「光の子として歩みなさい」(エフェソ5:8後半)とはどのような意味なのか、今日、わたしたちの生き方の問題として考えてみたいと思います。聖書が語る「光の子」とはどのような人なのでしょうか。
今年度はヨハネ福音書を冒頭から少しずつ順番に読んでいきます。このような説教の仕方を講解説教と呼びます。今日ははじめの箇所なので、ヨハネ福音書がどのような文書なのかの説明も申し上げます。ヨハネ福音書は紀元後90年ごろに書かれました。後90年ごろというのは重要な年代です。なぜかと言えば、この頃、キリスト教が完全にユダヤ教から破門され「異端」とされたからです。キリスト教がユダヤ教から生まれたことは歴史の事実です。教会はユダヤ教ナザレ派と呼ばれていました。しかし、「人間イエスが神の子である」という考えはユダヤ教正統からは完全にはみ出ています。人間は神になれないし、神は人間にならないからです。神と同等の人間はありえないのです。
キリスト教徒たちは自分たちの教えを宣伝する文書を書き増やしていました。文書を増やして礼拝で用いることはユダヤ教徒の伝統でもあったのです。それらの文書は後に新約聖書となるものです。正統派のユダヤ教徒たちは困りました。どの文書までが「正統」であり、どの文書からは「異端」なのか、言い換えれば、どこまでを聖書とするか決めなくてはいけなくなったからです。後70-90年の長い期間に会議が行われ、聖書の枠組みが定められました。それが今日の旧約聖書です。新約聖書が生み出されることにより、旧約聖書の範囲が定まったということです。
正統文書が確定することによって、ユダヤ教徒は正式にキリスト教徒を破門しました。「異端文書を用いる異端である」という烙印を押したのです。具体的にはユダヤ人社会から追い出したのです。ヨハネもそうですが、初代のキリスト教徒の多くはユダヤ人でした。ヨハネ福音書が書かれた時代というのは、著者ヨハネを含めユダヤ人キリスト教徒たちがユダヤ社会で迫害を受けていた時代です。相手から罵られ、「異端」とみなされ、市民権が剥奪されていた時代です。たとえば、キリスト教徒であると会堂に入ることができなくなります。シナゴーグとも言います。そこは学校でもあり、自治会館でもあり、礼拝堂でもあります。まさに泉教会・いづみ幼稚園のようなものです。地域で教育を受ける権利を奪われる、文字を奪われるということです。
これがヨハネ福音書の背景にあるものです。ですから、ヨハネ福音書には露骨な反ユダヤ主義が描かれます。アウシュビッツ後、このような反ユダヤ主義は到底許される思想ではありません。なぜならヨーロッパで起こったユダヤ人虐殺は、2000年の間断続的に、例外なく、キリスト教徒によって引き起こされてきたからです。ナチス・ドイツのホロコーストはその一部であり、頂点なのです。反ユダヤ主義はヨハネ福音書を読むときの大きな注意点です。深い解釈なしに、反ユダヤ主義を煽ることは避けなくてはいけません。
またヨハネ福音書は二元論が好きです。善と悪、光と闇、信者と非信者、こういった区別が好きです。これもまた、注意しなくてはいけません。あらゆる区別は差別になりうるからです。差別は最悪の形の区別です。そして宗教的な意味づけをした差別は、克服するのに非常に困難だからです。たとえば、ハンセン病の人をユダヤ人社会では宗教的に穢れていると意味づけしました。それは極めて強い差別を社会に根付かせました。イエスはそれをはねのけて患者に触りましたが、その際の周りの驚き、「あれは罪人の仲間だ」という誹謗中傷は、宗教的な差別の強さを証明しています。
二元論の強いヨハネ福音書を読みながら、このような差別という罪を避ける道は一つです。徹底的に迫害された側の文書としてヨハネ福音書を読むことです。貶められ差別され抑圧され、世間から追い出されていた人の描く世界観ならば、強い二元論も許容しようという考え方が必要です。ヨハネが、「闇」と言っているのは、巨大なユダヤ人社会による抑圧を指しています。だから、ヨハネが「光」と言っているのは、大多数のユダヤ人に囲まれた小さなキリスト教徒たちの交わりのことを指しています。アウシュビッツの時代にはこの立場が逆転していただけのことと考えれば良いということです。
そのような大まかな背景を前提にし、具体的に今日の聖句の説明をします。今日のわたしたちにとってこの古代の言葉が何の意味を持つのかを申し上げたいと思います。
著者ヨハネないしはヨハネの教会の人たちは、今日の箇所で天地創造の話を語っています。1節にある「初めに」は、創世記1:1にある「初めに」と単語レベルで一致しています。そしてヨハネ教会はユダヤ人が共有している「初めに神が全世界を創った」という信仰を、キリスト教風に書き換えます。「神さまが世界を創ったときに、実は言が共に居たのだ」と新しいキャラクターを登場させています。
「言(ロゴス)」という単語が何回も繰り返されます。これは誰なのか。ヨハネ教会はイエス・キリストという代わりに「言」とも呼んでいたのです。当時の哲学用語で神のような存在を「言」と呼んでいたからです。だから「言」という単語にそんなにこだわって詮索する必要はありません。要するに、ヨハネは神と同等の存在としてイエス・キリストという方が居て、その方はただの人ではないということ、実は天地創造の昔から居たのだということを力説しているのです。この大まかな内容をつかめばそれで良いわけです。たとえば、「言は神であった」「この言は、初めに神と共にあった」「万物は言によって成った」などの箇所が、イエスと神との同等性を表現しています。
このような教えは、ユダヤ教正統から迫害される内容を持っていました。ユダヤ教は(さらにイスラム教も)厳密な唯一神教です。人間は神と同等ではありえません。ヨハネは教理論争・神学論争をユダヤ教徒にしかけています。そしてわたしたち現代の人間は、このたぐいの宗教論争にうんざりします。人の思想信条は自由であるからです。誰が「正統」で誰が「異端」かなどは、どうでも良いことだからです。あえて言えば、バプテスト派はカトリックからもプロテスタントからも「異端」とされ、迫害され投獄され虐殺されてきたという歴史を持っているのです。その視点から見直すと、教理に照らして光の側と闇の側を区分けすることは、あまり意味をなしません。むしろバプテストの視点から問題となることは、迫害する者たちの正体は何かということや、厳しい迫害の中でどのように信仰を持ち続けるのかということです。
だからわたしたちにとって重要なのは4-5節の内容とその解釈です。「言(イエス・キリスト)の内に命があった。命は人間(人類:本多哲郎訳)を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった(抑圧できなかった)」。ヨハネ教会もイエス・キリストがどのような方であったのかを告白するために福音書を書いています。これからイエスの言葉と行いについて書こうという冒頭です。どのように生きかつ死んだのか、死ぬ前の数年だけを書くというのが福音書という文学の特色です。どのように生きると十字架で死刑に処されるのかということに焦点があります。そしてどのように殺されると復活が起こるのかということに焦点があります。福音書はそういう文学です。
イエス・キリストの生き方・死に方・復活のさまに命がある、これがヨハネ教会及びわたしたち泉教会の信仰告白の内容です。命があるということは、平たく言えば「活き活きと生きることができる」という意味合いです。教理論争よりも重要なことがここにあります。それは明日からのわたしたちの生き方の問題です。どのように生きれば活き活きとなるのか、それともどのような生き方が、あえて言えば、「死んだような」生き方なのか、自分の命を燃やしきっていない生き方なのか、福音書のイエス像を読むと分かるようになるということです。つまり、「光の子として生きる」ということはどのような生き方なのかを福音書のイエスの言行に照らし合せて考えようという勧めなのです。これは現代においても、全人類にとって十分にあてはまる言い方でしょう。
4節にある「光」は、イエス・キリストの生き方でもあり、イエス・キリストそのものでもあります(7節以降参照)。イエスの生き方は暗闇の中の光と同じだと言うのです。ここで暗闇というのは、イエス・キリストを虐殺したすべての勢力をひっくるめた表現です。ヨハネ教会が、ユダヤ人社会を闇・自分たち教会を光と考えていたことの並行事例です。キリストを十字架で処刑したすべての者たちが闇にたとえられ、ただ一人殺されていったイエスが光にたとえられています。5節の「理解しなかった」は「つかむことができなかった」という意味のギリシャ語ですから、「抑圧・制圧・抑止できなかった」とも訳せます。もし、後者の解釈ならばここには復活が語られています。十字架で殺されても、敗北しない生き方がここに示されています。
福音書の示す、十字架へと向かうイエスの生き方とは、他者のための生き方です。それを少数者であっても地道に続けること、それが暗闇の中の光としての生き方です。光の子として生きるということは、闇の中のろうそくのような生き方です。決して昼行灯のようでもなく、また升の下に燭台を隠すのでもなく、この世界が闇であるととらえて、その闇の中で少数者として他人のために生きるということです。
福音書のイエスは、当時もっとも蔑まれていた人たちと交わりを共にしました。ヨハネ福音書でも4章に「サマリア人の女性」との交流が描かれています。ユダヤ人社会から民族差別にあっていた人です。性差別が厳しかった時代でもありましたが、イエスは対等の人として接しました。このような自由な振る舞いによってイエスは権力者たちに嫌われ憎まれ十字架で殺されていきます。
現代の日本においてもまったく同じ構図があります。たとえば、わたしの関わっている市民運動でも、毎年2月11日にデモを行なっていますが、最近は右翼の人々の暴力的な妨害が増えてきました。警察官がわたしたちを右翼から守っているみたいな図式です。韓流ブーム(ドラマや音楽)などへの反発から、新大久保においても朝鮮半島出身者に対する名誉毀損・人権侵害・威力業務妨害に類する暴言・暴行が後をたちません。いわゆるヘイトクライムと呼ばれる、「ある種の人には憎悪を剥き出しにしてよい」という考えです。これは悪質な民族差別・排外主義・暴力・力の濫用です。自分の快感のために・金儲けのために・支配欲のために他人を踏みにじってもよいという考え、これこそ迫害する者たちの正体です。こういった事態を、悪いと知りつつ放置している大多数の態度も含めて、わたしたちは暗闇と呼んで良いでしょう。罪とも言います。
イエスに倣うときに、わたしたちは勇気を出して少数者の側に立つことができます。先程の例でも、ヘイトクライムに反対する署名運動があるのです。小さな声かもしれませんが、一筆書いて意思表示をすることができます。一体どちらが小さく貶められているのか、どちらが自己肥大し傲慢に振舞っているのか、福音書を読むとわかります。なるほど、闇の力は少数者の声を理解しようとしないかもしれません。しかし、常に訴え続けること、あきらめないで「剣を鞘に収めましょう」「剣を鋤に変えましょう」と言うことが必要です。闇は光を抑止できないからです。復活信仰はわたしたちに希望を与えます。あきらめない意思を与えます。
今日から始まる一週間、光の子として歩みましょう。小さな愛の行い・小さな正義の行いを、他者のためにしましょう。暗闇に対して「否」と言い、光に対して「然り」と言う勇気を与えられながら、暗闇の中を歩きましょう。そうすればわたしたちは与えられた命を輝かせて生きること、活き活きと生きることができるからです。