2/11今週の一言

三位一体の神を論理的に説明することは不可能です。およそ神について論証することは野暮な行為でさえあります。神との出会いや神による救いを語るのは、信仰的/主観的な物言いに終始するものです。とは言え、神について考えて言葉化する努力も放棄すべきではないので、以下、三一神と最近の礼拝説教との関連を述べます。

礼拝説教の中で、モーセ五書の成り立ちを「JEDP理論」で説明することは、三位一体の神信仰にとって有益であると考えています。五書が複数の思想集団による合作であるということは、「神が三つで一つである」こととの対応とも捉えられるからです。聖書が旧約と新約の合本であることや、66巻からなる一冊の本であることも、その延長線上にあります。複数性→単数性という矢印の向きです。

礼拝説教の中で、旧約聖書の写本を紹介することは三位一体の神信仰にとって有益であると考えています。五書を核としてまとめられた「一冊の旧約聖書(=原本)」は、手写しによってさまざまな信仰共同体に受容され、若干の修正を施されつつ伝承されました。大まかに三つの写本の家系が確認されています。原本は未だに発掘されていないので、わたしたちは三つの家系を比較しながら、元来の本文を探らなければなりません(本文批評)。本文批評の作業と同時に、否、それ以上に重要なことは、多様な写本/信仰共同体の存在を喜ぶ姿勢です。それは「神が一つで三つである」ということと対応しています。複数性←単数性の矢印の向きです。

神の複数性と単数性はどちらも大事なことなので、この矛盾は放置しておく構えが必要です。また、「三つで一つ」「一つで三つ」はどちらも重要なので、矢印をいつも双方向にしたままにする構えも必要です。キリスト教信仰は、この種の「矛盾に対しても寛容な心」や、「葛藤に向き合う粘り強い精神性」と親和性があります。

神学者ユルゲン=モルトマンは三位一体の神は、教会および市民社会の模範型と考えます。成熟した社会は「多様性における一致」を実現できるはずです。キリスト者にとってその根拠は三一神およびその神への信仰にあります。不寛容な世相にあって葛藤しつつも粘り強く目標を目指しましょう。 JK