1 そして彼は、彼の家の上にある者に命じた。曰く「あなたはかの男性たちの袋を満たせ、彼らが運ぶことができるのと同じ食料(で)。そしてあなたは各人の銀(を)その袋の口に置け。 2 そして私の杯、かの銀の杯を、かの最も小さな者の袋の口に置くように、また彼の穀物の銀を(置くように)」。そして彼は、彼が語ったヨセフの言葉どおりに行った。
したたかに飲んで楽しく酔いしれていたヨセフですが、その一方でまったく酔っ払っていない部分がありました。ヨセフは、酒宴の最中にあの筆頭執事(43章16節他)に密かに指示をしていました。前半の命令は(1節)、過去の命令と同じですから、筆頭執事も驚きません(42章25節)。なぜか主人は、この兄弟たちの代金を自分で支弁して、兄弟たちに穀物を無償で提供していることを、筆頭執事は知っています。彼は主人の親切を知っているので、兄弟たちが慌てている時も「シャローム、あなたたちのために」(43章23節)と優しく語りかけています。主人は常にこの兄弟たちに善を行おうとしているのですから。
しかし、後半の命令は(2節)その彼でも理解しにくいものでした。末弟ベニヤミンの袋の中に「銀の杯」を入れるということは、ベニヤミンに対する贈り物なのでしょうか。贈り物にしてはあまりにも実務に支障をきたすものです。当時、油占いというものがあったそうです。杯に水や酒を注ぎ、その上から油をたらし、その時の音や表面に浮いた油膜の動きで将来を占うというものです。ヨセフが夢占いによって総理大臣の地位に上り詰めたことは有名な話だったことでしょう。だから銀の杯はヨセフの大切な仕事道具でもあります。ファラオから与えられたものかもしれません。
「大切な銀の杯をいくら気に入っているからといって内緒で贈り物にするだろうか。それとも、末弟に冤罪をこうむらせるためなのだろうか。そのためにカナンの地から末弟を呼び寄せることに努めていたのか。一体主人と11人の兄弟とは何の関係があるのか」。彼は頭を高速回転させましたが黙って主人ヨセフの言うとおりにしました。謎の指示の理由について、いずれ分かるかもしれないし永遠に分からないままかもしれない。主人が理由を伝えない指示についてはあれこれ詮索して手を止めないこと。頭を止めて手を動かす。組織の人である筆頭執事の人生訓です。
3 かの朝が光(となった)。そしてかの男性たちは送られた、彼らと彼らのロバたちとは。 4 そして彼らはかの町を出た。彼らは遠くへ行かなかった。そしてヨセフは彼の家の上にある者に言った。「あなたは立て。あなたはかの男性たちの後ろを追え。そしてあなたは彼らに追いつけ。そしてあなたは彼らに向かって言え。『なぜあなたたちは善の代わりに悪(を)報いたのか。 5 これは私の主人がそれによって飲むものではないか。そして彼はそれによって確実に占い当てる。あなたたちは悪をした、あなたたちがしたこと(で)』」。 6 そして彼は彼らに追いつき、彼らに向かってそれらの言葉を語った。
酒宴の翌朝11人はエジプトの首都を後にします。前回に比べて順調な穀物の購入でした。何らの言いがかりもつけられず、シメオンも解放され、ベニヤミンにも何も起こらず、袋には満杯の穀物があり、前回の支払いもそのまま戻ってきました(今回の支払いも償還されているのですが、この時点では誰もそのことに気づいていません)。「こんなことなら最初からベニヤミンと一緒にエジプトに来るべきだった」と思いながら、また、「エジプトの肉鍋はおいしかった」「案外総理大臣は愉快なお酒を飲む人だった」「筆頭執事さんも気が利く人だし」などと思いながら、11人兄弟は帰り道につきます。
しばらくしてヨセフは最後・最大の試験の仕上げを始めます。それは「あの事件」、すなわちヨセフに暴行を加えた上でエジプトに売り飛ばしたあの事件を、兄弟たちが真に悔い改めているかどうかを試すという試験です。確かに今までのところベニヤミンはその他の兄弟10人と仲良くしているように見えます。それは要領の良いベニヤミンの努力によって成り立っているのかもしれません。本当のところ10人の兄たちは悔い改めているのでしょうか。この間ヨセフにした悪を悔い改めているような言葉も聞こえました(42章21-22節)。あの言葉は本心に立ち返ったものだったのか。土壇場になったら自分と同じように「ラケルの息子」を切り捨てようとするのではないか。悔い改めは、誠実な謝罪と賠償によって成ります。生き直し、生き方を180度方向転換することです。ヨセフは兄弟たちの信実を試します。
ヨセフは筆頭執事に「すぐさま追いかけて、末弟に冤罪をかぶせて、こちらに連れ戻せ」と命じます。冤罪の仕掛けを下ごしらえしたのは筆頭執事ですから、彼は主人の意図を知ります。「随分と酷なことをなさる。天国から地獄とはこのことだ」と思いながらも、彼はヨセフが試験を行おうとしていることを推測します。「カナンにいる父が贔屓している末弟がエジプトに留め置かれるような事態になった場合の、他の兄弟たちの反応を知りたいのではないか。なぜこんな試験をしたいのかは分からないけれども、極限状態で末弟を兄たちがどう扱うかが主人の出したいお題なのだろう」と察しをつけています。そして主人の言葉をそのまま兄弟たちにぶつけたのです。「なぜあなたたちは銀の杯を盗んだのか。主人はこの杯で酒を飲むこともするが、主人が占いの時に用いる大切なものだ。なぜ悪をもって善に報いるのか」。
7 そして彼らは彼に向かって言った。「なぜ私の主人はそれらの言葉のように語るのか。あなたの奴隷たちにとってそのことをするのはとんでもない。 8 見よ、私たちが私たちの袋の口で見つけた銀(を)カナンの地から私たちはあなたのもとに返した。そしてどうして私たちがあなたの主人の家から銀や金を盗むだろうか。 9 あなたの奴隷たちからそれと共に見つけられる者、すなわち彼は死ぬ。そして私たちもまた私の主人に属する奴隷になる」。
11人はびっくりし、また憤って反論します。彼らは目の前の筆頭執事がベニヤミンの袋に銀の杯を入れたことを知りません。この状況は、読者にラバンとヤコブの物語を思い出させます。かつて祖父ラバンは父ヤコブに「お前は私の神像を盗んだ」と疑いをかけました。ラケルが盗んだことを知らないヤコブは、ラバンに向かって非常に強い口調で反論しました(31章32節)。9節の兄弟たちの言葉は、単語も構文もヤコブの言葉とそっくりです。「神像/銀の杯と共に見つけられる者は死ぬ」。また神像や銀の杯が、メソポタミアやエジプトといった先進地域で信仰の対象や占いの道具であることも似ています。
これはヨセフと10人の兄たちに共通の思い出です。ベニヤミンが生まれる前、祖父ラバンの家からの脱出という解放を彼らは経験したのでした。あの時、夜逃げを敢行したヤコブ一家は祖父ラバンに途中で追いつかれます。恐怖の体験です。祖父はおっかない顔でレアの天幕、ラケルの天幕、ジルパの天幕、ビルハの天幕をくまなく調べましたが、神像は見つかりませんでした。当時6歳ぐらいのヨセフは、母ラケルが神像を盗み隠していたことを後で教えられます。この経験が、今回の試験のヒントです。30年前のあの時ラバンは見つけられませんでしたが、今この時「ラケルの天幕(ベニヤミンのこと)」から銀の杯を見つけることができたら、どうなるのでしょうか。
10人の兄たちは、あの時の父ヤコブの言い方を覚えています。冤罪をかぶせられた潔白な人は、このように啖呵を切るべきなのです。「盗品と共にいる者は死ぬべきだ(われわれ全員潔白なのだからわれわれは生きるべきだ)」。あの時のヤコブも、濡れ衣をかぶせてきたラバンを痛烈に批判しています。「20年間もタダ働きをさせられても誠実だった私をなぜ疑うのか(31章36節以下)」。ヤコブの息子たちは同じように、濡れ衣をかぶせてきた筆頭執事や総理大臣を「前回の支払いも誠実に返却しようとした私たちをなぜ疑うのか」と痛烈に批判しています(8節)。確かに、銀の杯の持つ占いの価値に興味のないヘブライ人にとっては、それはただの銀です。銀が欲しかったのならば、前回袋に入っていた銀だけで満足するでしょう。
ヨセフは祖父ラバンや母ラケルの振る舞いを参考にしながら、また10人の兄弟は父ヤコブの振る舞いを参考にしながら、その時生まれていなかったベニヤミンをも巻き込んで新たな共通の物語を紡いでいきます。
10 そして彼は言った。「今もまたあなたたちの言葉のように、その通りに・・・。それと共に見つけられる者は私に属する奴隷(に)なる。そしてあなたたちは潔白になる」。
筆頭執事は口ごもります。10節前半の彼の言葉は、文として完成していません。「言うとおりなら良いが」(新共同訳)、「言うとおりにしよう」(協会共同訳)と、正反対の翻訳がありえます。彼らの言うとおりにすべきかどうかを悩んでいたというのが真相でしょう。「確かに今度も兄弟たちが言うように、彼らは誠実であるし潔白だ。しかし、彼らの言うとおりにしたら、残念ながら確実に末弟は死に、他の10人は奴隷となる。それはあまりにも残酷であるし、しかも主人の意図とも異なる。主人は末弟のみがエジプトに留め置かれる場合の10人の反応が知りたいのだから(17節参照)」。
筆頭執事は珍しく口ごもりながら考えを巡らし、少しゆっくりと、ただし明確かつ誠実に兄弟たちに答えます。その答えは、兄弟たちの主張を一部取り入れながら修正したものでした。後に見るように、16節のユダの言葉は10節の筆頭執事の修正を取り入れながらさらに修正を施したものとなります。この両者は自分の主張を修正する構えをもって、向き合い真の対話をしています。
「銀の杯と共にある者は私の奴隷になる。死ななくて良い。そしてあなたたちは潔白となる(元々あなたたち全員潔白なのだから誰も死ぬべきではない)」。彼は、ベニヤミンは死ぬべきではないと考えます。なぜならこれは自分自身が加担した冤罪だからです。おそらく主人も殺そうとはしないだろうとも推測しています。また、連座制(連帯責任)は適用しないと彼は言います。個人の罪は、個人の罪のままです。おそらく主人もこの判決を望むだろうとも推測しています。こうして、ベニヤミンを自分の奴隷にしておけば、いつか彼をカナンの地にいる父のもとへと解放してあげることができるだろう。ベニヤミンが「有罪」となることを知っている筆頭執事は、自分の権限と良心の範囲で精一杯できることを約束しました。ポティファルやヨセフによく似ています。
今日の小さな生き方の提案は、一つは筆頭執事の身のこなしに倣うことです。組織の中で良心的に生きる道を彼は示しています。彼は被雇用者の模範です。主人からの職務命令に忠実でありながら同時に隣人に最大限誠実だからです。
もう一つはわたしたちに共通の経験に注目することです。ラバンの家からの救いを兄弟たちが共有しているように、十字架・復活による救いを全世界は共有しています。それは心を開いて向き合うこと・共に食べること・約束を交わすことの三つが、交わりという救いをもたらすという経験です。教会という交わりはその目印です。分断されたままの東北アジアの平和や人間関係のもつれの修復も、向き合い・食べ・約束することによって成し遂げられます。仮に互いに試し試されても、悪すらも善に変える方が私たちの救い主です。