アドベントの第四週目になりました。例年では第四週にクリスマス礼拝を行うのですが、今年は12月25日が日曜日にあたっているので、25日の日にクリスマス礼拝を行います。先週に引き続きバプテスマのヨハネを通じて救い主がどのような方としてこの世界にお出でになったのかを考えていきたいと思います。
ヨハネの二人の弟子はお使いを終えて帰りました。その後にイエスは群衆に向かって質問します。この質問は掛け合いを想定しています。黒人教会の説教のように、聴衆の即時の応答を期待しています。イエスの説教がとても生き生きとしたものであったことをうかがわせます。
「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か」(24節)。聴衆はこの質問に、首を振ります。答えは明らかに「否」です。彼らはバプテスマのヨハネを見るために荒れ野に行ったのです。
「では何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か」(25節)。この質問に対しても当然「否」です。イエスも含めすべての人はヨハネの服装を知っているからです。「ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め」ていました(マルコ1章6節)。だから続けざまに語る「華やかな衣を着て、ぜいたくに暮らす人なら宮殿にいる」という言葉に、聴衆は大きく頷きます。
ヨハネがメシアかも知れないと思っていた人もいました。ヨハネはそれを明確に否定しました。自分はメシア(=ダビデ王の再来)ではないと言っています。ダビデ王の再来ならば、しなやかな服・華やかな服を着て、宮殿でぜいたくに暮らしているはずです。この点で、ヨハネとイエスは同じ意見です。イエスは上手い演説手法で、ヨハネがメシアではないことを補強し、聴衆を説得しています。
「では、何を見に行ったのか。預言者か」(26節)。風にそよぐ葦に対して「否」、しなやかな服を着た人に対しても「否」。この流れで、預言者に対して「その通り」と聴衆は頷きます。なぜなら、彼らは預言者エリヤの服装がヨハネに似ていること、また、ヨハネの行動もエリヤに似ていることを知っているからです。エリヤも「毛衣を着て、腰に革帯を締めていました」(列王記下1章8節)。また、エリヤもヨハネと同じように国家権力を厳しく批判したのでした(列王記上17-18・21章)。ヨハネがエリヤの再来であることを信じている聴衆は、「アーメン、その通り」と即座に応答します。
それに応答して、イエスも「そうだ」と言います。聴衆がいるからこそ、この「そうだ」の説明がつくのです。さらに畳み掛けるようにしてイエスは、「わたしはあなたたちに言う」と新しい情報を伝えます。この新しい情報と古い情報(ヨハネは預言者だ)との合成こそ、イエスが考えるヨハネ像です。イエスはヨハネを誰だと考えていたのかが、ここで明かされます。そしてヨハネが誰であるのかが分かると、同時にイエスが誰であるのかが分かるようになります。ヨハネは「預言者以上の者」でもあります。
ヨハネは預言者であり、預言者以上の者であるということは、ヨハネが史上最高の預言者であるということです。ヨハネの優れている点はどこにあるのでしょうか。
モーセやエリヤと比べると劣るように思えます。旧約聖書中最高の預言者はモーセです。出エジプトの指導者であり、十戒を神から授けられ、民の代表として神と契約を交わしたからです。ヨハネはイスラエル民族全体を救ったり、代表したりはできませんでした。モーセの次に偉大な預言者とされるのはエリヤです。確かに格好は似せましたが、ヨハネは死者をよみがえらせる奇跡を行いません。ヨハネはエリヤにも見劣りしています。
それにもかかわらず、「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない」(28節)という高い評価をいただいている理由は何でしょうか。その理由は、結局「バプテスマ」という儀式をヨルダン川で独特な意味を持たせて行っていたことに尽きます(29・30節)。今までの預言者たちはバプテスマを行いませんでしたが、ヨハネは意義深い形でそれを行っていました。類似例は、預言者エリシャがナアマンというアラム軍司令官のハンセン病をヨルダン川で癒したという物語にありますが、バプテスマとは異なります。
6月5日にヨハネのバプテスマの特徴については申し上げていますが、もう一度おさらいをします。ヨハネはエッセネ派というユダヤ教の修道生活を重んじる教派から枝分かれして、ヨルダン川沿いの荒れ野で活動をしていました。ヨハネは、エッセネ派からならった室内沐浴の習慣を一生に一回のものに格上げし、ヨルダン川という公開の場面に設定し、公衆の面前での生き直しを各個人に迫りました。この一回きりの公開バプテスマにヨハネの新しさがあります。「荒れ野」の意義は、ヨハネが密室から出て世界に向けた発信をしたというところにあるのでしょう。
旧約聖書の預言者との比較で言えば、バプテスマという儀式を生き直しの具体的道具としたことが優れた点です。預言者たちも、権力者にも一般の人々にも「神に立ち帰れ」「翻って生きよ」「神の望む生き方に生き直せ」「悔い改めよ」と言葉で迫りました。しかし、王も民も言葉を聞いただけ、読んだだけで、何の効果もありませんでした。良いことを聞いて感動しても、耳に痛い正しい警告が心に響いても、案外人間というものは忘れやすいものです。五感全体で感じなくては、生き方の血となり肉となりにくいものです。そこに儀式の意義があります。
生き方を変えるという人生の一大変換です。全身で感じる必要があります。そうすれば忘れないからです。しかも公衆の面前で行うのですから、ハードルは高い。勇気が要ります。こうして全ての人にとって分かりやすく、悔い改めという生き直しに非常に効果的な儀式利用を、ヨハネは始めました。実際に生き方が変わった徴税人が多くいたので、民衆はヨハネを支持しました。人々を悔い改めさせることに失敗した預言者たちと比べて、実際に人々の生き方を持続的に変えさせた点に、ヨハネの偉大さがあります。人生の中で一回だけに回数を限定したので、逆戻りしづらくなったのです。
ヨハネは最高の預言者です。奇跡以上の奇跡を行っています。人々の日常の生き方を変えることこそ、最も重要であり最も困難な仕事だからです。
そのヨハネが、イエスを指して「わたしよりも優れた方」と呼びます(3章16節)。イエスこそ救い主・メシアだというのです。イエスこそ「預言者以上の者以上の者」です。当時の人々は、メシアが来る直前に預言者エリヤ(の再来)が現れると信じていました。27節は、マラキ書3章1節の引用です。同23-24節には、この使者がエリヤ(の再来)であることが書かれています。ちなみにマラキとは「わたしの使者」という意味です。だから、神が遣わす使者エリヤは著者マラキを指していたのかもしれません。著作時点では。しかし、新約聖書の時代、マラキ死後数百年経っているので、人々は別のエリヤ(の再来)を待ち望み、その直後のメシア到来を待ち望んでいました。
逆から言いましょう。イエスがメシアであるとするならば、その直前に来るはずのエリヤは誰なのかという問いを、常にユダヤ人は持っていました(マルコ9章11節。マタイ27章47節)。そしてキリスト教信仰において、エリヤはヨハネのことです(マルコ9章13節、ルカ1章17節)。「エリヤがヨハネであり、メシアがイエスである」、これがわたしたちの伝統的信仰です。クリスマスにおいて、まずエリヤが到来し、半年後にメシアが到来したのです。
最後に残った問題は、「しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」(28節)という言葉の意味です。この謎の言葉をどのように考えたら良いのでしょうか。「女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者がいない」なら、神の国の住民はことごとくヨハネより偉大ではないはずです。皆女の人から生まれたからです。ここには、イエスの言葉にありがちな逆説の匂いがします。逆説とは、一見すると間違っているように思えるけれども、よくよく考えてみると真理の一面をついている言葉のことです。
神の国の住民について考えてみましょう。どのような人々が集まっているのでしょうか。それによってヨハネとの比較ができるでしょう。神の国は正式に招かれた人以外の者、この世界で肩身の狭い思いをしている「小さくされている者たち」のものです(14章15-24節)。神の国は乳飲み子のように、最も小さな者たちのものです(18章15-17節)。そしてどこかにある理想郷ではなく、わたしたちの間に今ある交わりです(17章21節)。
イエスの考える神の国はこの世の常識が逆さまになっている交わりです。いつも威張っている人が給仕をし、いつも軽蔑されている人が尊重される交わりです。神の国はイエスの回りにかたちづくられていました。イエスの交わりにおいては、最も小さい人は最も偉大な人なのです。
ここにヨハネの弱点があります。ヨハネはバプテスマという儀式をできる限り自分で行ったことでしょう。相互の儀式でもなく、組織全体の儀式でもありません。ここには個人崇拝が起こる可能性があります。ヨハネだけが偉いという宗団です。儀式は儀式を行う権限を持つ者の権威付けに役立ちます。平たく言えばヨハネは宗団内部で威張っていたに違いありません。外部においても有識者として名が通っていたのですから、宗団の外部でも威張っていたかもしれません。だから、神の国では靴ひもを解く仕事や、足を洗う仕事、給仕をする仕事をしなくてはいけない人なのです。ちなみにイエス自身は、このようなバプテスマ執行者の権威付けや威張ることに反対していたのか、バプテスマを弟子たちに行っていません(ヨハネ4章2節)。
キリスト教会はイエスの十字架・復活・昇天、聖霊の降臨の後、バプテスマを入信・入会の儀式として採用しました。一生に一度の大事なものと考え、ヨハネを継承しました。人間の生き方が変わり、しかもその良い変化が長続きするためには全身浸礼が良いということを知ったからです。バプテスト教会は、全身浸礼の意義を強調します。今日的には、その強調をひとりひとりの生き方の転換と結びつけるべきでしょう。
その一方で儀式を用いる時に常に注意が必要です。儀式は司式者の権威付けや神格化に悪用されやすいものです。牧師は教会で最も低く仕えるべきです。また牧師以外にも全ての人に儀式の執行権限を広げるべきです。
今日の小さな生き方の提案は、儀式を大いに用いるということです。儀式それ自体や執行者が凄いのではありません。わたしたちにある「ありがたみへの崇拝」が問題です。自分の生き方が変わるために儀式が役に立つから、わたしたちは大切なものとして行うのです。礼拝で、主の晩餐で、バプテスマで、わたしたちは生き直しをすることができます。