霊よ、四方から エゼキエル書37章1-9節 2024年5月19日(聖霊降臨祭)礼拝説教

東京北教会のみなさんと、合同で教会の誕生日であるペンテコステをお祝いできることに感謝をいたします。多文化共生を掲げる東京北教会は、ペンテコステによって創設されたキリスト教会本来の魂を前面に掲げておられると敬服いたします。ちなみに泉教会の正面にあるステンドグラスも聖霊降臨祭の出来事を表したものです。本日はエゼキエル書37章をペンテコステの視点に立って分かち合いたいと思います。それは「」(ルーアハ。1・6・8・9節)が神の民・礼拝共同体を生み、生かしているということです。

1 ヤハウェの手が私の上に生じた。そして彼はヤハウェの霊で私を出させた。そして彼は私をその盆地〔女性名詞〕の真ん中に休ませた。そして彼女は骨々〔女性名詞〕の充満。 2 そして彼は私を彼らの上に囲み囲み渡らせた。そして何と、その盆地の面の上に非常に多い。そして何と、非常に乾いている。 3 そして彼は私に向かって言った。「人の子、これらの骨々は生きるか。」そして私は言った。「ヤハウェ、貴男、貴男こそが知るのだ。」

エゼキエルは第一次バビロン捕囚(前598年)を経験し、支配国の首都バビロンの地で預言者となった人物です。バビロンの支配に置かれた南ユダ王国はその後独立戦争を起こしますが敗れて第二次バビロン捕囚が起こります(前587年)。これは決定的な敗戦となり南ユダ王国は滅亡します。祖国完全滅亡の知らせが、バビロンに連れてこられたユダヤ人たちを絶望させます。

その盆地」(1節)はバビロン近郊のとある場所でしょう(3章22節参照)。「骨々(1・3節)」は女性名詞であるにもかかわらず、「彼ら」(2節)と男性人称代名詞で受けています。文法的に破れています(4節にも同じ組み合わせあり)。この破れは、「非常に多い」「非常に乾いている」(2節)「骨々」が実際の骨なのではなく何かの譬えであることを示しています。つまり生きている人間の比喩。人生に絶望している捕囚民・ユダヤ人の譬えです。続く11節にも民の嘆きが記されています(33章10節参照)。今まで人生の頼みとしていたものが全てなくなってしまったのです。それはダビデ王朝、エルサレム神殿、犠牲祭儀、祭司制度、約束の地です。

エゼキエルの目の前には夥しい数の絶望にうちひしがれた老若男女がいました。「ヤハウェ」(3節。新共同訳「主」)という名前をもつ神は、この飼い主のいない羊のような人々の状況を、牧者エゼキエルに知らせます。「彼らの上を囲み囲み渡らせた」のです。知らせたうえで神は問います。「人の子、これらの骨々は生きるか(未完了)」。「生きる」で直訳です。「生き返る」であると死んだ人の復活の意味が強くなります。過去に死んだ人ではなく、今生きている、魂の渇きを覚えている人が「生きる」という将来があるかと、神は問うているのです。エゼキエルは、「ヤハウェ、貴男、貴男こそが知るのだ(完了)」とだけ答えます。預言者は謙虚です。

4 そして彼は私に向かって言った。「貴男はこれらの骨々〔女性名詞〕の上に預言せよ。そして貴男は彼らに向かって言え。『その乾いた骨々、貴男らはヤハウェの言葉(を)聞け。 5 このように私の主、ヤハウェは言った。これらの骨々のために、何と、私は貴男らの中に霊を来させつつある。そして貴男らは生きつつある。 6 そして私は貴男らの上に筋(を)置きつつある。そして私は貴男らの上に肉(を)上らせつつある。そして私は貴男らの上に皮膚をかぶせつつある。そして私は貴男らの中に霊を置きつつある。そして貴男らは生きつつある。そして貴男らは、私がヤハウェということを知りつつある。』」

 真の大牧者であるヤハウェの神が、エゼキエルに命令します。「これらの骨々の上に預言せよ」(4節)。「預言する」という行為は、受身や相互行為の談話態で通例用いられます。ここでもそうです。ここに預言とは何かの示唆があります。預言とは、神から受けた言葉を、人々を生かすため人々に伝える行為ですが、真空パックとなった「神の言葉」の素通りではありません。受けた言葉を自分の中で反芻し熟考して言葉を練り直すことでもあります。また聴衆との間のキャッチボールもあります。打ちひしがれた人々を慰め励ますためにどうすれば伝わるか練り直すことも必要です。そしてそれが真に神の伝言にふさわしいのかを再び神に投げ返す作業も必要です。それらの仮想定と準備体操があって、その後に実際に預言者は民に神の言葉を語りだします。それら一連が「預言する」という行為です。今日で言う説教/宣教と似ています。

 本日の箇所は預言者の心の中の準備体操を文章にした珍しいものです。シミュレーションがエゼキエルと神との間でなされています。「この状況にある民にこの内容を語ると、こういったことが起こる、次にこう語ればこれが起こる」と、神は預言者に丁寧に説明しています。4節途中から始まる『…』で示した部分が、エゼキエルが民に語るべき第一の言葉群の内容です。

 第一の言葉群の重要な点は、「霊を来させつつある」(4節)が現在進行形であるということ、そしてその動詞以降7つの動詞全てが現在進行形と訳しうるということです。もう事柄は始まっており、現在も進行中であり、誰も止めることができない、なぜならそれが神の出来事だからです。骨に肉と筋と皮膚が付くことは、組織の成り立ちの譬えです。この絶望して魂が飢え渇いている一人一人が、新しい共同体のメンバーとなるということを意味しています。その共同体は、「私はヤハウェということを知」る信仰共同体です。新しい出エジプトの民であり(出20章2節。「私はヤハウェ」)、「イエスは主」と賛美する礼拝共同体の原型です。

7 そして私は、私が命じられたように預言した。そして私が預言した時に音が生じた。そして何と、振動。そして骨々が近づいた。骨が、彼の骨に向かって(近づいた)。 8 そして私は見た。そして何と、彼らの上に筋と肉が上った。そして皮膚が彼らの上に上からかぶさった。そして霊が彼らの中になかった。 9 そして彼は私に向かって言った。「貴男はその霊に向かって預言せよ。貴男は預言せよ、人の子。そして貴男はその霊に向かって言え。『このように私の主、ヤハウェは言った。四よりの霊々、その霊〔女性名詞〕は来い。そして貴女はこれらの虐殺されつつある者たちの中に吹け。』そうすれば彼らは生きる。」

 エゼキエルは乾いた骨に、神が命じられた通りに預言します。すると瞬く間に骨同士が近づき、筋・肉・皮膚がつきます。しかしなぜか預言は完全に実現しません。「」が来ないので「生きる」ということが起こらないのです。第一の言葉群だけでは「霊が彼らの中になかった」というのです(8節)。それゆえにこの体は生きていません。最初のアダムが神の息の吹き込まれるのを待って寝そべっているような状態です(創世記2章7節)。復活したイエスの昇天後の10日間、120人ほどの老若男女が心を合わせて祈っている状態というものも、これに似ています(使徒言行録1章)。

組織というものは、ある意味で簡単に作ることができます。強い一人のリーダーがいれば、エルサレム神殿やバベルの塔のような巨大建築物があれば、一つの神の民があれば、単一の聖なる血統・王朝があれば、同一共通の目的があれば、一つの言語があれば、骨の上に肉も筋も皮膚もついて体になりえます。しかし礼拝共同体・信仰共同体はそれでは生きません。見えず・聞こえず・触れない神を信じる群れだからです。唯一無二の復活者に触れなくなる状況が弟子たちを中途半端な状態に陥れています。

加えて第二の言葉群(9節)が必要です。第一の言葉群は、民に向かう現在進行形の約束、実行が開始している未来の希望でした。それだけでは不足している。霊が神の言葉通りには来なかったからです。三位一体という教理を考える際に興味深い現象です。聖霊はただ単に「ヤハウェ/アッバ/イエス」から遣わされるだけの存在ではなく、使命を拒否することもできる「自由な霊」です。神が神の言うことを聞かないという一部制御不能の事態に陥っています。

困った事態の打開のために神は第二の言葉群をエゼキエルに授けます。「貴男はその霊に向かって預言せよ」(9節)。預言は民に対してだけではなく神にも向けられなくてはいけないというのです。説教は聴衆にのみ語られているのではなく、神に向かって発する祈りでもあります。説教者が語ればその言葉が地上に実現するというのはおまじないの世界、絶対王政の社会です。

神はエゼキエルに強烈な球を投げます。「自分(霊である神)に改めてもっと強い球を投げ返せ。神に預言し、霊に命ぜよ。霊を来させよ。熱心に祈れ。そうすれば彼らは生きる。」エゼキエルは力いっぱい、「四よりの霊々、その霊〔女性名詞〕は来い。そして貴女はこれらの虐殺されつつある者たちの中に吹け」(9節)とヤハウェの霊に面と向かって命令します。この第二の言葉群によって、信仰共同体が生きて立ち上がりました(10節参照)。

ここで重要なことは、「四よりの霊々」という表現です。「四より」を方角ととらえれば東西南北からの風とも考えられます。「吹け」という動詞もその解釈を補強しています。どうすれば破局と絶望の中で今も「虐殺されつつある者たち」が生きるのか。発想の転換が必要です。一つの頂点・中央から四方へ恩恵を行き渡らせる考えではなく、四方から自由に吹いて入ってくる風を受け止める共同体は生きるのです。権威主義的・閉鎖的な民は滅びます。

もう一つの解釈がありえます。「四より」を比較級と考えれば四つ以上の霊々とも考えられます。出エジプトが3人の姉弟という指導者たちによってなされたことを思い起こします。新しい出エジプト、新しい神の民がここで起こるのです。それは指導者たちの数がどんどん増えていく民です。4人よりも多い指導者層、ステファノたち7人のギリシャ語を第一言語とする指導者たちが選挙で選ばれたこともその実現の一つです。72人の長老たちに霊が降り(民数記11章)、120人の男女に聖霊が火の舌として降ったこともそうです。

「万人預言者」である信仰共同体は、生きる。現実状況に押しつぶされつつある最中にあって人々と神に向かって預言し、「わたしたちの只中に、夥しく分かれることができる聖霊よ、来てください」と命じる祈りが、教会を生かすのです。分かりやすい拠り所がある組織は拠り所の崩壊と共に崩壊しがちです。柔軟な対応ができないし、自走組織ではないからです。エゼキエルに祈れ(霊に預言せよ)と命じた神は、ここに集まる全ての「人の子」(3・9節。ベン・アダム)に「聖霊の到来」を熱く祈るように命じています。主の霊のある所に自由があり、個人の自由が保障されている組織が実は組織としても強いのです。ちなみにエゼキエルとは「神が強める」という意味の名前です。

今日の小さな生き方の提案は、心を開くこと、自由な神を人生の主と告白しながら神をも批判する自由を持つことです。そのような個人が集まって開放的な教会となること、複数のリーダーシップ(老若男女)や複数の言葉(多文化)をもつ教会となることです。そうすれば、この世界で肩身が狭い思いを強いられている人々も、そうではない人々も、自由に生きる交わりとなります。この願いを霊に預言しましょう。「四よりの霊々、我々のうちに来い。」