「そして彼(エサウ)は言った。『私たち(エサウとヤコブ)は旅をし、行こう。そして私(エサウ)はあなた(ヤコブ)と向き合って行きたい』」(12節)。
先週、長年の兄弟けんかを止めて、仲直りをした双子の兄弟。この後、二人はどのような歩みをするのでしょうか。兄エサウは、弟ヤコブと共に並んで旅をすることを望みました。二列になって、エサウの住んでいるエドム、セイルの地に行こうと招きます。エサウがヤコブの前を歩いて「先導する」(新共同訳)ととると、13・14節の内容と多少の食い違いが生じてしまうので、本日は「向き合う」と考えます。「向き合う」(ネゲド)は、アダムとエバ夫妻の関係を指す言葉です(2章18節)。夫婦のように向き合う関係を双子の弟と結び直して、将来的にはセイル地方に暮らすことを、エサウは望んでいたように思えます。互いに向き合うという関係は、非常に近い関係であり、対等の協力関係です。
まずは自宅にヤコブ一家を招いて歓迎のパーティーを開こうとしたのでしょう。弟息子を歓迎して受け入れたあの父親のようにです(ルカ福音書15章)。エサウは心の広い愛情を示しています。その先には近所に暮らすという期待があります。ところがヤコブはこのありがたい申し出を断ります。ここから物語は放蕩息子の例え話からかけ離れていきます。
「そして彼(ヤコブ)は、彼(エサウ)に向かって言った。『私の主人(エサウ)は、子どもたちが弱いこと、羊と牛は私の責任で授乳をしていることを知っています。私がそれらを一日駆り立てたら、すべての羊は死ぬでしょう。どうか私の主人が、彼の男奴隷(ヤコブ)の面前を渡るように。そして私自身は、自分のゆっくりとした歩調で、自分の面前にいる家畜の足に応じて、子どもたちの足に応じて導いて行きたいのです。私の主人のもとへと・セイルへと私が至るまで。』」(13・14節)。
ヤコブは股関節を痛めて足をひきずっています。その自分の足をさすりながらヤコブはエサウに言います。「自分はゆっくりしか歩けない。子どもも羊も牛も、そして私もか弱い存在であり、あなたの家来である屈強な男性たちと一緒に歩けない。足でまといにしかならない。どうか自分の前を通り過ぎて先に行ってほしい。後からゆっくりとセイルにあるあなたの自宅に向かうから。」
ヤコブの手元に残っていた家畜は(エサウに贈り物にしなかった羊と牛は)、子牛や子羊が多かったようです。とても弱い群れです。さらに自分の子どもたちと妻たちがいます。妻の中には目が弱いレアもいます。自分自身は怪我を負っています。家畜だけではなく人間たちもまた、社会的には弱い存在が集まっています。それがヤコブの群れ、イスラエルという民です。それに対し、エサウの群れは、成人・健常者・男性の401人です。同じペースで歩く強さがないので、どうぞ先に帰ってほしいとヤコブは願います。
人の好いエサウはヤコブに同情します。足の悪いヤコブのために介助者を付けて、旅を守ろうとします。そうすれば一緒にセイルの自宅まで旅をすることができると思ったからでしょう。エサウはヤコブと共に生きるために、できる限りの親切を示して、実際に汗をかこうとします。「ボランティア」という手話表現が、共に歩くという表現であることを思い起こさせます。
「そしてエサウは言った。『どうか、私と共にいる民の中から(誰かを)、あなたと共に置かせて欲しい』。そして彼(ヤコブ)は言った。『それは、なぜか。私は私の主人の目の中に恵みを見出している(のに)』」(15節)。
驚いたことに、ヤコブはこの親切も断っています。英語圏のユダヤ教徒向けの英訳聖書JPSは「Oh, no, my lord is too kind to me!」と訳しています。ヤコブの本音をうまく表した名訳です。ヤコブは、実のところエサウと共に旅をすることをなるべく避けたい。そのために様々な理由を言い立てて、なんとか別行動を取ろうとしています。婉曲な拒否です。
それに対するエサウの態度も驚きです。エサウは、心の広さをさらに示します。ヤコブの過去の悪事を赦しただけではなく、「共に旅をしたくない」という、わがままなヤコブの言い分をも認めてあげるからです。
「そしてその日にエサウは戻った、彼の道に応じて、セイルへと。しかしヤコブはスコトへ旅し、彼のために家を建て、彼の家畜のためにいくつかの仮庵(スコト)を作った。それゆえに彼はその場所の名前をスコトと呼んだ」(17節)。原文は下線部分を強調しています。だから、ヤコブは共に旅しようというエサウの誘いを蹴って、自分だけでスコトへ旅したのです。
二人が再会した場所(ペヌエル)から見て、セイルは南、スコトは西にあります。エサウは正直にセイルに戻る道を歩きます。ヤコブがその後にゆっくりと同じ道を歩くことを期待して旅をしたと思います。実際ヤコブはそのような予定を言っています(14節)。ところが別れた途端にヤコブは違う道を西に向かって旅する。セイルの自宅に戻ってからもエサウは弟を待っていましたが、ヤコブは一向に来ようとしません。エサウはヤコブに騙されたのでしょうか。
そうではないでしょう。なぜなら先週の仲直りは二人にとって意義深いものであったからです。この後共同で父イサクの葬儀を行うのですから、仲直り状態はずっと続いたのでしょう。ヤコブはエサウを騙したのではなく、エサウはヤコブの婉曲な断り方を深く理解したのだと思います。「ここまで待っても来ないということは、やっぱりあれは婉曲に『セイルには行かない。距離を保ちましょう』とヤコブは言っていたのだな」と、エサウは察します。そしてこれ以上深追いをしません。「なぜ来なかったのだ」と言ってヤコブを追いかけたり、咎めたりしません。
これまでさまざまな経緯がありました。その中で二人共深く傷つきました。双子ではあるけれども、自分たちは共に旅をしたり、近くに住んだりしない方がよい。あえて言えば「近くで共に生きない方がお互いのために良い」ということを、ヤコブははっきりと分かっていたし、エサウも薄々感じていた。離れ離れのこの20年間何か不都合があったでしょうか。だから別行動を取ることをお互いに認め合ったというのが真相だと推測します。
二人にはそれぞれの道・生き方があります。エサウは、父の家を離れてセイル地方に定住することを選びました。その生き方も尊敬され尊重されるべきです。その一方で、ヤコブは約束の地に入り、先祖からの祝福を継承しながら、先祖と同じく生涯「仮庵」に暮らすという生き方を選びました。転々と仮住まいを繰り返して、決して定住をしないという人生です。約束の地にいるのだけれども、常に約束の地(神の国・理想の社会)を目指すという生き方です。その土地に住みながら、その土地の文化を神としない。アブラハムとサラ、イサクとリベカもそのように生きかつ死んだのです。
地名スコトの名付けに、イスラエルの決意が示されています。もし、兄エサウと共に旅をし、セイルの地に土地や家をもらって定住したら、何か自分の人生は間違えてしまうような気がする。ヤコブはラバンとの別れを思い出しています。伯父であり舅であるラバンの家にお世話になり、結局永遠に会えなくなってしまった経験です。近すぎると修復できない亀裂も生まれます。エサウとは適切な距離を保ちながら、互いに尊重し干渉しすぎないという関係のままでいたいとヤコブは考えます。このような良い関係のことを聖書は「平和」と呼びます。「平和」という名詞は「シャローム」、形容詞・副詞になると「シャレム」です。ヤコブは良い関係をたもつためにヨルダン川を渡り、約束の地・カナンの地に入ります。
「そしてヤコブは、彼がパダン・アラムから来る時に、平和に(シャレム)カナンの地にあるシケムの町に来、その町の前に宿営した」(18節)。
ヤコブはシケムという人の住む、シケムという町にたどりつきます。祖父アブラハム・祖母サラも、ハランを出て最初にシケムという町を訪れています(12章6節)。ヤコブと4人の妻は、アブラハム・サラ夫妻を継承しています。
またヤコブ一家の行動は、この後の歴史とも関係があります。出エジプト記に記されたイスラエルの民の行動です。ヨルダン川の東側から西へと渡ってカナンの地に入るという方法は、ヤコブの子孫であるイスラエルの民が出エジプトを果たして約束の地に入る時に使った方法でもあります。ヤコブ一家は、イスラエルの民の原型です。聖書の物語にはこのような縦糸があります。神がおのれの民を救う道には、筋道というものがあるのです。旧約聖書は読みにくい本ですが、この「似たような救いの道のり」という筋を探しながら読むと少し読みやすくなります。いくつもの救いの卵が、新約聖書においてイエス・キリストや、キリストの教会において孵化します。
「そして彼(ヤコブ)は、彼の天幕を張った野の一部を、シケムの父親ハモルの息子たちの手から100ケシタで買い、そこに祭壇を立て、それをエル・エロヘ・イスラエル(エルはイスラエルの神)と呼んだ」(19-20節)。
ヤコブはシケムの城門の外に天幕を張り、しばらくそこに宿営しました。そして気に入ったのでしょう。天幕を張っていた原野の一部を買って、礼拝施設を立てます。祭壇は犠牲祭儀を行う場所です。カナンの地では珍しい礼拝、不思議な信仰だったかもしれません。「エル」はカナン神話の主神の名前です。それが転じて普通名詞「神」という意味でも用いられていました。祭壇の名前によって、「カナンの主神はイスラエルの神ヤハウェと同じだ」と、ヤコブは主張しています。
日本でキリスト教布教する時に、ギリシャ語セオス、ヘブライ語エロヒームの翻訳に苦労したと伝えられます。結局神道用語の「神(かみ)」を訳語にあてました。その事情と似ています。ヤコブは、土地の神エルと「主なる神」ヤハウェ・エロヒームは同じだと、シケムの町の前で犠牲祭儀という独特の礼拝をしながら、シケムの人々に「伝道」をしています。その土地に住みながら、その土地・文化を神としないのです。町の中に住まずに町の外に町のルールに従って土地を買い仮住まいを続ける。町に飲み込まれません。むしろ自分たちの伝統とシケムの習慣を対話させて、文化に呑み込まれず、文化を乗り越える道を示しています。この距離感も共存の道です。
今日の小さな生き方の提案は、適切な距離を保って共に生きるということです。共感しすぎない方が良いとさえ思います。旧日本軍による性暴力被害者の展示が、なぜ自分への攻撃という「共感」になるのでしょうか。向き合わない方が良い場合もあります。それぞれの道を別方向に歩いている方が共存できるのです。私たちに求められているのは感情ではなく技術です。少し離れた目で、ものごとを見ることです。法人事務は日本社会の法律上の責任として行うけれども、教会はいつも仮住まいの者として日本社会を批判的に見なくてはいけません。文化に飲み込まれずに礼拝によって伝道をしていきましょう。