終的な救いではありません。なぜなら地上には飢えや貧困、平和の無い状況が絶えないからです。なぜなら、天国での生活が神との会食であり決して「永眠」ではないからです。先に天に召されている者たちには使命があります。イエスと共に、世界の救いを完成させるために、未来の方からこの世に歩いてくることです。イエスの食卓をこの世界に完全に実現する群衆となることです。世の終わりの救い、これを終末論と言います。
3節には明確に終末論があります。イエスがこの世に戻ってくること、これを来臨とも再臨とも言います。それは弟子たちをイエスのもとに迎えるためのものです。共にイエスの食卓に連ならせることの完全な実現は、世の終わりにあります。これこそ主の祈りで祈っている内容の実現です。神の意志が天で行われているように地上でも行われるということは、世の終わりに実現します。その時、あの世がこの世に来るのです。その時、その日一日のパンを永遠に神と共に食べることができるようになります。その時、すべての人が「イエスは主だ」と主の名を呼び、主を崇める礼拝をすることになります。
死とは神のもとに行き神に会うことです。死後の世界は神と食事をしながらこの世への旅をすることです。世の終わりとはこの世とあの世がくっついて全世界が神を礼拝するとき・主の晩餐が完全に行われるときです。
この死後の世界についての教えは、イエスを信じる人への慰めを与えます。安心して死ねるからです。そしてイエスについて知らないままに死んだ人の家族にも慰めを与えます。どんな人も少なくとも二回の機会があります。神に会う機会、そしてイエスを救い主と信じる機会は、①死んだときと、②世の終わりのときに用意されています。地獄や神の永遠の裁きを強調するよりも、むしろ愛に根差して神の無条件の愛を語るほうが望まれます。すべての命を神は救うために創られたという神の善意を疑う必要がないからです。
長々と死後の世界について申し上げたのは、わたしたちが生きるためです。それも倫理的により良く生きるためです。今まで申し上げた中にも、自分自身も含め社会の中で苦しむ人の救いが、個人が天国に行くことや世界全体が世の終わりに救われることに関係していることが明らかです。生きることと関係しない永遠の命は単なるアヘンです。
生きるということは「道」という単語で表されています(4-6節)。その生き方がより良い生き方であり倫理的なものであることは「真理」という単語で表されています。さらに、この世とあの世が関係していることは「命」という単語で表されています。
トマスは問います。「イエスの行く道を知らない、どうすれば知ることができるのか」(5節)と質問をします。ヨハネ福音書のトマスは非常にいい味を出しています。要所で必要な発言をするからです。イエスは、自分自身が道、真理、命であるという謎めいた答えをします。このことは二つの意味を含んでいます。
一つには、イエスが模範であるということです。愛するという生き方の模範をイエスに定めなさいということです。トマスが弟子としてイエスの後ろを歩いている限り、イエスの生き方を真似できるのですから、イエスの道を歩くことができます。それは仕えるという生き方です。ここに神の国(あの世)の倫理があります。この地上の常識とは異なる真理の教えです。そして互いに足を洗い合い、主人が奴隷になるような愛を示す人は、永遠の命を生きています。輝いて生きているからです。「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」(12節)。この意味で、イエスは道、真理、命です。
もう一つには、イエスが無条件の赦しを示しているということです。道とは人に踏みつけられる存在です。イエスが道であるということは、弟子たちや全ての人にこの後に踏みつけられ十字架で殺されることによって明らかになります。それは全ての人が倒錯した生き方をしていることを示すためです。どんなに良い人でも誰かを踏みつけにしている、その意味ですべての人は罪びとです。キリストの十字架はその真理を端的に示しています。しかも、その十字架と復活は逆転装置となって、倒錯したひとりひとりに永遠の命を振る舞うためのものでもあります。もし、十字架のイエスをキリストと信じ、イエスをよみがえらせた神を信じるならば、罪びとはそのままで命を受け取ります(1節)。十字架に至るまで従順だった神の子のために、神は栄光を受けます(13節)。この意味でも、イエスは道、真理、命なのです。
フィリポは求めます。「わたしたちにアッバと呼ばれる神を見せてほしい」と要求します(8節)。イエスは、「わたしを見た者は神を見た」「わたしの内に神はおり神の内にわたしがいるということを信じなさい」「それができなくてもわたしの行為そのもので信じなさい」と答えます(9-11節)。もし神が地上に降り立ったならイエスのように振る舞うことを信じなさいということです。イエスと長い間一緒にいる人は、神をすでに見ているのです(7・9節)。
神を信じられない人のために神の子イエスはこの世に遣わされました。イエスの周りに居ることができた人々は大変に光栄です。イエスを通して神を見ることができたからです。イエスはすでにアッバのもとへ行き(12節)、いまだ地上に戻ってきていません(3節)。わたしたちはこの中間の時代に生きています。中間の時代に神を見る方法は二つです。聖書と聖霊です。次週、ペンテコステにおいて聖霊についてはお話をします。
聖書という本は神を見るための本です。キリスト教はユダヤ教から「正典」という考え方を踏襲しました。聖書は神を啓示する神の言葉であると信じられています。そのように信じた人々が聖書を編纂していったのです。だから種々の加筆があっても構いません。神を啓示するための加筆であるならば問題ないし、むしろ証言が豊かになると考えるべきです(21:24「わたしたち」という編集者団)。
言い方を変えると、神を見るために聖書を読むということは、元々の著者たちの意図に適っているということです。神を信じる者たちが、神を紹介するために書いた本だからです。この目的に沿って聖書を読んでいくこと、今日の小さな生き方の提案はそこにあります。田中正造という足尾鉱毒事件に一生関わった人は、頭陀袋ひとつを残して死にましたが、その中に聖書があったそうです。神を見るために読む聖書は、真理の道を歩む命を与えてくれるものです。