1 さて霊的な諸事柄について、きょうだいたちよ、私はあなたたちに無知であってほしくない。 2 あなたたちは、あなたたちが非信徒であり続けていた時に声を発さない偶像に向かってあなたたちは引き寄せられながら連れて行かれ続けたということを、知っている。
本日は聖霊降臨祭(ペンテコステ)、キリスト教会の誕生日にちなんで、使徒パウロがコリント教会に宛てた手紙の一部を取り上げます。キリストの教会は、イエスの復活とその目撃証言だけでは成立しませんでした。イエスの霊・主の霊・聖なる霊が信徒一人一人に授けられるという出来事があって初めてキリスト教会(ユダヤ教ナザレ派)が生まれました。目撃者に勇気が与えられて、初めて「イエスは主」と公に賛美し礼拝をし、隣人を教会(信徒の自宅)に招くということができるようになったのです。ここに教会の原点があり、信徒の原点があります。自分ではない自分が内側から衝き動かす経験。それがイエスの霊・主の霊・聖なる霊が、自分の内側に宿るという経験です。内なる光である神が語りかけその神の召しに従って生きるとも言い換えられます。銘記すべき「霊的な諸事柄」(1節)です。そしてそれは、旧新約聖書を貫く神の本質「インマヌエル(われらと共なる神)」の究極的なあらわれです。本日の箇所は信仰の原点である「聖なる霊」についてパウロが説明している箇所です。あえて「非信徒であり続けていた時」(2節)を思い出させているのは、「知悉しているはずの原点を思い出そう」「召しそのものを捉え直そう」という趣旨でしょう。
ここには二つの背景/文脈があります。一つはパウロとコリント教会の関係の悪化です。エルサレム教会への寄付をめぐって、パウロとコリント教会はこじれました。信頼関係を立て直すために聖霊について書かなくてはいけないと思い詰めたのでしょう。もう一つは11章に12章が引き続いているということです。11章は主の晩餐について語られています。主の晩餐を行うということと聖霊は関係があるということを思い出してパウロは本日の箇所を書きます。
3 それだからあなたたちに私は以下のことを知らせる。すなわち神の霊において話す者は誰も、「イエスは呪い」とは言わない。そしてもしも聖なる霊におけるのでないならば「イエスは主」と言うことはできない。
「~において」(ギリシャ語エン)という前置詞が頻出しています。鍵語です。下線を引きました。「神の霊において」「聖なる霊における」信徒のあり方がここで規定されています。同じ口から賛美と呪いが同時に出るはずがないというあり方です。「イエスは呪い〔アナセマ〕」「イエスは主」は明確に平行文の一部になっているので、私訳のように語順による主語述語関係を意識して直訳した方が良いでしょう。
「イエスは呪い〔アナセマ〕」は十字架の処刑を思い起こさせます。ユダヤ人にとって木に架けられた者は神によって呪われた存在となります。ユダヤ人がイエスを主と信じるためには躓きとなります。聖霊がその人に働きかけなければ、呪いそのものである死刑囚を救い主と信じることができません。「イエスは主」という信仰告白は、人間業では到達できないのです。パウロは入信・バプテスマという原点を思い出させようとしています(13節も)。
そして「アナセマ」(呪い)という言葉は、「マラナタ」(わたしたちの主よ、来てください/主が来る)というアラム語の言葉と発音が似ています。ここには語呂合わせもあります。だからこそ「アナセマ」と「マラナタ」は並んで登場します(16章22節)。「マラナタ」「アッバ」(お父ちゃん。ローマ8章15節)というアラム語単語を、アラム語を第二言語とするパウロが用いていることにも注目すべきです。この事実はギリシャ語を使う教会であってもアラム語の「礼拝式文(定型句)」を一部使っていた証拠です。コリント教会でもエフェソ教会でも、礼拝の最後の場面(パン裂きか、頌栄か)で「マラナタ」が唱和され賛美されていたと推測されます。パウロは主の晩餐を中心にした礼拝という原点を思い出させようとしています。
入信と礼拝。ここに同じ信徒としての共通の原点があります。共通するところを探る努力がコリント教会との葛藤を解決するとパウロは考えています。どんなに主張が対立しても、聖霊の中にすっぽりと包まれたバプテスマと主の晩餐がわたしたちを一つにするはずであるという期待です。この「同一性」の確認から「多様性」の承認へと筆が進んでいきます。
4 一方諸賜物〔カリスマ〕の多様性(があり)、他方同じ霊がいる。 5 諸奉仕の多様性も(あり)、同じ主もいる。 6 諸作用の多様性も(あり)、一方すべてにおいてすべての諸事柄を働かせる同じ神がいる。
4-5節の「同じ霊」「同じ主(=イエス・キリスト)」「同じ神」には粗削りな形の「三位一体論」があります。キリスト教は厳密には唯一神教ではありません。4-6節で各信徒の「賜物」「奉仕」「作用」の「多様性」が論じられ、その説明として霊・主・神という三者が例示されているように、神は三つで一つです。正確には三一神教。三つで一つの愛の神を信じる信仰です。この聖句には素朴な三位一体論があります。素朴な三位一体論はパウロ系列の教会で使われていたであろう「祝祷」にも共通しています。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」(二コリント13章13節)。三つで一つの愛の神への信仰は、定型句を用いた礼拝の中で形成されたものです。本日の箇所の趣旨に基づいて、霊・主・神のうち唯一の女性名詞である「霊〔プネウマ〕」を重視して、読み解いてみましょう。11節「彼女」という訳は霊という名詞を指しています。
7 さて各人にその霊の現れが共益のために与えられている。 8 というのもその彼に実際その霊を通して知恵の言葉〔ロゴス〕が与えられているからである。さて他の人に知識の言葉〔ロゴス〕が同じ霊に応じて、 9 別の人に同じ霊において信が、さて他の人に癒しの諸賜物が一つの霊において、 10 さて他の人に力の諸作用が、さて他の人に預言が、さて他の人に諸霊の判別が、別の人に舌の諸種類が、さて他の人に舌の解釈が(与えられている)。 11 さてこれらのすべての諸事柄を一つかつ同じ霊が働かせている。彼女が望むように各人に個別に配分しながら。
3節「霊において」の繰り返しが聖句の中心を探るヒントです。同じ前置詞エンが用いられています。英語のinに相当します。9節「同じ霊において信が」「癒しの諸賜物が一つの霊において」与えられているということに中心があります。「与えられている」という主動詞は7・8節にしかありません。だから、7節の「共益のために与えられている」という部分も重要です。信や癒しの目的です。まとめると、「同一の霊において信と癒しが共益のために各人に賜物として与えられている」ということをパウロは言いたいのです。ここに教会の本質があります。
「知恵の言葉」は「霊を通して」(8節)与えられるので、信・癒しに劣後します。「知識の言葉」も「霊に応じて」(8節)与えられるので、信・癒しに劣後します。パウロという人は論じる人、理屈っぽい人、言葉・論理(ロゴス)の人です。聖書宗教は「律法(トーラー)」というものの朗読を中心とした礼拝を形成しました。法的であること・論理的であることはユダヤ教から派生したキリスト教会(ユダヤ教ナザレ派)に継承されました。現在の教会においても法的思考・論理的思考は培われます。しかし、教会の本質は言葉ではなく霊です。なぜなら、言葉によって人は信を得ないし、言葉によって人は癒されないからです。ただ霊によってのみ、わたしたちは「イエスは主」という信を与えられ、ただ霊によってのみ全存在の癒しと救いを経験できます。「文字は、殺し霊は生かす」(二コリント3章6節)。正典である聖書という言葉は、自らを自省する言葉を残しています。「聖書のみ」というプロテスタント全般に共通するスローガンも批判されなくてはいけません。
女性名詞「霊」の重視は、白人成人男性の文化から生まれたバプテスト教会の言葉重視の教会形成をも批判しています。会議が多く、言葉を持っている人が支配的になるという点です。民主的運営と言いながら、民の一部を合法的に排除していないかが問われています。
10節に列挙されている「力の諸作用」「預言」「諸霊の判別」「舌の諸種類」「舌の解釈」も「霊において」と明記されていないので、信・癒しに劣後します。これらは目や耳に明らかな現象です。仕事が良くできる人の出来栄えや成果(力の諸作用)、分析して発表する情報処理能力(預言、諸霊の判別)、理解しにくい他人の言葉も聞き分け、それらを解釈する能力(舌の諸種類、舌の解釈)は、その人の能力に属するものです。そして、その人に権威を与えやすいものです。その派手さのゆえに、信・癒しに劣後します。教会において本質的に重要なことは、目に見えず・耳に聞こえず・手で触れないことです。いかに自分が神に信を寄せているか、いかに神が自分でさえ信じてくれているか。いかに自分が神に癒され、いかにわたしたちが相互の癒しに仕えているか。これこそいつまでも残る最も重要な事柄です。そしてこれこそ「共益」(公共の福祉)という目的に資する働きです。
こうしてわたしたちは、能力主義と権威主義から救われます。他人と比べて自らを卑下したりすることや、隣人を見下したり支配しようとしたりマウント行動を取ったりすることから解放されます。なぜなら「これらのすべての諸事柄を一つかつ同じ霊が働かせている」からです。異なる他者の存在は「彼女〔霊〕が望むように各人に個別に配分しながら」なされた聖霊の業に由来します。比較は意味がないのです。隣人との比較(支配すること/支配されること)をしている限り、神への全幅の信が与えられていないとも言えるし、全存在の癒しがなされていないままに日々を過ごしているとも言えます。
今日の小さな生き方の提案は、聖霊を求めることです。復活のイエスを天へと見送った後、120人の老若男女が集まって祈っていた時に、各人に舌のような炎が与えられた時を思い出しましょう。その時、復活のイエスを主キリストと公に告白する信仰の自由、自らの信仰を明らかにする勇気が与えられました。その時、イエスを裏切り見捨て殺した罪の癒しがなされ、支配をしたがる罪・序列をつけたがる罪からの解放がなされ、互いに給仕する癒しの共同体が始まりました。各人は異なっていて当たり前です。霊はすべての異なる者に、異なる舌(言語や文化)を持つ者に、配分されたからです。各人が異なるままに教会が一つの思いになっていたことも当たり前です。この霊が一つかつ同じ霊であるからです。同一の霊は信と癒しのネットワークを包みます。
神は、「アッバ」と呼ばれた神、イエスという人となった神、ヤハウェの霊・イエスの霊である聖霊という、三つの他者(あえて言えば「老若男女」等)を内に抱える一つの神です。この神の性質が教会の本質と重なります。異なる他者を歓迎する時、教会は聖霊を常に求める共同体となります。