2月「父母の会」礼拝説教

コリントの信徒への手紙一 12章31節 「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。」

今日の聖書は2月の暗唱聖句です。

賜物という言葉は「与えられたもの」という意味です。子が親に与えられるものは莫大です。ほとんどすべてと言っても良いでしょう。子から見て、ほとんどすべては親からの賜物と言えます。

ところで逆に親が子に与えることができるものはどうでしょうか。矢印が逆になっても同じものが与え/与えられるのでしょうか。少し異なるように思えます。つまり、親が特定のものを与えたと思っても、子に実際に思ったものが思った如くに与えられるかは別なのではないかということです。ここにはずれがありうるでしょう。

たとえば何かの習い事を与えたとします。何らかの思惑があって与えるわけです。「音楽ができるように」「運動ができるように」「英語ができるように」などなど。しかし、結局長続きしない/練習をさぼる/講師の物真似だけ覚えた、などという事態は多くあります。「こんなにも良いものを無償で善意に満ちあふれた形で与えているのに、なぜやる気にならないのか」。親としては文句を言いたくなるものです。

ここではたと気づくのは、本当に与えたかったものは「子どものやる気」だったということです。我が子が思い通りになることではなく、我が子が自分の意思をもち、誠実に事柄に取り組むことこそが、親の真の願いであるはずです。この部分が欠落したり、希薄になったりすると、仮に習い事が長続きしても非常に皮肉な現象が起こるでしょう。親が先に習い事の入会を決め、親がお尻を叩き続け、親が完遂させるならば、子の意思が育たなくなります。

もし親が心に余裕を持つならば、子どもの「逸脱」をも楽しむことができるでしょう。子どもから見れば「この習い事に親は嫌になるほど厳しい、嫌だな」ということを学ぶ機会にもなります。親が反面教師になりうることも含め、子は親からほとんどすべてを賜物として受け取っているということは、回り道も含めてのことです。もちろん親はそのような感想を持たせるために育てていません。そんなものは与えていないという主観があります。子みずからの力で、考えることができたのです。それは大事な成長でしょう。

先日の村上哲朗さん(東洋英和大学副学長)の話にも過保護・先回り・過干渉の課題が出ていました。それは考える力を阻害し、自立・自律の妨げになりえます。今申し上げた「与えたはずなのに、もらい損ねるかもしれない」ということを怖れる親心理も、それを助長しているように思えます。大学受験に親が付き添う、卒論担当教官に親が交渉する、就職面接に親が付き添うなど、ぞっとする現実が起こっています。

最も思い通りにならないのが我が子であり、自分の考えに責任を負って生きるという人間に育てることが子育てであるということを知りたいものです。与えたものを好きなように変えて良いし、それを楽しむ度量が必要とされています。